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一切衆生悉有仏性から山川草木悉皆成仏の経緯分かった!

「山川草木悉皆成仏」と覚えていたが、これはインチキだった。梅原猛さんが創作して言い出して、中曽根総理が国会の演説に使い、日本の自然を尊重する文化、アミニズム的な人々の意識を説明するにうってつけとして今日まで残って来たのだが…。おそらく乃木希典の漢詩「金州城」の「山川草木うたた荒涼」の歌い出しから梅原猛が思い込んだものではないか。私も詩吟をやっていたので、いい調子で唸っていたものだ。
もし仏教史に存在するものとすれば、「草木国土悉皆成仏」が天台宗で言われるようだ。人間や動物といった有情、意識あるものだけでなく、草木や、さらには無機物である国土も仏陀になれる、ということだろう。これは仏教が大乗仏教になり、日本で天台の本覚思想に至って、修行や悟りがなくとも、しかも涅槃に行けるだけでなく仏陀になれる、という救済色の一層強いものとなったことのあらわれだろう。さらには浄土真宗となれば、絶対他力で念仏によって悪人も浄土に行き、そこでに仏陀になれるという考えにつながる。あなたももともとは過去のどこかの宇宙で仏陀に出会ったのだから、仏陀になれるんだと。
ところがこの「草木国土悉皆成仏」すら仏教経典にはないらしい。日本の天台僧安然の作った言葉のようだ。アミニズム的な神道と仏教を神仏習合した日本思想にピッタシ。今年の祇園祭では、かつて八坂神社(祇園社)は延暦寺の末寺と神仏習合されていた由来に因み、天台座主を招いて講話を、という企画を進めているとも聞いた。日本の空気に適う。
仏典にあるとすれば、涅槃経に「一切衆生悉有仏性」とのこと。これなら大乗仏教として、出家した阿羅漢だけでなく、在家者も、皆仏性はあり、煩悩で汚れてしまった阿頼耶識も、元来は仏性を持つという如来蔵思想由来で、素性ははっきりする。いきなり成仏、しかも意識のない無情も成仏、ということではなかった。
ところがところが、これは大乗仏教の涅槃経にのみあるのであって、初期仏教の涅槃経、いわゆるブッダ最後の旅からクシナーラで涅槃に入り、在家によって荼毘に付され、分骨されるあのお話にはないのだそうだ。
玄奘三蔵がインド求法の旅の出た大きな目的の一つが、本当に自分のようなものに仏性があるのだろうか、という疑問を解決するためだったらしい。当時の中国仏教では大乗仏教の如来蔵思想が一部で広まりつつあり、成都、長安でこの思想の中核である全ての人には元々は仏性があると学んだ玄奘三蔵は、でも本当だろうか、もう中国にいても仏性の有無を研究するすべがないとしてインドに向い空や唯識を学び極め、やがて法相宗となり奈良の薬師寺興福寺に伝わったのだ。
ブッダの教えに始まり日本に仏教が伝わる間に、仏性あるかも、から成仏できるになり、人間動物どころか草木や石や土も成仏できるになったのだ。
文献学的に梅原猛の言葉が仏典に典拠がないとあげつらうのはやめるべきだ。環境問題や平和を考える時、一神教思想に極めて近い阿弥陀信仰でありながら、仏陀の優しき心から、生けとし生けるもの、地球から宇宙までを、攻撃したり征服する対象ではなく、共に生きる仲間と見るように進化させた日本の仏教は素晴らしいもんじゃないか、と感じたのである。

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