長野主膳 3
人生の絶頂を、それと感じて大いに沸く者はそういない。
大抵は、後から振り返って昔日の余韻に浸るものであるが、今、妻と共に京から江戸に下っている主膳に限っては、これに当てはまらない。主膳は、今が人生の絶頂であることを、まるで焚火に手をかざしているかのように感じ取っている。
主膳は、直弼がようやく歴史の舵取りに就かせることができる、という奉仕の喜びに浸っている。
だけではなく、それは潜在的には己の野望を間接的に成就させる事に繋がる、という嬉しさもある。
むしろ、この潜在的野望こそが主膳の本音といえる。それが自身を己の弟子と称している直弼が大老に就くことでこれ以上ない形で自身の野望をかなえることができるからこそ、飛ぶようにして江戸に下っている。
江戸に着くなり瀧を自身の屋敷において、桜田門外の井伊家上屋敷に入った主膳は、そのまま直弼と面会した。直弼は予期せぬ『師匠』の帰着を喜んだ。
「この度は大老就任、めでたく存じまする」
「主膳も、京での折衝はご苦労であった」
「これで、遠慮なく紀州様を将軍に据えられまする」
いや、と直弼は頭を振った。慶喜の態度が不気味である、という。直弼の印象からは、慶喜は将軍に座る気持ちはないはずなのだが、しかしそうとも言いきれぬ色気を、直弼は感じた、という。
ならばいっそ、先手を打っていち早く紀州慶福を推して、決着をつけるべきではないか、そうすれば、慶喜自身にその気があろうとなかろうとなることは出来ず、それはそのまま一橋派への大きな打撃となる、というような事を主膳はいった。
「一橋派とは政において対するものであって、一橋派を滅することが得になろうか」
「少なくとも、大老が行う政において、妨害に至るのは必定であれば、早くよりその芽を取り除くのは得になりまする」
自らの政策を取り行ううえで肝要な事は、政敵の扱いである。政敵は、妨害することにおいて、十中八九間違いない。ではどうするか、というと、完全に舞台中央から駆逐するか、あるいは何らかの弱みを握るかして抱きこむことである。抱きこむという点においては余人はともかく、慶喜は困難であろう。
となると、排除するしかない。どのみち直弼の前に立ちはだかるのは慶喜なのであるから、ここで一気に排除してしまえば直弼の独擅場となるのは間違いない。
慶福を次期将軍にし、更に後見職を尾張徳川慶勝に決定したのは、そうした背景があったからに相違なく、直弼のこの決定は、一橋派を一時的にせよ、完全に沈黙させた。
ところが、ここで予期せぬ事態が発生した。
世に言う、『戊午の密勅』である。
これは、本来、関白の参内を経て将軍家に対して行われる勅諚を、関白参内のないままに、しかも将軍家ではない大名家(この度は水戸徳川家と長州毛利家であった)に直接勅諚を行った事で、行ったのが安政五年が戊午であったため、戊午の密勅と呼ばれている。
主膳の生涯においての最大の瑕疵は、この密勅の存在について遂に突き止めることができなかった事である。言いかえれば、一橋派、つまり攘夷派の首の皮が一枚つながったという事でもある。
だがこれは、主膳により過激な方向に走らせるきっかけにもなった。主膳は醒ヶ井に居を移し、間部下総守にこう進言している。
―― 鵜飼吉左衛門父子を捕縛するべし。
鵜飼吉左衛門は水戸家臣で、戊午の密勅を受けとった人物であり、嫡子幸吉は、これを水戸の徳川慶篤に送っている。
主膳がこの二人をどこで知ったのか。それについては確かな史料があるわけではないが、恐らく島田左近からの報せによるものが大きい。
ともかくも、鵜飼吉左衛門父子は京の西町奉行所に呼び出されそのまま捕縛されることになった。これが安政の大獄の始まりである。この安政の大獄による対象範囲は刑罰の軽重を問わずに書くと、下は町名主から、上は公家、皇族(久邇宮朝彦親王、ちなみに今上陛下の高祖父に当たる人物である)にまで及んで実に幅広い。これが全て主膳によるものではないにせよ、主導したという意味では主膳は主軸的な『活躍』といえる。
この過激な取締りは強烈な揺り戻しを誘引することになった。
それが、桜田門外の変である。
安政七(一八六〇)年三月三日、江戸城桜田門外において、直弼は衆人環視ともいえる白昼堂々、水戸家臣たちによって暗殺されてしまった。
とだけ書くと如何にも歴史の教科書的であるが、大老が暗殺された、という事件は、ただ身分の上下の乖離、という常識的な衝撃だけではなく、いうなれば、大老暗殺は、現職の総理大臣をテロによって襲撃、暗殺するようなもので、当然ながらこのような手法はときの古今、洋の東西に置いて認められるわけがない、のが普通である。だが現実には、直弼の死によって一橋派が勢いを盛り返し、事もあろうに(主膳からすればそういう表現になるであろう)、この変の二年後、文久二年では、慶喜を将軍後見、松平春嶽を政事総裁に就任した。これも勅命である。
要するに、主膳の政治的な後ろ盾、というより半ば傀儡的であった存在が突如としてこの世から永久に亡失した事になる。そしてそれは、主膳の政治的物理的生命を脅かすことにもなる。
主膳は、直弼の後を継いだ直憲にも仕えたが、元々直憲とはそりが合わず、直憲は主膳や宇津木景福よりも攘夷派で一橋慶喜に近い譜代の家臣である岡本半介を重用することになり、それと同時に主膳は政治的に失脚し、捕縛されることになった。そして、文久二年八月二七日、斬首および打ち捨て、というおよそ武士というより罪人の様な扱いで、主膳の人生は終わった。
飛鳥川 昨日の淵は 今日の瀬と 変わるならひを 我が身にぞ見む
というのが辞世の句である。
ちなみに、この岡本半介についても、一橋慶喜に傾倒したあまり、第二次長州征伐で大損害を被ったかどで結局薩長に近づいていた下級藩士たちにその座を追われ、彦根井伊家は何も出来ないまま王政復古、明治維新へと向かう事になる。