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都会に住むという非日常

感染症以前に、人がわさわさ、ぎゅうぎゅういるって不自然なこと、人間の生理にも合わないんだと感じてた。

知り合いのお子さんが小さな保育園を卒園し、小学校に上がったら、東京でもマンモス小学校で、人数に圧倒され、しばらく学校へ行けなくなったという話を聞いたことがある。

新宿駅や渋谷の街を歩く時、気持ちが負けるか攻撃的な気分になるかのどちらか。

昔からあるお祭りも人がわんさかいて、一種の興奮状態、さらにはトランス状態を作るのもある。それは村社会、密接な人間関係のもめ事で高まったストレスを解放させるために、新たな興奮状態を生じさせるのだと、聞いたことがある。ストレスを別のストレスで相殺するということ。

密接な閉じた人間関係はストレスだけど、それは日常生活。
祭りのような、人がわさわさ集まり密集する機会は非日常のことだった。

都会はもはや非日常の興奮状態が常態。

居酒屋の喧騒も非日常のはず。人間の生理に合うのか?興奮してしまいはめを外す。毎晩?(自分への問いかけです)

酒盛りも非日常のはず。満員電車も。渋谷のスクランブル交差点の掲示板。けたたましいテレビ。ライブ。大きなスタジアム。

それらは時々あればいいもの。昔は滅多にあるものではなかったから、楽しさもひとしお。

人間の生理に反する興奮状態は、トランスの快楽でもあるから、人は快楽に依存して繰り返す。超ストレス。自分の生理が壊れていき、危険な域がわからなくなってしまう。快楽を求め過ぎるのは欲望になる。麻痺した心には更なる刺激を求めて、興奮状態という非日常を追い求めていくことになる。その欲望を刺激することで成り立つ社会。

都会は、人にとって不自然な生き方を強いる場所。この生き方に慣れないように、人の生き方の原点はどこにあるのか、常々考えています。
依存性気味、興奮がなかなか冷めやらない私には、かなり刺激的だから。

閑静な住宅街に住み、近場の町もこじんまりしているから、同じ東京でも喧騒を避けることができるのは幸い。

東京、いや首都圏の面の広がり以上に高層化し、高密度化している実態に対して何らかの法規制が必要ではないかと思っています。高密度な社会は人間の基本的権利を脅かしているとも思います。