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困窮層DE京大出身の僕の今昔物語 黒のピース4「不法侵入で夜逃げキャンプ」の余談



困窮層DE京大出身の僕の今昔物語 黒のピース4「不法侵入で夜逃げキャンプ」の余談2


食料の調達は、父が車の屋根に乗せてきていた自転車で何十キロか離れた街まで出て、賞味期限切れのものを貰ってきてくれた。

1週間に1回の下山もあれば、3、4日に1回の時もあった。

これは食料が豊富かどうかは関係なく天気に左右されていた。

父は、雨の日には下山しなかった。

当時の食生活はマイナーなコンビニのようなお店で、賞味期限が切れた売り物にならない菓子パンやお弁当があったが、お弁当は両親の分だったので、僕は手のひらサイズのあんパン半分か1個が1日1回の食事だった。

ただ、いつ食料がもらえなくなるか分からなかったので、たいてい一口かじっては、ズボンの左のポケットに残していた。

他に父は、毎日お酒を欠かすことはなかったので、お酒を買う店で賞味期限の切れたものを貰って過ごしていた。

ここは、ほとんど賞味期限切れがなかったけれど、たまに父がスルメを買っていて僕も時々もらうことができた。

そして、父がいなくなると母は地面に顔を1センチあるかないかまで近づけて叫んだり、木の枝を食べて血だらけになっては、ブルーシートに向かって「赤い、赤い、ぎゃっぎゃっぎゃっ」と笑うようになった。

でも不思議なことに、父が帰ってくる音がすると母はいつも通りの母に戻った。

山のふもとらへんから父は自転車をかついで登ってくる音は、いつも獣の音のようだった。

父は、食料調達と銭湯に行って風呂に入っていた。

僕と母は父がいない時、そして溜め込んだ雨水に余裕がある時はタオルを浸して、体を拭いて過ごしていた。

トイレは、テント場から歩いて30秒程度のところに2つ15センチ程度の凹みがあった場所でしていた。

右が尿、左が弁で終わったら土をかけるが、すでに寝ている場所からでも臭いが漂っていた。

尻は大きめの葉を準備しておいて、それで拭く、大きな葉は僕が一人でたくさんとりにいったが、足りない時は一度使った葉を土の上でこすって汚れをとって何度か使っていた。

そして、僕が木のブランコと遊んでいたアレは、両親が家族分準備していた首吊り用のロープだったと知ったのは12歳の時だった。

あの頃、本能に近い恐怖を感じていた僕は、能面顔の両親の言う「次はない」と言う意味を、次は命がないぞという意味に、瞬時に変換して理解していたように思う。

何がなんでも落ちない。

血がにじみ出て、手首にじんわりと伝い始めると父は笑顔で「もうええで」と言ってくれることが多かった。

腕が限界になっても僕はしがみ続けた。

父の許可が出るまで、僕はぶら下がり続けた。

いつか、どこかの国で故障した観覧車から振り落とされて、宙に孫を抱えて8時間くらいぶら下がっていたニュースを見たときに僕はこの経験を思い出した。

それまで、あまりに怖い経験だったからか僕は頭の中で無かったことにしていたらしい。

毎日続けると、傷が塞がる前にぶら下がらなかければいけなかったので、傷にじょりじょりと食い込む紐はかなり痛い。

暗くなってきた時に始まるこのブランコ遊びが一番不気味だった。

辺りは真っ暗で、正直父が無言になるとどこにいるのか分からない。

そんな時は、何がなんでも見てやるぞという気持ちを込めて、頭と胸に力を入れると暗がりでもぼんやり人の気配やうっすらとした顔程度なら見ることができた。

血がにじみ出ても許可がでない時は、猿の物真似をしながら笑ったり、あえて体を大きく揺らせながら大笑いすることにした。

そうすれば、早く地面に足が着けることが分かったからだ。

そして、何度か母が数十分か数時間いなくなったことがある。

不安に思うよりもその頃は、もう木の枝をバリバリ食べながら笑う母を見ずにすむと思って安心していたが、毎回父に素っ裸の状態で引きずられ、泣きながら連れ戻されていた。

早朝に母が僕に「ここから逃げるんや」と言って一緒に逃亡して父に捕まった時、僕と母は歩いて20分程度の場所に横たわる腐敗していた遺体の前で、父に説教をされていた。

「お前もこうなりたいんか」「誰のおかげで今生きてると思ってるんや」と怒鳴る父に、先にこの世を去った恐らく人間に跨がせさせられ、母は自慰行為を強要されていた。

骨のバキバキ、パキパキ、ボキンと壊れる音と父の笑い声と母の声にならない声が聞こえた気がする。

母は謝罪していたが、「はよ、しゃぶらんかい」と大声をあげる父は、笑いながら遺体の上でもう殺してと叫ぶ母を見下ろしていた。

僕は、殴られて左目が見えず、左耳には木の棒を突っ込まれて血が出すぎて、聞こえにくくなっていた。

はがされた爪からも血がにじんでいた。

ゆるい記憶の中で、倒れこんだ僕を見て母が「お前さえ生まれとらんかったら」と喉の奥から、腹の底から這いずるような声で責め続けていた。

僕は本当にその通りだと思っていた。

毒親と呼ばれる存在に悩んでいる人も、貧困に苦しんでいる人も、困窮を恐れる人も、犯罪者になってしまいそうで不安な人も、そんな人に興味がある人にも役立ってくれると嬉しいです。