なぜ私が反出生主義に至ったか
反出生主義とは、人は生まれてくるべきではなく、また、子を生むべきではない、という思想のことである。
これは、私が反出生主義に至るまでの過程を記したものである。
私は、九州のとある地方都市で生まれた。
両親は若くして出来ちゃった婚をし、共働きで私を育てた。
両親は私が幼い頃から絶えず夫婦喧嘩をしており、それがしばしばDVに発展した。
そのストレスから派生したのか、直接的な虐待こそないものの、母は私に対してキツく当たることが多かった。
また、父はさまざまな職を転々としており、収入が安定しなかったため、家計はいつも火の車だった。
一時は生活保護も受けていたほどだった。
とにかく、両親は生きることに必死であった。
そんな両親を見て育った私は、私さえ生まれてこなければ二人ともこんな思いをしなくて済んだのかな、と思いながら日々を過ごしていた。
この貧困から抜け出すには大学に行くしかないと考えた私は、大学進学者の多い県立高校に通い、大学受験に向けて勉強した。
しかし、貧困ゆえに塾に行く余裕はなく、ブックオフで集めた参考書と学校で配布された問題集で勉強するほかなかった。
(今のように格安のオンライン講座など無い時代の話である。)
結局、大学受験は一浪して本命ではない県外の国立大学へ進学するという結果になった。
それでも、大学に進学して環境が変わったことで将来の展望が開けたような気がした。
相変わらずお金がなかったので、留学やバンド活動など大学生らしいことはあまりできなかったが、貧乏学生なりに楽しみを見つけて暮らしていた。
結果的に父が病気になり学費が払えず中退することになったが、就職先を確保していたのでそれほど悲観もしなかった。
問題は就職してからである。
なんとか自分ひとり生活できるくらいの給料は貰えたが、とにかく仕事が苦痛で苦痛で仕方がなかった。
入社して実務に携わるにつれて、私がこの仕事にことごとく向いていないことを痛感せざるを得なかった。
周りを見渡すと、上司も同僚も後輩も皆死んだ顔をして働いていた。
転職しようと情報収集をしてみても、募集している会社で今の職場よりマシなところは正直言って見つからなかった。
それでも我慢して働いていると今度は適応障害になった。
診断から3年経った今でも休職と復職を繰り返して、すっかり慢性化してしまった。
ここに来てやっと、この世界にはもう私の居場所などないのだと悟った。
せめて仕事さえできていれば生活できるけど、仕事ができないんじゃどうしようもない。
生きている限り苦しみからは逃れられない、生まれたことがそもそもの間違いだったのだと気付いた。
休職してから、Twitterで色々な境遇に置かれた人のツイートを見る機会が増えた。
中には私よりも厳しい境遇の人もいた。かなりいた。
それじゃあもっと私も頑張らないと、とはならなかった。なるわけない。
むしろ、どうしてこんなに厳しい境遇に置かれた人が多いのか、そちらの方が気になった。
こういう時によく個人の努力不足が原因として挙げられるが、これだけの人がつらい日々を送っているのに、それを全て個人の責任で済ませていいとは思えない。
とはいえ、厳しい境遇に置かれた人達をたちどころに救う有効な手立てがあるわけでもない。
人間は、生まれた時からあらゆる競争にさらされる。
競争に勝ち続ければいいのかもしれないが、そう上手くいくものではない。
そもそも生まれるかどうか自分で決められないのに、生まれた瞬間からさまざまな洗礼を受けなければならないというのは、よくよく考えれば酷な話である。
”生まれない”という状態がどういうものなのかは分からないが、少なくとも生きることは苦痛が伴う。
それなら、生まれない方がいいのではないかと思う。
そんなことを考えている中で、反出生主義というものに出会った。
シオランの『生誕の災厄』も読んでみた。
生まれない方がいいというのは自然の摂理に反するのでそう考える人間は滅多にいないだろうと思っていたが、反出生主義者は少数ながら古今東西にいるようである。
身の回りにはいなくても、世界のどこかに同志がいると分かっただけで嬉しい。
改めて、世界は広いのだと実感した。
ただ、私としては反出生主義を他人に押し付けるつもりはない。
生きていること、生まれることに何の疑問も持たない人に反出生主義を説いても理解してもらうのは困難だし、お互いに時間の無駄である。
そもそも子孫を残すのは動物としての本能であり、それを理論でねじ伏せることに意味があるとは思えない。
反出生主義は、人間社会に反旗を翻す者達によって密かに語り継がれるくらいがちょうどいいのではないかと思う。
というわけで、私が反出生主義に至るまでの過程を綴ってみた。
何かの参考になれば幸いです。