雷 第十六話


 井伊直弼は表向き「病臥」という事になって、「祈祷の甲斐なく病死した」と幕府に届け出、それを受理された。無論、あれだけの襲撃を起こされ、しかも狼狽ぶりが天下に喧伝されているとあって、それはすぐに嘘だというこは当然ながら顕われてしまっている。その顕著な例が、
 ―― 倹約で枕いらずの御病人。
 という川柳で謳われている。
 この影響の大きさはすでに書いたが、影響を受けたのは十兵衛だけではない。他に一人いた。
 その男は、この異変を聞きつけるや神田お玉が池近く、二六横丁にある小さな屋敷で弁舌をふるっている。
「もう幕府は頼りにならん。これまで通りではいかんのだ。これからは、真に学のある者が天下を率いるべきなのだ」
 というような事を、庄内弁そのままに座している若者たちに訴えている。どこか温かみのある庄内弁は人の心を緩やかにするものであるが、この男の表情と、唾を飛ばす激昂ぶりでそれは微塵も感じられない。
 この男の特徴はとにかく弁舌である。古代中国には説客という弁舌や礼法によって身を立てる、現在でいう所の外交官と弁護士を兼ねたような者がおり、例えば漢の高祖である劉邦に仕えたレキ食其などがいる。男はこれに似ている。
「よいか、このままではいずれこの日ノ本は滅んでしまう。あの大老は、水戸の烈士によって殺された。これは因業である。そのような因業に我々は付き合う必要はない。我々が、変えねばならんのだ」
 と、高ぶった感情を言語に変換しているかのように舌鋒なめらかこの上ない。
「しかし清河殿。どうやって変えるというのだ」
 座していたうちの一人が、男に向かって質問を放り投げた。男はわざわざ近くの者を押しのけ、その者の両肩を剣術で鍛えた握力でもってしっかりとつかむと、
「それだ」
 といって揺さぶった。
「我々がどうやって変えるか。それは、徒党を組むことだ」
 清河と呼ばれた男の講演を、ほんの少し下がって見れば、まるで若者向けに対する怪しい自己啓発の講習会のように見えなくもない。しかし、時代が変わるためには、こういった役割の者も重要になってくる。この清河八郎の場合はまさしくそれであった。
 清河は庄内の郷士の家に生まれた。家中によって差異は多少あるが、基本的に郷士は武士の中でもとりわけ身分が低い。しかし、この男は天性の才気煥発たるものがあったようで、江戸に出て東条一堂という人物に師事した後、幕府の最高学府といえる昌平黌に入った。そこで安積艮斎という、幕末思想に影響を与えた人物に師事しながら、北辰一刀流を極めた、文武両道を地で行くような男であった。
「よいか、この日ノ本を守るためには攘夷を決行せねばならん。だが、これは一人でできるものではない。その為に徒党を組み、人を巻き込み、これを時代の渦として回天させねばならんのだ」
 もし清河が生きて維新を迎えていれば、恐らくは有能な弁護士か、政治家になっていたかもしれない。それほどに彼の弁舌は他を寄せ付けぬほどであった。幕末維新において、これほどの弁舌の徒はほかにちょっと見当たらぬであろう。
 十兵衛がこの清河八郎の名を知ったのは、井伊暗殺の後すぐであった。井伊暗殺の後、幕府の権威は全く地に落ちてしまい、日本はその政治的機軸を喪った。その後、当然のように新しい機軸を作り出すために江戸市中の方々で私塾が開かれた。無論清河塾もそのうちの一つであるが、清河塾が他と違うのは、剣術と学問を並行して教えていたことである。昌平黌と北辰一刀流免許、という二兎を得た清河にしかできぬことであろう。自然、清河塾の名前は江戸でちょっとした名物のように知られるようになり、その噂を聞きつけた浪人たちが清河塾に向かうのである。
 十兵衛もその中にあった。
 桜田門外の変をその場で目撃して以降、自らの現状と時代のうねりとの落差に考え込むようになっていた。無論、観音寺屋の仕事も面白い。だが、それで終わっていいのかどうか。散々に悩んだ時、あの稲田重蔵が言った、
「武士ならば、感じなければならぬ」
 という一言が十兵衛の心底を決めた。事の次第を安吉に話すと、安吉は
「それはお止めにになったほうがいい。無理に、とは言わないがこのようなご時世であっても商売は無くならないから」
 といって引き留めてくれたのだが、十兵衛は、
「どうにもこのままでいる事が、世に背を向けて、厭世しているように思えてならないのです。あの事件があってからというもの、どうにも背を向けることが出来ないのです」
「確かに、大老である井伊様があのように殺されてしまう事自体が世も末かもしれない。しかしね、人には役割てえものがある。ああいうジョウイなんていうのは、お前さんの役目じゃないし、第一お前さん、あんなことが出来る性分じゃないだろう。それでも、どうしても行くというのなら、止めはしない。だが、帰ってくるのはここしかない、という事だけ肝に刻んでおくれ」
 という安吉の厚意を受け取って、十兵衛は黒船町から、神田お玉が池に身を映した。
 清河がお玉が池近くに塾を構えたのは、本人が北辰一刀流を極めたからであり、お玉が池の千葉道場にも交誼があったからである。
 十兵衛は八郎塾の屋敷の前にいた。屋敷は小さなもので、その隣に土蔵がある。
「おんシャ、こんなところで何しゆうが」
 聞きなれぬ言葉が背中をつついた。振り返ると、懐に手をいれた男が立っている。
 癖のあるほつれた鬢に、癖の強い髪を束ねている。背はとても大柄であり肩幅も広い。なにより茫洋たるその姿が、途方もない広さ、いうなれば空のように突き抜けたさわやかさがありながら、それでいてどこか茶目っ気のありそうな男である。
「あ、ああ。どうにも気が引けましてな、私のような外様が入ってよいものかどうか」
「なんなら、八郎さんに儂が話つけチャる。そこで待っとれ」
 ぶっきらぼうな物言いであるが、どこかおかしみと温かさがある。暫くして、男と八郎が来た。
「君か、私の塾に入りたいのは」
「はあ。清河先生の御高説を承りたくやってまいりました」
「名は」
「楠十兵衛と申しまする」
 十兵衛は丁寧に頭を下げた。
「坂本、お前はどうするのだ」
「儂ゃ、付き合いで来とるだけやき、話だけは聞かせもらいます」
 坂本と呼ばれた大男はぶっきらぼうにそういった。八郎は苦笑して、
「変わらんな、お前は。……よし、二人とも中に入れ」
 中に入ると、十人を少し超えたほどの同じようないでたちの者がいる。十兵衛は坂本の隣に座った。
「坂本殿は、攘夷ですか」
 坂本は面白くなさそうに鼻を鳴らしながら、
「ジョウイといえばそうかもしれんのう」
 といった。
「けんど、どうにもしっくりこんがや」
「しっくり、とは」
「これでええんかいのう、これで」
 坂本は清河のいう事に理解はしていたが、納得できない様子である。清河はそれに構わず、いつものように持論を聖典のようにかざしながら話している。坂本は、
「八郎さんよ、攘夷攘夷というがはええが、ほたらどないして打ち払うんじゃ。相手は大砲もっちょって、あんな化け物みたいな船でやってきよるがや」
「坂本、お前は夷狄にこの日ノ本を蹂躙されていい、というのか」
「そうやないがじゃ。どうやって打ち払うんか、それを聞きたいねゃ」
「我らには、これがあるではないか」
 清河は床の間に置いてある刀を手に取ってかざした。
「我らは武士だ、いや志士だ。我らが手を組み、日本中を巻き込めばこの危急存亡の秋に立ち上がるものは必ず出てくる。かつて処刑された吉田松陰先生の魂を長州だけではなく、我らも継ごうではないか。そうして、日本を幕府の、旧態依然の根底からひっくり返すことだ」
 坂本の眉が動いた。
「どういう事じゃ」
「根底から変える為には、まず烽火を上げねばならん。我らの決意を見せるのだ」
 烽火、という言葉に、一同は色めき立った。だがそのうちの一人が
「しかし清河先生。御公儀をひっくり返すのは謀反ではござるまいか。そうなれば我らは無事ではすみますまい」
 と投げかけると、八郎のただでさえ気難しい顔がさらに厳しくなった。
「貴様は愚か者だ」
 といきなり怒鳴るや、
「よいか。すでに大老は大衆の面前で死んだのだ。それも我らと同じ志士によってな。つまり幕府はすでに体を成しておらぬという事だ。早晩幕府は潰れる。その幕府に怯弱であってどうするか。貴様はそれでも志士か」
 といきなりましく立てた。坂本はそれを見て、
(また始まった)
 とでも言わんばかりに詰まらなさそうな顔をすると、そのままのっそりと立ち上がり、
「八郎さん」
「何だ」
「小便してくるき、それまでには終わらせとうせ」
 といってそのまま出て行ってしまったのである。自然、隣にいた十兵衛に視線が注がれると、たまらず十兵衛も飛び出した。

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