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ワクワクを失わないように
子どもの時から漫画を書くのが好きだった。決してうまくはなかったけど、自分で物語を作っていくのはワクワクした。
その時に好きな漫画を読んで、そのまま自分だったらこういう物語にするとアレンジした。
内容としては、オリジナリティもなく、盗作のような漫画ばっかりだった。
よく人や親に見せていた。誰も笑ったり、貶したりしなかった。そのことがラッキーだったと思う。
先日、学生の子に、パソコン詳しくなるのならどのソフト使えるようになったら良いですか?と聞かれた。
「パソコンじゃなく、目的をしっかり決めて、それを実現できるソフトを使ったほうがいいよ。」
その時は、いつものように当たり前のことを答えた。
改めて考えると、なんてバカな回答をしてしまったのだと思う。
それが正しいか間違いかでしか判断していなかった。多分学生は、今パソコンに興味を持っていて、目的より何より、ワクワクしたいんだと後から気づいた。
学んだことや得た知識を仕事にばかり使うのが方法ではない。
もう2度とワクワクを共有してくれないかもしれないな。と少し寂しくなった。
昔、好きだったものを、「そんなん読んで将来の役に立たない」と聞いて、その通り従っただろうか。
正しいか間違いかじゃなく、大人が好奇心を潰してはいけない。子どもに期待しすぎてもいけない。一緒に楽しめるくらいの方がいい。
もう時代が大きく変わってきて、子どもたちは大人たちの敷いた価値観のレールの上で戸惑っている。
YouTuberになりたいと言えば、「あんなん食っていけるのは今だけだ」とか、酷いものになれば、「もっと夢を持って生きろ」「現実見て生きろ」みたいに抽象的で無責任なことをいう。
さて、現実とは?
小さい時、自分は警察官になりたかった。思いながら信号無視してくらいなので、正義感が強かったわけではなく、多分ドラマとかの影響で、ただカッコ良かっただけで、それ以上も何もなく、具体的に目指していたわけなんかない。(そしてそれはそれで本当に自分には向いてないので良かったとすら、今は思う。笑)
話変わって先日25年間観ていたアニメが終わった。
高校生の時にハマり、当時一生洋楽しか聴かないと心に決めていた狭い視野の自分は衝撃を受けた。主人公がロボットに乗りたがらないのだ。
周りに衝撃のアニメがあると話したところ、「たかがアニメ」「オタクになったの?」色々言われた。
それからも、その監督はその作品を作り続けた。その監督を深く知りたいと、彼の作品を片っ端から観た。どれもこれも同じように恣意的で抽象的でしかしながら凄く独創性に溢れていた。新しい表現方法にこれでもかとチャレンジする。鬼のような心ない批評にさらされていた時もあった。が、何より観ていてワクワクした。
先日公開された作品は、これでもかというほど実験的な手法、数年前は未完成と思われていた手法を駆使し、素晴らしいクリエイティビティを発揮していた。
大学生の時、今見ても恥ずかしいくらい彼の影響を受けて作品を作った。あの時のドキドキを、作品を作ることで追体験していた。いろんな表現方法をためし続けた。
その後、デザイン会社に就職し、デザインのスペシャリストになるべく、映像や音楽の作品作りから離れた。
影響を受けた音楽も映像も全く作らなくなった。この時はこの時で充実していたけど、なんか物足りない気持ちは常にあった。ワクワクの針が振り切らない。
数年前、自分の作ったイベントを会社の事業にすることになった。そのイベントの映像や音楽を自分が作ることになった。毎日ワクワクし、制作に明け暮れた。
イベントや作品の出来ではなく、全く関係ないところで、一つの大きな疑問点ができた。当たり前だけれど、その事業は多くの人の協力を得ていたので、自分でやりたいようにできない。周りは凄く応援してくれたが、そのことがプレッシャーになり、楽しく作れなくなってしまった。
「伊丹谷は全部一人でやってしまう」「それでは大きくなれない」
その言葉で作ることが一気にできなくなった。人のせいにするわけではない。
期待に応えなくてはいけないのだと思った。
果たして、何の期待か、誰の期待か分からないが、思うように作ることができず、少し休んでみようと思った。というか休まざるを得なかった。
休んだのち今になって思うのは、好奇心というのは与えられるものではなく、生まれてから1回だけ作れる器のようなもので、大きければ大きいほど多くのものを飲み込めて、やめない限りはずっと大きくしていけるもの。そして幾つになってもその器にはどんどん好きなものを放り込める。
何か特定の職業に縛られる必要もなく、これがないと生きていけないものではないけど、器で稼げることが約束されるわけではない。
何を言いたいかというと。好奇心という器は、生まれて死ぬまで1回しか作ることができない(2回目)特別なもんなんだ。
小さい時から器を広げ、立派な大人になってもまだまだ大きくし続ける人もいる。もちろん、その好奇心を仕事にできることほど素晴らしいことはないが、仕事にしないことで大きくし続けることもできる。
無責任な誰かの言葉で止める必要もないし、大人は無責任な生き物だと覚えていればいい。例外なく、みんな無責任になる。
テレビや最近ではネットでも好奇心を食い物にして、せっかくの未来の種をなくし、自分たちの未来をなくそうとしている。
一度好奇心を止めてしまった自分には、もう一度器づくりにはチャレンジはしてみるけど、少しでもこういった好奇心の芽を摘まない未来を作っていきたいと最近は強く思っている。
正しいことをいうこと、人を論破すること、それは「わかってもらいたい自分のエゴ」でしかない。肝心なのは、「人それぞれ」ということだ。笑
子どもが見てワクワクできる大人になりたいな。今はそれでいいと思っている。
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