雷 第三十七話


 桂小五郎が戻ってきたのはその直後で、高杉とは入れ違いになった。
 桂はしっかりと引き締まった眉に、高杉とは違った魅力的な双眸、その下にある一線を引いた唇は優等生を思わせる。しかし、この男は神道無念流の免許皆伝であり、剣豪であった。しかし坂本龍馬同様生涯不殺を貫き、刀を抜くことなく、むしろ卓抜した政治家として維新を成功させ、日本を近代化させた男である。
 桂が最初に行ったのは、高杉の召還であった。藩中から狙われている高杉の身柄を確保し、安全にすることであった。それに伴って伊藤及び井上の召還も行い、幸いにも長州の人材は一人欠けることなく揃った。五月の終り頃であった。
 桂は高杉に会った。
 高杉は吉田に庵を結んでいた。すでにこの頃から病状が思わしくなく、喀血もひどくなっていた。
 「谷」と表札を掲げている高杉の家に入った。妻である、まさが出迎えた。
「まささん、相変わらずお美しいですな」
 桂はさらり、といってのけるとまさは少し微笑みながら顔を伏せた。
「晋作は」
「少し、奥で休んでおりますの」
「そうですか。どこか、具合でも」
 と桂が尋ねると、まさは苦しそうに黙った。
 久方ぶりに見た高杉の痩身に桂は多感な感情を噴出させ、涙を浮かべている。
「どうしたんだね、その体は」
「桂さん、どうにもしょうがない。実は、功山寺で兵をあげてから、風邪をこじらせていたようで、ついにこうなってしまった」
「そうか。……まだその顔じゃ、ちっとやそっとじゃ死なんな。いや、死んでもらっても困る」
 高杉は力なく笑うと、少し寝かせてくれ、といってそのまま目を閉じた。暫く桂は高杉の部屋で過ごした。雨が止むのを待っていたからである。
 桂が高杉の代わりに着手したのは長州の軍制改革であった。この事には大村を当て、更に軍備や外交には伊藤、井上。山縣は大村の補佐をし、長州の内部を一気に引き締め、自らは政事堂用掛及び国政方用談役という、いうなれば政治決定の最終責任者の任に就いた。
 桂が行い始めた政治改革は、いうなれば勤皇藩であった長州を近代化することにあった。その為に必要な改革は適当な人材を配置し、ある一定の権限を与えることで、藩としての地力を引き上げることに成功した。
 のみならず、これが維新後の日本の近代化にまでその規模が広がるのであるから、桂という男の見識の高さが窺い知れいる。
 その一方で、幕府が再び長州討伐に向けて蠢動しているらしい、と情報を得た桂は
「このままではいずれ、沈められる」
 と、胃痛に伴って起きて来た心配性が頭をもたげはじめていた。長州一藩ではとても相手に出来るわけがなく、長州が生き延びる道は完全恭順か、幕府相手に立ち回り、勝利するしかないのである。しかしすでに武備恭順という道を取っている以上、勝利以外での長州の生き延びる道はない。
「勝てません」
 桂の相談をうけた大村は、例の如く達磨のような特徴的な頭を振りかざして、全く無駄な言葉を省いて言った。
「どうしてもか」
「はい」
「どうすれば勝てる」
「武器ですな。後は船」
 大村の返事はいつも短い。
「どこから買い付けるのだ。どこも相手にしてくれんぞ」
「それを考えるのがお点前の仕事でしょう」
 大村はそういうと、ゆっくりと立ち上がって、調練の視察に出た。
 桂は再び高杉の元を訪れた。
 この頃になると多少血色を取り戻していたようで、食も進んでほんの少しだけであるがふっくらとしていた。高杉は上体を起こした。
「やはり、飯は旨い」
 高杉は噛みしめるように言った。普段ならば到底気のつくものではないが、そのような言葉が出るあたり、いかに高杉晋作といてども、少々参っているようであった。
「旨いか。それはよかった、少しずつ良くなっている証だ」
 と桂は言って、縁側に座った。ひとしきり降っていた雨はすっかり上がって久しく、地面も乾いている。
「……薩摩の事か」
 高杉は意を察した。その証拠、桂の女のような優しい肩が緊張している。
「仕掛けてくるだろうな、幕府は」
 ああ、と桂は高杉の言葉に首肯し、
「味方が欲しい」
「やはり、薩摩しかないだろう」
「晋作も、そう思うか。だが。……」
「だが、長州をどうまとめるか。桂さんはそこを気に病んでいる」
「それだけではない。私自身、薩摩には煮え湯を飲まされている立場だ。必要だから、何もかも忘れて手を組むことは出来ないよ」
「忘れなくてもよいではないか」
 高杉は床から出ると、同じように縁側に体を投げ出し、柱に寄りかかっている。
「人間というものは、それほど単純ではないよ。時には忘れえぬことだってあるさ。だから、忘れんでもよいではないか」
「それでは、感情が邪魔をして、纏まるものも纏まらぬのではないか」
「相手に言って聞かせてやれ。どれだけの臥薪嘗胆を極め、陰惨な時期であったかを。それでも必要ならば、必ず向こうは頭を下げてくる。その時には、言いっこなしだな」
「気楽に言ってくれるね、君は」
 桂はそう言いながら、さっぱりした顔で空を眺めていた。
「そろそろ帰るよ」
「そうか。……ああ、気が向いたらでいい。楠君に会っていってくれないか」
「楠?」
「楠十兵衛君だ。君が居ない間によくやってくれてね、元は江戸で浪人暮らしだったそうだ。僕が命を狙われている時も用心棒を頼んだこともある」
「随分とご執心だな」
 高杉は力なく笑って、
「まあ、一度でいい。顔を見てやってくれ」
 高杉はそういうとまた咳がぶり返したようで、すぐに床にふせった。
「あまり無理はするな。後は私の方で何とかやっていく」
 桂はそう言い置くと、高杉は満足そうに笑みを浮かべると、そのまま寝息を立てた。
 桂が高杉の家を出たのが日が傾き始めた七つ半で、そのまま家に戻ろうとも思ったのだが、高杉のいう楠十兵衛なる男に少し興味を持った。
 十兵衛のいる赤間神宮に桂が訪ねてくると、その歓待は、まるで待ちわびた恋人を見つけたかのようなもてなしぶりである。
「晋作から聞いたのだが、楠十兵衛君という人はどこにおられるのかな」
「ああ、楠さんですか。こちらですよ」
 奇兵隊の兵士の一人が案内した。
 十兵衛は馬関戦争の時に充てられていた部屋から越し、奇兵隊の宿舎の一部屋を高杉と山縣の厚意でもって借りている。粗末な部屋ではあるが、寝起きするためだけの部屋であるために、不便などといったものはなかった。
「楠さん、桂さんがお見えですが」
 十兵衛は無聊を囲ってのんびりと畳に体を放り投げていたが、長州の政治責任者である桂が一介の浪人でしかない十兵衛を訪ねて来た、といういささか非現実性の帯びた事実を聞いて、多少違和感を覚えつつも、起き上がって衣服をただした。
「開けますよ」
 といって襖があくと、やはり桂がそこにいた。
「君が、楠十兵衛君ですか。私は桂小五郎と申します。この長州で国政方用談役という任を仰せつかっております。よしなに願いたい」
「はあ」
 狐につままれたような面持で聞いていると、
「実は、君の事を晋作から聞いて、一目会いたいと思いました」
 桂はあくまで柔和な顔で、女性に諭すような口調で声も張り上げることはない。それでいて、やはり撃剣時代の威厳さをもって十兵衛の四肢を固めてしまっている。
「……君は、剣術は」
「直新影流、松田四郎先生高弟、岡部又十郎先生より学びました」
 桂は口元を上げて頷いている。
「そうでしたか。よほど、稽古をしていたのですな。その胼胝が未だに消えずにある」
「実戦は先の戦でもやりましたが、それでも随分と無沙汰になりました」
「晋作が、君の事をえらく買っているのです。晋作は少々角があって偏屈なところがあるが、その晋作は君の事を話す時だけは穏やかでありました」
 と、桂は暫く十兵衛の全身を見定めると、十兵衛は
「高杉さんには目をかけてもらいました。功山寺での決起から、俗論派との戦でも私を使ってくれました。高杉さんには感謝しています」
 と述べた。その口調は別離を思わせるに十分なほどの声色であった。
「ならば、晋作が病にふせっているのは知っているだろう。できれば、君に残って攘夷の為に尽くしてほしい」
 と桂が頼むと、
「攘夷とは、なんですか」
 十兵衛は呟くようにして問うた。雨が瓦を打ち初め、瓦が割れるかと思うほどけたたましく鳴り、垂れた滴が地面を穿って、小さな水たまりをそこかしこに作り始めている。
「私は、桜田門外で大老が死ぬところを見ました。攘夷は、この国の為になるものだと、殉じていった人間たちを見てきました。清河さんに会い、京に行き、攘夷を決行する。それが、この国の為になるはずだった。……しかし、いざ攘夷を行えば、完膚なきまでに叩きのめされた。それでも高杉さんは攘夷を考えていた。ところが、すでに思想は開国に傾いていた。桂さん、攘夷とは何ですか」
 桂は腕を組んで、じっと耐えている。
「どうしても、此処を出ますか」
「明朝、発つつもりです」
 桂は表情を変えた。
「ならば、発つ前に付き合ってくれませんか」
 といって、明朝迎えに行くことを告げた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?