見出し画像

困窮層DE京大出身の僕の今昔物語 黒のピース2 「初めての家族旅行は夜逃げ」



大阪府内の市営か府営住宅の3階に僕の住んでいた家はあった。



団地と呼ばれるその集合住宅の中で、専業主婦であることを誇りに思っている母と、当時の年収で110万円ほどの父との三人暮らしだった。



父の仕事は、繊維工場で働いていたが、週に3回程度だったようで土日はテレビを見て過ごすかパチンコに通い、平日の2、3日は必ずパチンコに出掛けていた。



その日は、父がパチンコに行っていた昼下がりで、確か北海道で初雪が降ったというニュースをテレビで見ていた。



今年は寒くなるみたいやなぁと言う母の声にかぶせるように、玄関のドアが勢いよく開いて父が何やら大声で叫んでいる。



暫くすると、普段は平日の真っ昼間にいない父が僕の目の前に立って「家族旅行に連れてったるから準備せえ」と笑っていた。



旅行が何か意味は分からなかったけれど、父が自慢にしていた車に今日、僕は初めて乗ってもいいらしいことが分かると、僕は上機嫌になった。



母は家の中を走って、色々なものを大きな茶色い鞄に詰め込んでいる。



ドタドタと両親が家の中で走り回っているのを見て、僕も真似をして笑顔で沢山走り回っていた。



いつもは叱られるのに、今日は皆で走れる面白い日なんだと思っていた。



バケツリレーのように、両親は車に荷物を詰め込んでいく。



母が荷物を玄関先に積み上げると、父がそこから車まで走り込み乗せる。



「大事なもん忘れとらんか」



と、僕の記憶の中で父は叫んでいたと思っていたけれど、よくよく思い返せばそれはかなり美化されていることに気付いた。



「金目のもん忘れとらんか」



そう叫びながら両親は、走り回り、母は自分の肩より少し長い髪の毛はかきむしりながら野太い唸り声をあげて泣いていたし、父はそんな母を急かしていた。



婚礼箪笥がどうこう泣き叫ぶ母は、包丁を手にしていた。



父は回し蹴りで母ごと包丁を蹴り飛ばして、泣きすする母に何やら指示していた。



この頃から、僕の耳は聞き入れたくない現実は強制的に聞こえなくなった。



「鍵かけへんの」と、僕が尋ねれば母は泣きながら階段を下りていく。



車の後部座席のドアは開いていて、中は荷物でぎゅうぎゅうだった。



僕は茶色い大きな鞄やみかんの段ボールを掻き分けながらなんとか座った。



「飛ばすで」と言って、父がアクセルを思いっきり押して花壇に左車輪が乗り上げた時、1階に住んでいたアキヒロお兄ちゃんの作った金魚のお墓が潰された。



数人の人が団地の入り口で僕たち家族を呆然と見ていたが、僕は見知った顔を見つけると「いってきまーす」と窓の開け方が分からなかったから車の中から手を振った。



車が高速道路に滑り込んだとき、落ち着きを取り戻そうとしていた父は、「今年は寒ぅなるし、あったかいとこにでも行こか」と、焼酎の瓶を片手に言っていた。



助手席の後ろに座っていた僕は、運転席に座る父を見てハンドルを握る手がガタガタと震えていることに気付いた。



グラグラと直線を走る僕たちの車に、大きなクラクションが何度も鳴り響いていた。



あの日、真っ昼間に、僕たち家族は夜逃げをした。



夜逃げは夜にこっそり逃げるものだと感じるけれど、こんな白昼堂々とした逃げ方もあった。



大きなクラクションの音も、両親の怒鳴り合いも僕は徐々に聞こえなくなっていった。



途中、高速道路から降りて、中国地方に入るころには既に下道で、僕たちは逃亡と言う名前の家族旅行をしていた。



出発してから恐らく5日くらいで、僕たちは広島県にあるどこかのうっそうとした山の中で生活することになった。

毒親と呼ばれる存在に悩んでいる人も、貧困に苦しんでいる人も、困窮を恐れる人も、犯罪者になってしまいそうで不安な人も、そんな人に興味がある人にも役立ってくれると嬉しいです。