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どこに住むべきか 過去の履歴も未来の可能性も検討する必要はあるけれど、一番大切なのは「理性」と「魂」の一致

家そのものだけでなく住む場所も大事ですよね


 以前のブログで、
アレルギー持ちの私が快適に暮らせるあこがれの家についてあれこれ考えてブログに書いていたら、直後に、まったくあつらえたように理想的な家を提供してくれる技術と志のあるハウスメーカーさんの広告が出てきて、
 今のところまったく購入のめども予定も余裕もないのですが、ハウスメーカーさんにお願いしたら快くモデルハウスを見学させていただいた というお話をいたしました。
 あつかましい限りなのですが、本当にこんな素敵なことがあると「運が向いてきたんじゃね」と思ってしまいます。
 加えて、先日なんと、猫のうん●を素足で踏んずけてしまいましてね、あんまりないですよ、こんなこと。
 もう開運の兆ししか見えないぜ、って感じです。

 ヴァジム・ゼランド氏の第2巻「願望実現の法則 魂の快・不快の選択」には、自分の理想とするものを心に描き、ただ描くだけでなくそしてただ映画のように第三者視点で眺めるのではなく、自分がその理想の世界の中に入っている状態を何度も何度もイメージするというのがコツとしてでてきます。
 モデルハウスを見学させていただいたことで、写真や映像だけでなく、実際に理想の家の中に入って触れたり心地よさを感じれたのは本当にありがたい得難い体験でした。イメージングがはかどるというものです。
 
 ゼランド氏の「理想とする現実のイメージの仕方」についてはまたあらためて引用をさせていただくこととして、
今日は、もし家を建てるなら必ず考えなければならない「どこに住むべきか」というのを考えたいと思います。
 


今の場所で老後を過ごすつもりはあまりなく・・・

 
 私自身は嫁ぐときにはもうすでに家があって「ここに住むよ」というのが決まっていたので、住まうところに関してあれこれ悩むということはなかったのですが、家を建てるときには土地選びも大事ですよね。

 例外はあるでしょうが、
多くの方が20代から30代で、十分な年月をかけてローンが組めて、そして新しい我が家で子育てをしたいと考えてそのあたりのタイミングで家を建てられると思います。
 
 私の知人には、「子供の面倒を見てもらうことを前提に、どちらかの親の近くで土地を探して家を建てた」「親の持っている敷地に建てた」という人もいましたし、生まれ育ったところに親や親族だけでなく仲の良い友人知人もたくさんいて、生家から離れたくないという人もいるでしょう。
 自分の勤め先や子供の学区、親の介護の可能性などを考えると「選ぶとしたらこの範囲よね」と決まってしまう方も多いのではないでしょうか。
 
 そしてその中で、駅や学校、スーパーなど周辺施設からの距離、そしてだいたいエリアが決まったら、陽当たりとか、近隣の先住者の様子、騒音等の可能性、ゴミステーションからの距離とか、風水的にどうかとかで絞っていくのでしょう。

 私が住んでいるところは、最寄りの私鉄の駅まで10分程度、最寄りのJRの駅までは成人男性なら20分超ぐらいで歩けますが、このJRの駅は割と人気があります。
 私の住む町は、もともと人は住んでいたけれど50年くらい前にさらに大規模に宅地開発されたところらしく、ですからまぁ、30歳で建てたとしても居住者がけっこうなお年になっているので、最近町内では古いお家が取り壊されていつの間にか新築のお家になっていたりします。
ここ10年ぐらいでどんどん世代交代が進んでいくのでしょう。
 JRの駅周辺は大体なんでも揃うのですが、最寄りの私鉄の駅前にほとんど何もありません。
町内には小さなスーパーもあるので、日々の生活がなんとかなるっちゃなるのですが、やはり銀行や通院、大きな買い物など用足しとなるとJR駅周辺まで行かなければならず、脚が達者なうちや自転車、自動車の運転が大丈夫な間は問題ないけれども、老後は辛いのではないかなと。

 以前にも書いた通り、うちは小さな古い家ですが、通りが奥まっていて知らない通行人が行き来してうるさいということもなく静かで、周りもお庭や緑があって、そういうところはとても気に入っています。
 ただ、昔は畑だったところにもどんどん家が建ち、周辺の生活道路が農道に毛が生えたようにせまいため車もポイントポイントでないとすれ違いができず、街を散歩をしていても楽しいとあまり感じないのです。

 先日はっとすることがありました。
 スマホアプリでAI英会話をしていると書きましたが、AIの先生が「あなたの街の好きなところを聞かせて。お気に入りの場所は?」とか聞いてこられましてね、それがね、本当に無くって。

 そうは言っても、都市部はどこも人口が密集している日本で、
近くに素敵な広々とした緑豊かな公園があって、空が広くて遠くに美しい景色が広がって、道路も歩道が整備されて、近隣のどこのお庭も美しくて散歩しているだけでワクワクして、それでいて必要な施設は10分程度歩けばよいところに揃っている・・・
そんな好条件なところはなかなかないのかもしれません。

 ・・・ですが、今の私にとって家を建てること自体も「夢」なわけですから、この際土地選びも「夢が広がりまくり状態」で夢想してみようと思います。

 

「理性」での土地選び 過去の履歴

 
 「ちゃんと建てる前に古地図も調べたのよ」と家を建てたママ友は言っていました。そうです、土地の過去の履歴は大切です。
  
 うちの近くには谷のようになっているところがけっこうあって、そのあたりは比較的大きくてキレイなお家が建っているのですが、家人によると「あの辺は一面水田で、カエルがものすごくうるさかったよ」とのこと。
そう、得てして、「この街ちゃんと区画整理されていて道路も広々していていいな」と思ったら「そういう街」だったりします。
 宅地開発してからの経過年数にもよるのでしょうが、そういったところは湿度管理の必要性や、地盤などもよく調べる必要がありますよね。
 
 そしてもうだいぶ前になりますが、広島だったでしょうか、新興住宅地で家を建てたら鉄砲水で家が流されてしまって、開発前の土地の名前を調べたら「絶対住んではいけない」感のあるけっこう恐ろしいものだった、ということもありました。

 
 大震災に伴う津波でも、「ここより下に家を建てるな」の石碑があったり、神社のあるところまでは水が来なかったという話があったりしますので、そういう先人の教えも参考にすべきかもしれません。

 ところで、工場や病院や特殊な施設の跡地などは宅地にできるのかしら、と思ったのですが、そういうところでも土壌処理さえすれば宅地にできるみたいですね。
 安全性が確保されていれば気にしないという人にとっては放り出しもの物件かもしれませんが、気になる人、リスクを避けたい人はやはり過去何に使われていた土地だったかを調べるのは大切そうですね。

 またとても気にする人は「大嶋てる🔥物件」跡地でないかどうか、住所を入力して検索してみるのも大事かもしれません。


「理性」による土地探し 現在と未来のリスクと可能性 「立地適正化計画」と住民の世代の新陳代謝

 
 最初に書いた通り、ほとんどの人が現在の利便性や近い将来の可能性で土地選びをするのではないでしょうか。
 今現在駅近か、学校や病院や商業施設は近くにあるか、などですね。
 そしてもし特別「実家に近くなくては」などの制限が無ければ、ハザードマップなどで、浸水や土砂崩れなどのリスクを検討したうえで、予算や利便性を考えて具体的なエリア選びをされるかと思います。

 でもそれらのリスクを排除して、安全と思われる風光明媚な宅地を手に入れてもまだ安心はできません。

 私が、もう15年ぐらい前でしょうか。あるテレビ番組を見ていました。
舗装道路の割れ目から水があふれていて、どうやら道路の下の水道管が破損しているようなのですが、それを直すだけの行政の余裕がなく、後回しになっているとその町の公務員の方が説明しているというものでした。
 もうずいぶん前ですよ。
あれから年月も経ち、今後日本の人口は増える見込みがないことがはっきりしている今、そのような町はもっと増えているかもしれません。

 
 私が見学させていただいたハウスメーカーさんのyoutubeチャンネルで、とてもくわしく「立地適正化計画」についての動画で解説してくださっていました。youtubeで「立地適正化計画」で検索すると動画が出てきます。また「立地適正化計画」でネット検索すると、国土交通省のHPがトップで出てきます。
 要するに「これからどんどん人口が減ってくるのに、郊外や僻地のインフラにまで責任もてへんで。インフラ利用したいんだったらキュキュッと集まって暮らしてね」というものですかね。

 うちも数年前と比べてえらく水道代が上がっていて、まあうちの場合はどこか床下とかで水漏れしているのかもしれませんが、
 全国的に高度経済成長期に施設された水道設備など一斉に取り換えの時期のようなのでその費用が反映されてくる可能性もあります。
 古いインフラ設備を直すのにもいわゆる計画地域が優先、それに外れたところはなかなか整備補修が行われない、そんなことがこれからどんどん起きてくるかもしれません。
 
 横浜だったでしょうか、バス運転手さんの不足でバスの営業本数が減り、長蛇の列になっているとニュースになりましたが、これからこのようなことが各地で起こり「採算が合わないので廃止します」というところも出てくるかもしれません。
「バス停の真ん前で便利だから」と宅地を買ったのにバス路線が廃止になったら、駅までの距離によっては大変困ることになります。

 またこの「立地適正化計画」ですが、現在の人口密度だけでなくおそらく人口動態の可能性なども考慮されているとは思いますが、その町のボリュームゾーンの住民の年代も考慮しておいた方がいいかもしれません。
 その当時は憧れだったニュータウンが、時を経て住民が一斉に高齢化し、また建物や街の作りが高齢者に優しいものではなかったりして居住に適さないとみなされさびれてくるようなケースもあります。

 私の住む町についても、冒頭で50年ほど前に開発されて現在世代交代が起きていると書きましたが、このまま順調に世代交代が進むのかはわかりません。
 JRの気が変わって「通勤に便利な街」でなくなったり何らかの理由で街の魅力がなくなったら、新しく宅地を買って家を建てようという若い人が来なくなったら、空き家が建ち並ぶ古びた町になる可能性もありますし、
 また、埼玉などの一部の自治体で見られるように、外国人の人たちが増え、これらの古い家を買い取って大勢住むようになったりしたら町の様相が短期間に一変するという可能性もあるかもしれません。

 
 

変化が激しすぎて未来の可能性が見えない

 
  地方に旅行に行ったりすると感じるのですが、もはや鉄道が主なインフラではない町も多数あります。
 観光地などに行くと、駅前にはホテルやバスターミナルはあるもののあまり買い物や居住に適した環境ではなく、少し離れた国道沿いに大きな駐車場付きのチェーンのスーパーや飲食店が並んでいる。そして、駅前の、かつては賑わっていたであろう商店街のアーケードの店舗はほとんどシャッターが下りていて、でもどうやら店舗の2階には人が住んでいるようで、町の新陳代謝が進んでいない。

 これは、人口の減少やモータリゼーションによって起こった変化でしょうが、今後さらに日本の人口が減ることになったら都市部だってどうなるかわかりません。

 コロナで「ステイホーム」、「リモートワーク」が叫ばれ、電車の乗車密度が一気に減ったのは記憶に新しく、JR東日本が2期連続の赤字になりました。
今後の人口減少で鉄道で不採算路線などが増え、減便や廃線、乗車料金の値上げなどが起こったら、また「家で仕事をする」というのがスタンダードになるかもしれません。

 また、この20-30年で通信、情報伝達の発展は目覚ましかったですから(みんなが手のひらサイズの四角い板に夢中になっている光景は想像もできなかったですよ!)、人や物の輸送についても、この先ちょっと今までは考えられなかった未来が待っているかもしれません。

 物流も人手不足と高齢化でどうなるかわからないと言われていて、アマゾンが「ドローンで荷物を運ぶ」とかちょっと前に言っていましたが、あれも私は「空からポトッと落ちてきそうでなんかこわい」と思っていましたが、その後どうなったのでしょう。

 空の輸送の可能性もそうですが、AIの発達によって私たちの仕事の在り方などもさらに変わってくるでしょう。

 医療なども遠隔での診断治療が当たり前、よくSF映画などにでてくるようにポッドの中に入ったら適切な処置がされるようになれば、「病院」という施設の概念もなくなるかもしれません。
 銀行もどんどん実店舗を減らしていますし、通販が発達しすぎたからか、デパートもどんどん閉店していっています。

 もし、駅近くに病院や商業施設が並ぶことがなくなったら、駅に近い場所に高いお金を出して土地を購入し、ひしめき合って住む意味とは?となってきます。

 
 では送電や上下水道はどうでしょうか。やはり「立地適正化計画」に基づいて縮小されたりしていくでしょうか。

 今このような計画が進められている背景として、人口減少→税収不足で行政がカバーできる範囲が限られてくるからというのがあるかと思います。

 先日漫画家の鳥山明氏が亡くなられましたが、鳥山明氏の東京への移転を阻止するために自治体が空港までの専用道路を引いたなどという話もありました。
・・・私は「すごーい」と半ば信じていましたが、都市伝説だそうですね。


 
 漫画家にかぎらず、youtuberなどアイデアと実力次第で会社などに属さず場所に縛られず桁違いに収入を得る人も増えている今、そういう人たちが自治体のインフラに頼らずに、自然発電などで電気をまかない、天然水をろ過して利用するなど、自然豊かで景色もよい土地に自分たちのエリアを作って安全とプライバシーを確保して住むということもあるかもですね。
物資調達や移動はプライベートジェットで。
 自治体選びを間違って不便だったり危険な目にあったりするより、こちらを選ぶというお金持ちは増えるかもしれません。

「ゲーテッドハウス」で検索すると、すでに日本国内でもあるのですね。

 ただまあ「普通の庶民」はやはり上下水道などのインフラは自治体頼りで、これからは、今以上に真剣に、よりうまく運用できるところ、一定の人口がいて比較的低料金で安定して公共サービスを提供してくれる自治体を求めて移動し固まって暮らすのかもしれません。
 

 
 
 少し前からネットでちょくちょく見かけるのですが、
生活に必要なすべてのものが徒歩、自転車、公共交通機関で15分以内の場所にある「15分都市」なる概念も計画されていると言われ、
こういうのを見ると「なんか閉じ込められそう」「移動の自由がなくなりそう」「管理されそう」と不安な気持ちになりますが。

 

 でも逆にこちらのヴィーナス・プロジェクトは一見似たようでありながら、ずっと魅力的に感じます。
「貨幣や政治の撤廃」を掲げていて、ベースとなるコンセプトが違うからでしょうか。


 このあたりについては、いまポッと思い出したので書いただけで深く考えていないので、まだ考えも固まっておらずサラッとしか書きませんが、

 話が散らかり放題になりましたが要するに、
本当に資源問題も人口動態もこの先の災害のリスクもテクノロジーの発展による様々な移動・輸送等の手段も、どんな大きな変化があるかわからない今、
「ここに住んだらこの先ずっと大丈夫」という場所を選定するのは非常に難しいと言えます。


理性と魂の融合

 
 まあ、だからと言って「どうせ先のことはわからないのであればどこでもいいやー」と、それこそ現在常識で考えられるリスクをガン無視で土地探しするのもそれも無謀。
 私たちの身近な周辺の土地を見ても、地価や人口動態が大きく変化したところもあれば、多少の変化はあれど安定して暮らしやすさを維持しているところもあるわけですから、
過去の土地の履歴や地質、各種汚染の可能性、ハザードマップや「立地適正化計画」の範囲をよく調べて検討するのは十分に意味のあることです

 けれど今後、今までの50年100年の変化を大きく上回るような変化もありうる可能性も大いにあります。
そしてそれは誰にも頭ではわかりません。
でもわかっている存在があるといいます。「魂」です。

 「魂」はヴァジム・ゼランド氏がいうところの「バリアント空間」というすべてが揃っているところを自由に行き来し「知っている」

 こんな興味深いエピソードがあります。
田坂広志さんの「運気を磨く」という本のエピソードです。

 もう一つのエピソードは、1985年のことである。
 筆者は会社の仕事の関係で、米国のワシントン州、R市にある、ある国立研究所を訪問した。そして、金曜日に仕事を終え、週末をホテルで過ごしていたところ、その研究所に勤める米国の友人が、私をドライブに誘ってくれたのである。
 そのドライブの最中、友人が、知人への届け物があるということで、市内の、とある住宅街へ立ち寄った。そこで、彼が届け物をしている間、私は、カメラを取り出し、車を降り、その住宅街の風景を、何げなく、何枚かの写真に収めたのである。
 しかし、その写真は、帰国後、他の海外出張の写真などと一緒に、無造作に写真箱に投げ込まれ、私の記憶からは全く消えていた。
 そして、それから二年後の1987年、これも何かの縁に導かれ、筆者はこの研究所に客員研究員として勤めることになり、着任後、R市内に、ある住宅を見つけ、その家に住むことになった。
 しかし、その研究所での一年半の勤務を終え、帰国のための荷造りをしているときのことである。たまたま、その写真箱が目に留まり、過去の海外出張の写真を取り出し、懐かしく眺めていたところ、ふと一枚の写真が目に入ったのだが、その瞬間、驚きとともに目が釘付けになった。
 それは、三年前のあのドライブのとき、何げなく取った複数の写真の一枚であった。
 その写真は、ある住宅を真正面から写したものであったが、その住宅は、驚くべきことに、今住んでいる家だったのである。

 これも、「単なる偶然」なのであろうか。
 ドライブの最中、何げなく、一軒の住宅の写真を撮った。その市内に無数にある住宅の内、一軒を、無意識に撮った。
 一方、着任後、無数の住宅のうち、偶然、一軒の住宅を見つけ、そこに住んだ。
 しかし、不思議なことにこの二つの家は、同じ家であった。
 それも「単なる偶然」なのであろうか。
 それとも、筆者が米国で働くことになること、そして、そのとき住む家を、自分の無意識は予見していたのであろうか。
 この二つのエピソードは、まさに、あるときの出来事が、あたかも未来を予見していたかのように感じられる現象であり、「未来の記憶」とでも呼ぶべき現象である。
 もとより、こうした出来事もまた、現在の科学では説明のつかない現象であり、「単なる偶然」として片づけることもできるが、実は、筆者には、こうした「未来の記憶」と呼ぶべき体験が、きわめて多くある。

 あなたは、これまでの人生において、こうした体験、自分の未来を「予感」したり、「予見」したような体験はないだろうか。
 筆者は、折に触れ、内々の会話として、いろいろな知人に、こうした体験の有無を聞いているが、予想以上に、こうした「予感」や「予見」の体験を持った人は多い。
 ただし、それらの知人は、こうした体験を語ることが、周囲の誤解を受けることを懸念し、あまり積極的に口に出しては言わないことも、一面の事実である。

 筆者もまた、そうした誤解を受けることを懸念する人間であり、本書で、こうした体験を語ることに、正直に言えば、ためらいはある。
 そして、何度も述べてきたように、筆者は、科学的教育を受け、工学研究者としての道を歩んできた人間でもあり、こうした現象を、すぐに「霊的世界」や「背後霊」「超能力」や「UFO」といった思考停止的な解釈に結び付ける非科学的説明には、まったく納得がいかない人間でもある。

 だが、一方で、筆者は、そうした科学的・研究者的バックグラウンドを持つがゆえに、現実に自分自身が何度も体験する「予感」や「予見」、さらには「未来の記憶」と呼ぶべき出来事について、何らかの科学的説明が存在しないのかを考える人間でもある。

 では、なぜ、我々の人生においては、こうした「予感」や「予見」、「未来の記憶」と呼ぶべき現象が起こるのか。そうした現象に、科学的説明はできないのだろうか。

田坂広志氏 運気を磨く~心を浄化する三つの技法~ 
第二話「良い運気」を引き寄せる「心の五つの世界」

 
 ご存じの方が多いでしょうが、田坂氏は原子力工学を学んだバリバリの理系の方で、そして「振り子の法則」のゼランド氏もまた量子力学を学んだ理系の方です。
 この田坂氏が若き日に大病を患ってから生還するエピソードは鳥肌ものです。ときどきyoutubeで拝聴します。

https://youtu.be/qhSRBpML-3U?si=x_sOYe4jNHlB0rJU

 
 そして、この本の引用の続きには、量子力学を用いた運命改善の話題の時に取り上げられる「ゼロポイント・フィールド」の話へ続きます。
この「ゼロポイント・フィールド」が、ゼランド氏の言う、「バリアントの空間、情報フィールド」に値するのでしょうか。

 そして、田坂氏の本で説く心の持ち方、ゼランド氏の「トランサーフィン」は共通点があるように思います。全く同じではないですけどね。
ゼランド氏のほうが、「修行」とかと無縁でもっと軽やかかも。

 
 話を戻しますが、実は私も田坂氏と似たような体験をしています。
 
 まだ独身の頃、仕事の関係で、その頃はまったく縁もゆかりもなかった現在の住まいの最寄のJRの駅を訪れたことがあったのです。
 嫁いでくる数年前でしょうか。
 夜、駅前から北に延びる道路に沿って明るいネオンの光が連なる景色を、コンコースの欄干にもたれ掛かりながらしばらく眺めていたのを覚えています。
 そのときは自分がこの駅を日常的に利用する生活を送るようになるとはまったく思ってもいなかったです。けれどなぜかあのときの光景はまざまざと覚えていて、後に偶然の一致に驚いたのでした。

 こうして「偶然」という形をとって「魂」はかすかな気づきを与えてくれます。
田坂氏も私も、のちに暮らすことになるとは知覚していなかったわけですが。

ゼランド氏は理性と魂が一致したとき、理想の現実が実現すると言います。

 「理性」を使って確かな情報を集め、常識的な土地選びをしつつ、一方で、自分の理想の暮らしのイメージを繰り返し繰り返し再生しその中で生き生きと暮らし、「魂」の声に耳を傾けることを忘れない。

 もし「理性」選んでこれ以上はないと思われる好条件の土地があったとしても「気分はどうか、よいか、悪いか」と必ず「魂」に尋ねる
 どうしても心が前向きでなく、自分で自分に対して「理性」で得た知識に基づいて「ここがいいよ」と言い訳をしなければならない、説得を試みなければならないような土地は避ける
 それができれば、その勇気があれば、
理性では見ることのできない未来のトラブルを避けることができるかもしれません。

私の選択と「ゲニウス・ロキ」

 
 さて、私がもし有り余るお金を持っていてどこにでも家を建てられるとしたら、どこに家を建てるでしょう。
 本当に、具体的な土地のあてはないのです。

 とにかく「ここではないどこかへ」って感じ。

 これは身バレにつながるのであまり書きたくないのですが、
ある方とお話ししていて私の住まいの話になったとき、
「町内中から厄を押し付けられてるよ、そんなところに居たら何にもよくならない、引っ越しなさい」
と言われまして。
 たしかに、ここに住むようになってからまるで閉じ込められたような閉塞感がひどく、確かに人生うまく行っているとはいいがたい・・・
 「ここではないどこかへ」とはもう20年以上思っていたけれど、まったく動けないでいたのです。
 このままここで人生を終わらせたくはないのですけどね。
 

 数年前に占星術師の松村潔さんの本だったと思うのですが、その本で「ゲニウス・ロキ」という言葉を知りました。
今、本もどれだったか忘れて手元にないので正確な引用ができないのですがおおまかには、
「自分のような職業の人間は部屋を借りにくいものだけれど、原宿はそんな人間にやさしい。街々によってその職業の人間が生きやすい、活躍しやすい場というのがある 土地そのものが持つ場の力がある」そういった内容だったと思います。

ゲニウス・ロキ

場所に現れている際立った雰囲気・土地特性であって、歴史・文化の蓄積によって生み出される類型化できない固有の価値、あるいはそれを体現している特別な場所をいう。ランドマークと重なることも多い。

ゲニウス・ロキ(Genius Loci)はラテン語で、「場所の精霊」という意味であるが、建築設計や環境設計に際しての空間認識概念として用いられている。

不動産開発に当たって、ゲニウス・ロキを保全し、活かすことには、事業の質を高める上で大事な着眼点であると考えられている。また、地域の歴史文化を継承し、あるいは建築物等を修復・復元するに当たっては、ゲニウス・ロキを尊重することが重要である。

三井住友トラスト不動産 「不動産用語集https://smtrc.jp/useful/glossary/detail/n/2626


 不思議なパワーを持った土地や建物があります。
多くの漫画家を輩出した「トキワ荘」、椎名誠の暮らしていた「克美荘」など。
自由業、自営業の人は、不思議と引っ越してから開運した、もしくはうまくいかなくなった、そんな経験を持つ人もいるのではないでしょうか。
そういった不思議な場所にも、魂の声を聞くことができれば巡り合うこともできるのでしょうか。


ゲニウス・ロキとは違いますが、

 地方から東京へ出てきたとき、私が暮らしたマンションは広さ優先と通勤のしやすさで選んでもらって特に不満は感じていませんでした。
 でも、他の女性たちは、部屋がせまくなっても通勤で乗換が必要であっても、いわゆる都心の「住所がかっこいいところ」にこだわって住まいを選んでいたように思います。
 今でこそ住所は個人情報であまり公にしませんが、年賀状などで住所を交換する機会の多かったあの頃、「住所のかっこよさにこだわる」というのは社会人としてある種大きく「運気」にかかわっていたのかもしれません。
 でも今東京の都心に住むのはなかなかの金額でしょうね。

 

 自分と相性抜群の土地に巡り合えて、自分が安心して過ごすことのできる心地よい家に暮らすことができれば、運気の上がらんわけがないですよね。

 どこか新しく暮らし始めた土地で暮らし始めたら、停滞していたものが好転し始めるかもしれない、そんな期待と予感を持ちながら、素敵な街で暮らす自分自身をイメージして、その人生ラインに近づいていきたいと思います。

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