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小学校について

■ 就学前相談

 小学校入学に際して、身体障害・発達障害、双方の観点から「横浜市特別支援教育総合センター(特総センター)」で相談と検査をすることになりました。
 障害がある児童であっても、全て一般学級で、という希望であれば、この「就学前相談」は必要ありません。しかし「特別支援学校」「特別支援学級」「通級指導教室」いずれかの利用を希望する場合には、必ずこれを受ける必要があります。

 基本的には、これらの「特別支援教育」が「不要」(そもそも意を決してこの相談に行くような場合がほとんどなので「不要」とされることはまずないですが)と判断されない限り、そのいずれかを勧められますが、最終的には「本人と家族の希望」が優先されることになっているようです。
 ただし最近では希望者が多く、一方で特別支援教育の「枠」はそれほど増えてはいないため、全て希望どおりに受け入れられない可能性もあり得ます。

 息子は、検査の結果、いわゆる「IQ」が85程度でしたが「かなり凸凹のある」発達障害もあるので「特別支援学級(個別支援級)がいいと思います」という判定になりました。
 娘は一般学級ですので、一緒がいいのかなという思いもなくはありませんでしたが、息子本人の「特性」を考えると、やはり「特別支援学級」のほうがいいと考え、勧められるとおりにすることになりました。

 もう少し「軽度」であれば勧められそうな「通級指導教室」ですが、実はこれがあまり多くありません。
 「特別支援学級」は、横浜市内全ての市立小・中学校に設置されていますが、「通級指導教室」が設置されている小学校は限られています。
 当時は「情緒等」と「難聴・言語」に分かれていたと思うのですが、小学校で16校、中学校では4校しかありません。しかも小学校で「情緒等」に対応するのは12校です。横浜市には18の「区」がありますので、場合によっては他区にある学校まで「通級」することになります。
 この「通級指導教室」に対応するために、転職・退職を余儀なくされた、という話を聞いたこともあります。

 実は、最も近い「情緒等」に対応する「通級指導教室」は、利用することになった学童保育がある学区の小学校にあるのです(つまり隣の学区なのでかなり近いほうになります)が、定員オーバー状態が続いていて、本来は「週1回程度」なのに、実際には「月1回」でも難しいようでした。

 また、この時の「特総センター」での検査結果を使えば「愛の手帳」も申請できるのですが、既に「身体障害者手帳」が交付されていたため、この時は見送ることにしたのは、既述のとおりです。

 「特総センター」では「身体障害については進学予定の小学校と予めよく相談してください」と言われ、自宅の学区の副校長に連絡を取りました。

 副校長との相談の結果、親が行って医療処置をするための「面積」を確保するため、トイレの個室改造(2つの個室をつなげて広くする)を進めることになりました。
 他の子の視線も考えて、教室のないフロアの端っこにあるトイレに決めてくれました。更に、何か要望があるかと訊かれ、処置のための「道具」を置けるテーブルと手を洗うための「洗面台」を付けてもらうことにしました。

 副校長によると、在学中の女の子に同様の障害がある児童がいるそうで、既に女子トイレは1か所改造済みとのこと。
 いずれ男子トイレもどこかをバリアフリー的に使えるようにしたい、と考えていたらしく、とても積極的にやってもらえました。今は、障害に対する配慮が義務付けられていることもあるので(身体障害に限らず)何でも相談してみたらいいんじゃないかと思います(実際にできるかどうかはわかりませんが「ダメ元」で)。

 しかし、この「施設改造」の件があったため、学童絡みでの「学区外通学」という選択肢は消えてしまいました。
 既述のとおり、学童保育の学区の小学校は、自宅からの通勤経路上に当たるため「学区外通学の要件」に合致します。
 更に前述のとおり、その小学校には「通級指導教室」が設置されているので、個別級だけでなく「通級」も(学年が進んだ後も含めた)選択肢になり得た可能性がありました。

 結果として、最終的に自宅近くの小学校の「特別支援学級」という選択になりました。

■ 副学籍学級(交流級)

 小学校からは、副学籍学級、いわゆる「交流級」について、娘と同じがいいかどうか訊かれました。
 一般学級同士だと、双子など兄弟姉妹が同じ学年にいると、通常の場合は、別のクラスになります(2クラスしかないのに「三つ子」とかいう場合は無理ですが)。
 これについては、1年生の時だけは同じクラスにしてもらうことにして、2年生以降は学校に任せることにしました。その結果、2年生からは別のクラスになりました。

 交流級に参加できたのは、週1回の給食くらいでしたが、娘の「人脈」もあったためか、交流級に行くと「人気者」だったようです。
 高学年になった時に、一度(ちょうど好きになっていた)社会科だったらどうだろう、と試してみたのですが、本人曰く「簡単すぎてつまらない」と頓挫してしまいました。なかなか上手くはいかないものです。

 それでも、やはり同じ学年に「双子の姉」がいることの「意味」は大きく、娘の友達を中心に男女を問わず、同じ学年の子との交流は結構あったようです。

 特別支援学級に在籍する児童・生徒の場合、朝や帰りのホームルーム、給食(昼食)、掃除、参加できそうな科目の授業、のうちいくつかを副学籍学級に行って参加する、ということができます。
 もちろん、児童・生徒によっては、それができずに全て特別支援学級で過ごすということもあります。

 副学籍学級での授業の多くに参加できるようになれば、一般学級に「移籍」する場合も考えられます。
 しかし、学習内容的に考えると、小学校の3~4年生ぐらいが正直「タイムリミット」ではないかと思います。

 それを過ぎると、特に「算数」に関しては、一般学級の授業進度について行くことが難しくなると思います。
 逆に言えば「算数」が得意で、「算数だけは交流級で受けられる」という児童などの場合には、もっと後からでも「移籍」できる可能性があるかな、となるでしょう。
 だからと言って、無理矢理「算数」を詰め込むのはダメでしょう。本人の性格に合えばいいのですが、そうでなければ別の「二次障害」的なものを引き起こしかねません。

 息子も「算数」は得意ではありませんでした。
 でも、心配することはないと思います。
 大人でも多くの人は、学校の「算数・数学」で習ったことの大半は憶えていないでしょう。日常生活に必要最低限の計算ができれば、生きていく上で、それほど困ることもないと思います。
 何かのきっかけで、それに追い付ければいいのです。

 息子は、後述することになると思いますが、その後スポーツ競技としての「ボウリング」をすることになりました。
 スコアの計算で「足し算」は必須ですし、ハンディキャップの計算ではゲーム数との「掛け算」も使います。アベレージを計算するのは「割り算」です。
 そんなことで、現在は別に「計算」で困るようなことはないレベルになっています(もちろん「学問」としての「算数・数学」は得意ではありません)。

 学校生活では、通常の「日課」だけではなく、遠足、運動会、学芸会、音楽会、宿泊学習や修学旅行といったものがあります。
 特別支援学級独自に、上記のような行事(他校の特別支援学級と合同・交流の場合もあります)をすることもありますが、全校(あるいは学年)で行う場合には、これらに副学籍学級で参加することになります。

■ PTAについて

 昨今は、学校によって多少違う場合もあるかも知れません。

 でも恐らく、多くの、特に小・中学校では、半ば強制的に「委員」などの「ノルマ」が課されていたりするのではないかと思います。

 娘や息子が通った小学校も例外ではありませんでした。
 全ての学級から、各委員をそれぞれ何人、と強制的に決められていました。
 学級懇談会などでは「委員が決まるまで懇談会が終わらない」「誰も出なければ、欠席者を含めて、未経験者の抽選で決める」などと、超・強気に言われます。

 保育園の保護者会でも同じものを感じましたが、仲のいい母親同士が群れている感がありありでした。
 あえて「母親同士」と書きましたが、別に男女差別でも何でもなく、保育園から小・中学校まで、学校(・保育園)での保護者行事(PTA関係や懇談会など)で、自分以外の「父親」を見たことは一度もないからです。
 一方で懇談会などに「ひたすら父親ばかりが参加する」という方針を貫いた結果、周囲が勝手に「事情」(あの家は何か問題を抱えているらしい、とか)を詮索してくれたので、「作戦」としては「あり」だな、と思っています。

 世の中にはPTA活動が「大好き」な母親が少なからずいます。
 そういう人たちが、会長などの「役員」に居座り、面倒な作業は、各クラスから強制的に「動員」した委員にやらせている、という構図。
 これって、あの保育園の保護者会と同じです。

 こういうことをしている限り、PTAに対する「反感」はなくなりません。

 PTAのうち「学年委員」(だったかな?)は、特別支援学級からも1人出すことになっていました。各学年ごとではなく、1年から6年まで全部で1人ですが、この小学校、児童数の割には特別支援学級の在籍者が少なく、年度によって変動はありますが、概ね10~12人ですので、そこから1人というのは一般学級よりも高確率です。ただし、他の委員などは割当がありませんでした。
 でもこれも、変な話です。
 これでは、仮にやってみたい活動があっても、子供が特別支援学級に在籍している、という理由だけで「機会」がない、という事態になります。
 本来は、広く「やりたい人が、やりたいことをやる」という前提で募るべきものではないでしょうか。
 「一部の人が、やりたいことだけやって、やりたくないことをやらせる人を問答無用で集めている」ようにしか見えないのです。

 結局、特別支援学級では引き受けてくれる人がいたので、筆者がやることはありませんでした。
 ですが、実際にやってくれた人の話だと「お客さん」感が半端ないので、あまり意義を感じなかった、そうです。
 現代の子供達は、親世代とは較べものにならないくらい「インクルーシブ精神」が浸透していると思いますが、やはり「親世代」だと無理があるのかも知れません。特別支援学級の「学年委員」に対する扱いは、それを改めて感じるものでした。

 息子は特別支援学級なので、それで「完結」するのですが、娘もいますので、事はそう簡単には終わりませんでした。

 子供達が高学年になったある年、PTAの「会長」から直々に自分あての「電話」がかかってきました。
 誰も引き受ける人がいないから「推薦委員」をやってくれないか、という話でした。

 引き受ける人がいなければ「くじ引き」ででも決める、などと言うPTAなんか「存在意義」すらない、と常日頃から思っている人間に何を言ってんだ、と憤慨しました。

「自分が絶対にやらない、と思っているものに他人を推薦するなんてあり得ない。どうしても何かやれ、というなら『会長』なら引き受ける。『会長』としてPTAを『解散』させてやる」

とお断りしました。

 最早、どこかの元総理大臣の「●●をぶっ壊す!」みたいなもんです。それ以降、二度と電話がかかってくることはありませんでした。

 ただし、お断りしておきますが、筆者はPTA活動そのものを否定しているわけではありません。「やり方」や「あり方」そして「考え方」に異を唱えているだけです。
 また、違う小学校区の放課後児童クラブで、父母会の役員をやっているということもあり、とても学区を跨いでPTA活動までできない、という事情もありました。

 実際に、その後息子の高校で「広報委員会」に参加し、副委員長から委員長になりました。委員長だった人が体調を崩してしまったので「繰上」でしたが。
 そして2年目からは「副会長」になっていますが、別に「PTAをぶっ壊す!」とかいうことでは、決してありません。
 この高校でも、従来は入学手続の際に「必ずPTAの何かの(できる)委員にマルを付けるように」とやっていたようですが、息子が入学するあたりから「それはやめよう」「やれる人がやれる時にやれることを」すればいい、という方針になっています。
 厭々やっても効率は上がりませんし、前例踏襲のままで何も変わりません。筆者は前代の会長から「IT化」を引き継いで、PTA活動を効率化し、学校に行かなくてもほとんどの活動ができるような仕組づくりを進めています。
 さすがに学校に行かないと、行事の撮影などはできないので、ある程度は行きますが、広報委員会についても「定例会」として学校に集まるのは、年間3回くらいに集約しました。

 中学校までは「参観日」などがありますが、高校になるとそんなものは基本的にありませんので、たまにPTA活動で学校に行くと、普段の「高校生活」の様子が垣間見えて、それはそれでありだな、と思います。
 これがなければ、年1回の「三者面談」くらいしか機会がありません。尤も、生徒によっては「たびたび『やらかし』て呼び出される」ということもあるようですが、息子に関しては、そんなことはなさそうです。

 娘の高校のPTAも、土曜日に総会を設定したりしており、父親率もかなり高いのですが、息子の高校との「掛け持ち」はちょっと無理なので、総会に出るくらいにしています。

■ 学校行事について

 息子の小学校時代で一番対応に困ったのが、実は「運動会」でした。
 身体障害は関係なく、発達障害のほうが原因です。

 特に低学年の頃は、とにかく参加を嫌がってしまい、早退してしまったり、体操服に着替えはしたものの校舎の陰にぽつんと一人でいる、という状態が続きました。
 それでも、4年生くらいからは「部分的」になら参加できるようになりました。

 どうやら「役割」がはっきりしていると参加しやすいようだということもわかってきました。
 やはり、特に「非日常」の行事に対しては「見通し」が立たないこともあってか抵抗が強かったようです。「役割」が示されることで、何をすればいいのか、何のために参加するのか、が明確になり、参加がスムースになるのかも知れません。
 普段とは違う環境の中で、自分が「何をすればいいか」「どう振舞えばいいか」がわからなくて混乱する、ということなのだろうかと思います。

 6年生の時は、その前年から参加していた娘と一緒に「応援団」に入れてもらいました。また、苦手な「騎馬戦」も、ケガなどで不参加の子と一緒に「太鼓係」として参加するなど、見違えるように、いきいきと参加していました。
 やることがない時は「保健係」として保健室で養護の先生と待機する、という「居場所」を確保したりもしました。

 4年生の時に、「2分の1成人式」とか「4年10歳の会」と呼ばれる行事がありました。成人年齢が18歳になってしまったので、今では何と呼ばれているかわかりませんが。
 ここで息子は、「証書」みたいなものを受け取るセレモニーを頑なに拒否し続けました。リハーサルだけではなく、本番でも、です。

 何故なのかわからなかったのですが、後日、本人が語ったところによって、意外な「理由」が判明しました。

「だって、まだ10歳じゃない!」

 3月生まれの発達障害児らしいと言えば、まあ、そういう理由でした。
 その代わり、と言っては何ですが、中学校の卒業式は、ちょうど息子(当然ながら娘も)の「15歳の誕生日」でした。
 コロナの影響により、筆者は見られませんでしたが、何の抵抗もなく「卒業証書」を受け取ったようです。
 いずれ迎えることになる「成人式」改め「二十歳(はたち)の市民を祝うつどい」(横浜市版の名称です)も20歳の誕生日前になるわけですが、その時にはどうなることやら、と思いました。
 まあ、ここ最近の息子の成長を見る限りでは、もう心配は要らなそうですが。

 反面、特別支援学級(個別級)「独自」の行事は、比較的スムースに参加できました。
 大きなものとしては、区内の小学校の個別級が合同で行う、「学習発表会」や「合同宿泊体験」などが挙げられます。
 「学習発表会」は、特に対応が必要なものはありませんでしたが、他校の個別級の児童との交流も生まれることがありますし、療育センター時代の「同級生」を見かけることもありました。
 中には、こども医療センターに入院中「同室」だった子もいて「あの子も個別級なんだ」と驚くとともに、みんな大きく成長していくんだな、と思いました。

 「合同宿泊体験学習」は、当時「上郷森の家」(栄区の最も金沢区寄り)が会場でした。自宅から、夜間や早朝であれば、車で30分ほどで行ける場所です。

 1年生の時は、たまたま体調を崩してしまったため「欠席」したのですが、2年生からは医療処置の対応が必要になりました。ちょうど、数時間おきの処置は不要になって、1日1回で良くなってはいたのですが、基本的に、夜寝る前に行うため、2年生の時は夕食・入浴後に車で自宅へ連れ帰り、翌朝の朝食前に送り届ける、という対応にしました。
 3年生からは、施設内の身障者用トイレを使わせてもらうことにして、入浴後のタイミングで筆者が「上郷森の家」に行って処置、念のための確認のため翌朝再度行く、という形にしました。

 今考えると、このように途中からとはいえ親が来る、という「見通し」があることが、安心して行事に参加できるポイントの一つだったのかも知れません(でも「運動会」も普通は親が来る筈なんだけど)。これは、後述する副学籍学級(交流級)での「宿泊行事」にも言えることだと思います。

 個別級の合同宿泊体験は、同じ学校からの参加者が少なく、それも個別級の児童ばかりで気心も知れており、施設・設備面でも余裕がありましたが、その他の学年ごとに行われる「宿泊行事」については、色々と「対策」が必要になりました。

 4年生の宿泊学習は市内(旭区・大池公園の青少年野外活動センター)でしたので、2年生の時の「合同宿泊体験学習」と同様に「夜一度連れ帰って翌朝送り届ける」という対応でした。

 しかし5年生の野外活動は、富士五湖の周辺や樹海などに行き、西湖の畔にあるホテルに宿泊、2日目は富士山を6合目まで登る、という内容で、流石に自宅からそこまで二往復するのは無理です。
 そこで、近くで宿泊施設に余裕のありそうな、例えば河口湖辺りにホテルを探して、夜連れ出そうかと思いましたが、学校側が配慮してくれて「予備」の部屋に筆者と2人で泊まることを提案してくれました(もちろん筆者の分は実費負担です)。
 朝食も息子と、というより児童に混ざって、となりましたが、随行の写真屋さんが「はい、先生もこっち向いてくださ~い♪」と、勘違いしたりしていました。まさか「保護者」が紛れ込んでいるとは思わなかったのでしょう。

 そして6年生での「修学旅行」は、2泊3日。しかも泊まるのは、群馬・片品村の民宿に分泊という、めちゃくちゃ難易度が高いミッションになりました。
 長男は、行きの修学旅行専用臨時列車(貨物線を経由したりもするので)を、恰も「ミステリートレイン」のようにとらえて興奮気味にワクワクしていましたが。
 民宿では処置をする場所を確保するのも難しそうだったため、車でも片道1時間近くはかかってしまいますが、沼田市内のビジネスホテルを確保して、夕食後に連れ出し、朝食前に送り届ける(これを2日間繰り返す)という対応を取りました。
 初日は夕刻までに現地に着けば良く、最終日は朝に現地を発てますが、初日「午後半休」で最終日「午前半休」では、流石に厳しいな、と思いました。
 2日目の日中は「暇」なのですが、かと言って群馬県の山の中から「通勤」するのもなあ、と、結局三連休にせざるを得ませんでした。

 西湖も片品も「自家用車で追いかけていく」という手段でしたが、やはり親が来るという「安心感」はあったのかな、と思います。片品での「川遊び」の時に虫に刺されて凹んでしまった、というアクシデントはありましたが、それ以外は大いに楽しめたようでした。

■ 特別支援学級(個別級)について

 息子たちの小学校は、各学年の一般学級が3~4クラスでしたので、通称「5組」と呼ばれていました。
 その後、中学校では一般学級が全学年5クラスでしたので、通称は「6組」でした。

 この界隈の小・中学校では、このパターンが多いようです。
 もう今では統合によって「廃校」になった小学校の話ですが、そこでは各学年とも1クラスしかなかった(さすがに「複式学級」にはなりませんでしたが、その寸前まで児童数が減少したので統合されたということになります)ので、特別支援学級は「2組」でした。ここまでくると「何だかなあ……」と思ってしまいますが。

 一方で、他都市の例を見ると「あじさい学級」とか「いちょう組」だとか「特別」な名称のケースをよく見ます。でも何だか、幼稚園・保育園のクラスみたいにも見えます。
 「特別支援教育」が「特別」であるべきか否か、という課題にも通じる気がしますが、一般学級からの「通し番号」は、無難な選択のように思えます。

 傍目には「学年」も関係なく「一つのクラス」に見える特別支援学級ですが、厳密には「学年ごと」「障害種別ごと」のクラスに分かれています。
 更に「同一学年・同一障害種別」の児童・生徒が8人を超えると、更に複数のクラスに分けられます。これは、一般学級がいわゆる「40人学級」などと在籍数の「上限」が定められ、これを超えないように学級編成をするのと同じく、特別支援学級も「一学級最大8人」と定められていることによります。
 ただし運用上は、全学年を通じて障害種別ごとに「8人」を超えると担任の教員が1人増える、という形になっているようです。

 小学校では、恐らく「知的」の児童が1~2人いて「自閉・情緒」の児童が9~10人程度、という構成が続いたようで、担任の先生は3人(知的1+自閉情緒2)いることがほとんどでした。
 流石に単独の学年で8人を超えることはなかった(近隣の他校ではそれなりにあったかも知れません)ので、各学年の「知的」が「5組」、「自閉・情緒」が「6組」というのが「正式」でした。
 息子は卒業時、正式には「6年6組1番」(表面上は「6年2組37番」)だったことになります。

 ここで「出席番号」のことを思い出しました。

 「男女混合出席簿」という言葉を御存知の方も多いかと思います。
 と言うよりも、現在ではこれが「主流」です。

 かつては「男子を五十音順に並べて、続いて女子を五十音順」という出席番号の「付け方」をしていた学校がほとんどでした。
 しかし「男女平等にそぐわない」という声が高まり、今では「混合名簿」が主流になっているようです。
 個人的には「何でも混ぜりゃいい、ってもんでもない」と思うのですが(極論すれば健康診断とか銭湯なども混ぜますか?ってことになります)。
 「じゃあ女子を先に……」という小手先の方法では、当然ながらダメだったようです。奇数学年と偶数学年で男女入れ替える、とかも考えられそうですが。
 また、近年では「名前だけからでは(漢字で書いてあったとしても)男女の区別ができない」名前が蔓延しているので、混合出席簿では「性別」の判断ができません。

 これをどうにかしようとしたのか、息子の高校の名簿では、女子の場合は欄外に「◯」が付けられていました。
 PTAでこれを見た時、「この◯って何? 何かの委員をやってくれる人?」とざわつきましたが、どうやら「女子」らしい、と気付くまでに数分かかりました。そのくらい「名前」だけでは性別が判りません。

 この課題は、特別支援学級と副学籍学級の間でも起こります。

 息子の場合、小学校の副学籍学級では一般学級の児童の出席番号(これは男女混合出席簿です)の最後に続けた番号が付けられました。
 例えば、一般学級の在籍児童が36人だったら、副学籍学級として割り当てられた特別支援学級の児童は、その中での五十音順に37番、38番……となります。
 ですが、仮にその一般学級に「転校」してきた児童があると、その児童に37番が付けられる(転校していなくなった児童の場合は、その番号は何故か「欠番」になります)ので、特別支援学級から「交流」で副学籍学級として参加する児童の番号は38番、39番……と繰り下がることになっていました。

 「男女」は気にするのに「障害」は気にしないんだ……。

と、妙な違和感を覚えたことが記憶に残っています。

 中学校では、男女混合出席簿方式だった上に、副学籍学級として在籍する特別支援学級の生徒も「混合」される方式でした。

 何だ、やればできるんじゃないか!

 「特別支援学級」も学校によって、かなり違いがあります。
 雰囲気もそうですし、担任の先生の「経験」(特に「特別支援学級」などを担当した経験の量)も違います。何より、人数などの規模も違います。
 同一障害種別の人数が8人(の倍数)を超えるかどうかによって「児童1人当たりの教員数」にも差が出てしまいます。

 また、一般学級を含めた全体の児童数が多いからと言って、個別級の児童数も多いとは限りません。
 息子が通った小学校は、他校と較べると(学習発表会などを見るとよくわかります)全体の児童数の割には個別級の児童が少ない、と感じていたのは、既に述べたとおりです。

 そのようなこともあるので、進学予定の学校の特別支援学級を含めた学校の様子については、必ず見学しておいたほうがいいと思います。
 中学校の特別支援学級については、学区内小学校の特別支援学級の児童等を対象に「見学会」があることが多いですが、小学校についてはあまり聞きません。
 そもそも就学前の「特別支援教育が必要な幼児」についての情報を小学校側が覚知することは難しいでしょう。
 「就学前相談」を受けたら、まずは入学予定校に連絡を取ってみることをお勧めします。

 実は、横浜市のように「特別支援学級が全ての市立小・中学校に設置されている」(希望者がいないため設置されないといった例はありますが)というのは「少数派」だと思います。
 他都市、特に他都府県での話を聞くと、全校に支援級が設置されていないために、学区外の小学校に通わなければならず付き添いが必要になり、親の就業に影響が出る、といったケース(横浜市の場合では、同様の問題が通級指導教室などに現れますが)もよく耳にします。

 「医療費助成」や「障害者福祉」などについては、近隣の他市等と較べてとやかく言われることの多い横浜市ですが、発達障害児に対する療育手帳交付の運用や特別支援教育などについては、かなり積極的かつ柔軟だと思います。
 これらは神奈川県全体についても言えることで、神奈川県内での公立小・中学校への特別支援学級の設置率は非常に高いのです。
 とりわけ全国で最も多くの市立学校を抱えている横浜市で、その小中学校すべてに特別支援学級を設置できているということは(神奈川県内が総じて高いためかほとんど取り上げられることがありませんが)実はすごいことなのではないかと思います。

 また一般学級とは違って、個別級は6学年合同です。
 放課後児童クラブもそうなのですが、そのような環境に身を置くことで、進級するたびに「後輩」が増えていき、それによって社会性も成長するのではないか、と感じたこともあります。
 息子の場合は、そこで「先輩」としての「役割」が生まれることで、自分がやらなければならないことを自覚し、色々なことに積極的に参加できるようになったのかも知れない、と思っいいます。

■ 得意科目

 息子は、小学4年生の頃に突然「歴史」、特に日本史に目覚めました。
 小学校卒業の頃には、日本史だけは「大学受験即応」のレベルに達していたと思います。

 きっかけは、その頃に放送されていた「仮面ライダー・ゴースト」(歴史上の人物がモチーフのアイテムが出てきます)の影響かな、と思っています。何がきっかけになるかわからないのが「育児」の面白いところだと思います。

 また、ちょうど大河ドラマ「真田丸」が話題になった年だったこともあり、「歴史(日本史)」への興味について更に拍車がかかっていったように感じます。

 そんなこともあって、5年生の時に息子と二人で関西方面に行き(残り少なくなっていた「500系」の新幹線に乗るという目的もありましたが)、大阪市内で1泊して、姫路城や大坂城、「真田丸」の趾(と云われるもの)などを訪れました。帰りは名古屋まで近鉄特急に乗ってみたりもしました。
 それ以降も、時々、日帰りや1泊で「電車の旅」(たまに一部飛行機の時もあります)に出かけていましたが、新型コロナウイルス感染症のため、中学2年からは行けなくなりました。

 そう言えば一度、6年生の時に土曜参観の「代休」の際に「家族」で京都に行ってみました。
 今にして思うと、これが「最後の家族旅行」です(笑)。現在は「保護ネコ」が家にいるので、全員で泊りがけ、は難しくなりました。
 嵐山や二条城、金閣寺、伏見稲荷などくらいしか行けませんでしたが、本来なら京都などに行くはずの中学校の修学旅行が「中止」になってしまいましたから、行っておいて良かったと思います。

 この「日本史」をきっかけに、社会科は「得意科目」と言えるようになったのですが、だからと言って「交流級」の社会の授業に参加できるか、というと「簡単すぎてつまらない」ということで継続しなかったのは、既に述べたとおりです。

 余談ですが、寺社仏閣とか「城」は、各種「手帳」の提示で(同伴者も含めて)割引や無料になるところが多いので、障害児との「お出かけ」には特にお勧めです。他にも、博物館や美術館、動物園・水族館などは、割引制度が充実していると感じます。

 「家族旅行」は6年生の時の京都が最後ですが、年始などには時々、筆者の実家に「妻抜き」で帰省したりはしています。
 「夫の実家」だと、妻も気を遣うと思われますし、義父(子供達から見ると祖父)や(亡くなりましたが)義祖母(子供達の曾祖母)が高齢で、その「介護」などがあるという「理由」を付けて「妻抜き」にしています。

 自分と長男は「電車の旅」に行きますし、勤務先の「永年勤続表彰」ポイントで妻と長女が箱根に行ったり、と、コロナの影響は多少受けながらも、どこにも行っていないという訳でもありませんでした。

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