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国際女性デーによせて

今日、3/8は「国際女性デー」と定められている。

1904年3月8日にアメリカ・ニューヨークで婦人参政権を求めたデモが起源となり、1910年のコペンハーゲンでの国際社会主義会議にて「女性の政治的自由と平等のために戦う日」と提唱したことから始まりました。
その後、国連は1975年の国際婦人年において、3月8日を『国際女性デー(International Women’s Day)』と制定。

「女性の政治的自由と平等のために戦う日」として実に110年も前に提唱されていたのだ。

では110年という時を経て、女性の政治的自由と平等は達成されたのだろうか。

ご存知の通り、女性に参政権が与えられ、被選挙権も与えられた。女性政治家、女性閣僚も特段珍しくなくなった。様々な面でかつてに比べ女性の活躍が見られるようになった。

だが昨年12月に公表された世界経済フォーラムによる「男女平等ランキング」で日本は過去最低の121位。順位が問題の本筋ではないが、依然として男女平等が達成されていないことを突き付けられた形だ。

歴史的な背景に目を向けると、日本は「男は外で稼ぎ、女は家を守る」という価値観のもと高度経済成長を遂げた。男女の番を基本単位とし、そのなかでの性別役割分業を「スタンダード」とし、その形態が最も生きやすい社会を形成してきた。ある意味の正解であり、成功したともいえる。

だが、それはバラ色というより寧ろ多くの問題点を抱えていた。
例えば政治の分野でゼロからイチへという大きな進歩があったが、男性と平等にはならなかった。職場に女性が増えたが、管理職は男性優位のままだった。「イクメン」という言葉はそれまで育児・家事に無関与だった男性のゼロイチの進歩を評価しているように感じる。

なんだか日本の男女平等の成果はこの「ゼロイチ」に終始しているような気がする。もちろん何もないところから何かを生み出すのはとても大きな意味がある。しかし、その「イチ」ばかりフォーカスされ、あとが続かない、若しくはそこからの進歩がなければ、平等に近づくだけで、平等にはならない。

始めの一歩を歩んで満足してお昼寝なんかしている間に、欧米をはじめとする諸外国はコツコツとゴールテープに向かって歩んでいる。そろそろお昼寝から目を覚まして、エンジンをかけ直してほしいところである。

さて、話を自分の身近なところに移したいと思う。

僕の母親は大卒後、企業に一般職採用された。4年くらい働いたところで当時、上司だった父親と結婚し、退職した。退職したい訳ではなかったが、別の上司に同じ部署に夫婦はいちゃダメみたいなことを言われ、止む無く退社したらしい。

その後3人の子供を産み、実に20年間、「家を守って」きた。
僕が小2くらいのときにベビーシッターの仕事を始めた。僕が末っ子だから子育てもある程度落ち着き、働きたくなったのだろう。といっても仕事は多くて週に3回くらいで「共働き」という感じではない。

子育て・家事は殆ど一手に請け負ってきた。もちろん一時期、外部に委託したり、子供に手伝わせたりしていたが、あくまでメインは母親、他は手伝っているという感覚だった。

ここで考えたいのは女性性というものにある根源的な男性性との違い、つまり妊娠するか否かという問題である。
女性の身体で生まれてこなければ妊娠・出産できないという生物学的な差異がそこにはある。妊娠・出産すれば最低でも1カ月は通常の生活を送れない。無理やり日常生活を送ろうとしても辛い期間はもっと長いはずだ。

このどうしようもないけれど、当たり前に受け入れてきた差異が与えてきた影響は大きいのではないか。
妊娠・出産という社会的プレッシャーの高い出来事を背負う。その流れで出産した子どもの子育ての主役は母親という観念が生まれる。ついでに家にいるのだから家事も女性の仕事と言われる。

母親を見ていると一日の大半を家事に割いているように思える。もっともっと色んなことをやりたいはずだ。やれるべきだ。でも優先度が家事を上回らない。
フルタイムで働いている訳ではないのに、家事にお金を払って他の人に頼むという選択肢は何か甘えているというような感覚が世の中にある。

女性が社会で活躍するには、この育児・家事という障がいをどうにかして軽減しなければならない。現状、この支援が行き届いているとは到底思えない。それは政策決定者や制度作りの関係者にそもそも女性が少ないからである。世の中にはほぼ半々で存在しているはずの両性が、社会の仕組みをつくる現場となると半々どころか途轍もなく少ない。こんな状況で満足な仕組みが作られるはずはなく、負の循環が続くのみである。

よくフェミニズムが批判に晒される。逆差別だの、また発狂してるよ、だの。

この不利な状況に置かれてきた「女性」という括りをやめませんか。
長い歴史を経て、幾重にも幾重にも刷り込まれてきた潜在的な男女観で行動するのをやめませんか。

確かに出産できるのは女性の身体で生まれてきた人だけです。生物学的に母性というものがあるかもしれません。身体は男性に比べて強くないかもです。でもこれが、平等にチャンスを与えられない理由になっていいんですか。

仕組みを変える必要があります。仕組みを変えるには決定過程に当事者視点が必要です。さぁ耳を傾けましょう。

半々で存在する人々の意見を反映することができなくて、どうしてマイノリティと呼ばれる人々の意見を反映することができるんでしょうか。

男女平等は他の不平等解決のファーストステップ。

「男女」が生物的に無くならなくても、二つに分断するような概念がなくなればいいね。

いつか、いや早いうちに国際女性デーがそんな酷い時代があったのかと思い出される日になりますように。

いつもいつもありがとう。

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