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思わず知らず長編となった雷も、これで終りです。 これは随分と昔に書いたもので、正直あまり…
山岡が駿府に向かったのは三月九日、道案内として、勝がその身柄を預かっていた薩摩藩士益満休…
十兵衛が焼き討ち事件を知ったのも同じ十二月二十五日であった。十兵衛は、 「薩摩との戦か」 …
江戸が不穏である。 というのも、将軍慶喜がその地位をはじめとする一切を新政府によって取り…
夜半を過ぎて、ほぼ夜通しでつづけた議論の結果は、慶喜の任官辞任と納地の返納、という厳しい…
慶喜が明治天皇の名において、征夷大将軍職の辞任を勅許したのは十二月に入ってからで、その他…
慶喜が大政奉還を明言し、朝廷に奏上した同じ日に、薩摩と長州にそれぞれ一枚の連名付の書状が渡された。両方とも署名は中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之の三名である。 京での薩摩屋敷において書状を受け取った大久保と西郷は膝を詰めて談義に及んだ。 「一蔵どん。どう思いもす」 西郷はすでに秋から冬に向かおうというのに、未だに汗が止まらぬようで、何度も手拭で額や首筋などを拭いている。一方の大久保はそよ風を全身で受けるように涼し気な顔を崩さない。 「これは、偽勅かもしれませんな」 「
慶喜の命もむなしく、二人はのらりくらりと躱して時間を稼ぐのみで一向に埒があかない。 (…
京に戻って一月余りした八月十四日に、一つの事件が起こった。 慶喜の側近であり、側用人を…
徳川慶喜を中心にもう少し舞台を回す。というのも、此処から起こる出来事の中心人物は間違いな…
将軍徳川慶喜は、常に京と大坂を中心に活動を続けている。遠い江戸では何かと時間の隙間が出来…
この不良生徒を更生させるために行うスパルタ教育のような十兵衛の調練は数日にわたった。その…
常院坊が戦争帰りとはいえ、新人に良い様にあしらわれた事はすぐに隊の中で持ちきりの話になっ…
十兵衛は、江戸市中に十カ所ほどある撒兵隊の屯所のうち、内堀通りにある撒兵隊屯所に向かった。屯所は、数百人程度の歩兵たちが出入りしている。どれも柄が悪い連中のようで、時折通りかかる女などに色目を使ったり、卑猥な言葉を投げかけている。 (これが、幕府の軍隊か) 軍は、その国の顔にもなる。軍隊の規律が守られていて士気が高く、志も崇高であれば敬意を持つ事があるが、逆になれば見下されることも少なくない。それだけではなく、士気や戦意の低い軍隊ほど戦線を崩壊させやすく、練度の低い軍隊は作