淡い腕

遠くの方で閉じていくような空を見ながら、ああだから高いところは嫌いなのだ、と思う。はね除けてもはね除けてもやわやわと青いヴェールを垂れ下げてくるようで、この世界には逃げ場がない、と思えてしまう。
丹念な整備を経てなお固い操縦桿を強く引きすぎた手のひらは、春先から夏までの間に引き攣れてこわばり、そちこちに赤く擦れた肉刺(まめ)を作った。装填をしている朋輩などは戦車の遠心力に振り回され、重たい弾に指を挟んで爪を割ったという。花しか知らぬと笑った砲手の手も今や歴戦の荒れ様。戦車道とはそういう生きざまとみえる。女子というものの幾らかを切り売りして、礼節の裏に押し隠しながら、相手を蹂躙し、奪い合い、道を刻んでゆく。狭い世界の中で、足掻いて、もがいて、道を見出だしていくとみえる。
生なましい傷に軟膏を刷り込む武部沙織の指は優しい。「ごめんねぇ」指の股にまで…一人で手当てをするとしたら、面倒で放っておくに違いない場所にまで…見逃さずに指を伸ばしながら、沙織はときどき、間の抜けた調子でそんな風に詫びるのだ。「何がだ」いちいち聞き逃さずに突っ込む自分も大概、沙織の扱いが上手であると冷泉麻子は思うのだった。
軟膏を塗った上からガーゼを巻きながら、だってぇ、と語尾をだらしなく伸ばして沙織は意気消沈しているようにも見える。いつものことだ。沙織はお節介で、でもそれを当たり障りのない言葉"以外に"するのが苦手なのだ。これが麻子でなければ、沙織は相手を気遣いその傷に悲しみ痛みに同調しながら、実に巧みに当たり障りなく相手を気持ちよく悲劇のヒロインに仕立て上げるだろう。沙織はそういうのが上手だ。でもそれは沙織の(有り体に言えば)建前であり、麻子のように付き合いも長ければ頭も回る手合いには、建前など主砲の前の紙くずほどにも役に立たない。沙織はそれをよく知っていて、だからこそ躊躇するのだ。いつも。沙織は優しくて、優しいから、本音で語り合うようなことは、あまり好きではない。
「なんか自分が情けなくなっちゃうよね」麻子の小さな手のひらを両手で包むようにしながら、ガーゼにゆるくテープを巻く。沙織の手つきは口調とは裏腹に淀みない。「麻子も華もゆかりんもさ」落ちかかる髪の毛を後ろに払って、沙織はため息の代わりに指の背で額の生え際辺りを擦る。「みほだって」
麻子の手のひらを包む、沙織の手は柔らかである。傷も水ぶくれもひび割れも、何もない。柔らかな、おとめの手のひらである。
沙織は優しくて、優しいから、いつもつまらないことばかりを気にする。
「別に」心底つまらないと思えて、麻子はつっけんどんに答えた。「操縦手だ。仕方ないだろ」「でもさぁ」ぐずるように沙織は唇を尖らせる。「麻子、あたしが言わなきゃ、戦車道やらなかったでしょ。麻子の手、こんなボロボロにならなかったよ」
柔らかな手のひらに、まるで罪のように視線を落としながら、沙織はぽつりとそう呟いた。
沙織は優しくて、優しいくせに、つまらないことばかりを、自分のせいみたいに思い込む。
車長が強く握り締めるキューポラの縁。砲手が片手で回す重たい砲塔。装填手が全霊をかける弾の群れ。操縦手が命を乗せる固く冷たい操縦桿。
戦車道はそういうものだ。礼節あるおとめの嗜み。しかし女子というものの幾らかを切り売りして、切り売りしなければ、どこにも辿り着けないのだろう。何も始まらないのだろう。沙織はバレー部の指を知っている。自動車部の手を。聖グロリアーナの紅茶女や黒森峰の隊長や、あっけらかんとして見えたサンダースの連中の傷だらけの指を。我らが隊長の誇り高く荒れた手を。
「そういうものだ」麻子は言う。そう言ってやるしかない。沙織の優しい指が止まってしまわないように。傷ひとつない柔らかな手のひらが、いつもみたいに優しく誰かに触れられるように。いつもみたいに平然と、言うしかない。
もう、そういう場所にいるのだと、麻子は思う。言葉にすると途端に嘘になるものたちを、指や、視線や、そういうもので分かり合うしか、ここにはないのだ。
沙織。
「沙織」
ん?と顔を上げる沙織は、柔らかに笑っている。痛いものを喉の奥に押し込んだみたいに。言葉にすると途端に嘘になるものたちを、その後ろに隠しているみたいに。
「こんなものはどうってことない」
言葉にすると途端に嘘になるものたち。
言葉にすると途端に、同情や、憐れみに化けるものたち。
沙織がどこにも辿り着けないなどと言うなら、何度だって違うと答える。その柔らかな手のひらが、我らが隊長の誇り高き背中を何度だって力強く支え続けたのを、麻子は知っている。華は、優花里は、ちゃんと知っている。
「だから、いいんだ」
ぼろぼろの指だって、沙織が薬をつけてくれたら、痛くもなんともないのだ。
言葉にすると途端に嘘になるものたちを、沙織は静かに笑って、飲み込む。
沙織は何も手放さなくていい。
きっとどこにだって行ける。

それちゃんとつけて寝なよ、と寄越した薄い手袋の甲のところにはピンク色のまるい生き物の縫い取りがあって、なんだこれはと訊ねるとあんこうだよと答えるのでそういうものかと思う。
沙織どこにも行かないで。

淡い腕

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