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★「ミセス・ハリス パリへ行く」はトランサーフィンで自分の目的達成までたどりつく様子がよくわかる映画でした(考察と引用)


目的のみを考え固定観念を打破し所有する確固たる意図を持つ


 
 昨日は長々と「ミセス・ハリス、パリへ行く」のあらすじを書きました。
 
 ミセス・ハリス、戦争未亡人のエイダ・ハリスは、500ポンド、その当時の日本円で換算して250-400万円もするディオールのドレスに魅せられて、多少の紆余曲折はあったもののパリへ行き、自分が心から欲しいと思ったドレスを最終的に手に入れます。

ディオールのドレスだけではなく、
パリのメゾンにディオール氏をはじめ多くの友人を得たり、
パリの侯爵と交流したり、
素敵な若いカップルの成立を手助けしたり、
そして、ロンドンの労働者階級の寡婦として侮辱や理不尽に耐えていた自分自身に尊厳を取り戻しました。

 トランサーフィンでは「他人の目的」を生かされるのではなく「自分の目的」を見つけてそれに向かう時は、とんとん拍子にことが運び、達成した後も喜びがいっぱいだといいます

 すでに夫はなく、戦後すぐの時代においてもうすぐ60歳という年齢のエイダにとって、「ディオールのドレスを手に入れる」というのはかけがえのない「自分の目的」で、結果的にその過程で自分だけでなく周りの人を幸せにします。

 以前「振り子の法則」シリーズ第2巻から、このようなフレーズを引用したことがあります。

 奇跡が起こるのは、あなたがおなじみの固定観念を叩き壊し、目的の達成手段については考えず、目的自体について考えるときにかぎられる。そうすると以前は非現実的と思われていたことが、突如、予期していない方角から姿を現す。予想外で、まるで偶然のように、目的達成のための極めて現実的な道が開けてくる。通常の世界観では、これは奇跡的な偶然の重なりに見えることだろう。こんな場合、理性は両手を広げてこう言うしかない。
「こんなこと、誰も予想できるわけがないじゃないか!」
 トランサーフィンの観点からすれば、ここに奇跡は何もない。あなたは目指す人生ラインの周波数に同調し、所有する決意を得たため、外的意図がその人生ラインへとあなたを移動させただけの話だ。新たな人生ラインでは、これまでの人生ラインでは思ってもみなかったような新たな可能性が現れ、扉が開かれる。

「願望実現の法則」リアリティ・トランサーフィン2 魂の快・不快の選択  第4章目的と扉 固定観念の打破P290-291

 
 まさにエイダは、家政婦さんが数百万円価値のオートクチュールドレスを買うという「そんなの無理」「無駄」という固定観念を叩き壊し「私はディオールのドレスを着る」という確固たる「所有する決意」を持った結果、夢を実現します。
 まずエイダは憧れのドレスを思いながらいつものように友人バイとサッカーくじに挑戦し、偶然150ポンド当てるという奇跡を起こします
 その後仕事を増やしたり節約したりせっせと目標金額までのお金を貯めようと努力しますが、それはドッグレースで大外れして失われてしまいます
 失意のどん底でエイダが貯金を記録していたノートのページを破り捨てお金の工面を諦めかけたその時
「思いがけない、戦争未亡人への年金支払い」
「思いがけない、雨の夜道で拾って届けたイヤリングの謝礼金」
「思いがけない、友人アーチーが別のレースに賭けてくれた当選金」という
まったくエイダの予想もしていなかった3つの入金が同じ日の朝に立て続けに起こって希望の500ポンドを超える580ポンド以上を工面することができます。
まさに、理性が「こんなこと誰にも予想できるわけがないじゃないか!」と叫ぶような出来事です。
 外的意図が望む人生ラインへと運ぶときは、このぐらいの、人が「奇跡」としか呼べないようなことが起こるようです。

 なお、映画の中でエイダは通勤バスに乗るのもやめたり、仕事が終わってからもかけはぎの内職をしたりしてお金を貯めようとしますが、トランサーフィンではこういったがんばりすぎの行為は「重要性」を高め「平衡力」を作用させ揺り戻しが起こるので、(その仕事自体が人生の目的で楽しくて仕方がない場合を除き)決してやりすぎてはならないと書かれています。
 お金欲しさにダブルワークをしたら体を壊したとか、車がダメになってその分、もしくはそれ以上お金が出て行ったとか、そんな感じでしょうか。


「誰かの何気ない一言」という「サイン」


 エイダはせっかく二番目に気に入った仕立て上がりのエメラルドグリーンのドレスをロンドンに持ち帰ったものの、依頼主の若い女性パメラにドレスを貸したばっかりにドレスを不注意で燃やされてしまい大変なショックを受けます。
 エイダはドレスを燃やした礼儀知らずのパメラに抗弁することなく、郵便受けから鍵を残してパメラと「決別」します。
 その後別の男性の依頼主から「革命が起きる」との不思議な「サイン」を得た後、エイダは怠惰でケチな依頼主ダント夫人に「今週中に賃金を払ってください」と伝え、辞めるの?と動揺する夫人に対し「私を見下す人に忠誠は誓えません」ときっぱりと伝えます。

 以前トランサーフィンでの「サイン」は「誰かからの何げない一言」である場合があるという話
をし、私がその当時のバイト先の店長の何げない言葉に従ったことから、自分でも思ってもみなかった展開につながった話をしました。
 男性の「革命が起きる」という言葉はまさにサインだったのでしょう。
ここでエイダがもし、これまでのようにのらりくらりと賃金の支払いを渋る夫人に何も言えずに忍従していたら、はっきりと夫人に対し賃金を要求し自分の権利を主張するという「革命」を起こさなかったら、
その後の「一番気に入っていたドレス『誘惑』がディオールからエイダのもとへ届く奇跡」は訪れなかったかも
しれません。


私たちには選ぶ権利はあっても変える権利はない


 ここでもうひとつトランサーフィン的に大事なのは、「自分には『選択する権利』はあっても『相手や何かを変える権利』はない」ということです。
 
 たとえばパメラは大切なドレスを不注意から燃やしたのに直接、いや間接的にもエイダに詫びることもしませんでした。大変失礼で許しがたい態度です。ですがエイダはパメラを訴えるようなことはせず「立ち去る」ことを決めました。(弁償してもらってもいいと思いますけどね、個人的には)
いつも泣き言や愚痴を優しく聞いてやっていたうえに、身の張り裂ける思いで貸したドレスをダメにされたのに、エイダは自分の娘か孫ほどの年齢のパメラに対して、態度を改めるように言ったりはしませんでした。
 怠惰でケチなダント夫人に対しても、「払ってください」と自分の権利を主張し、「払わないのであればもうあなたのもとでは働かない」という選択をしても、夫人に対しその怠惰さや吝嗇を改めよということは決して言わないのです。

 これはトランサーフィン的にはとても大事なことらしく、よく著者のヴァジム・ゼランド氏はこのような比喩を用いてくりかえし言っています

 『自分が展覧会場にいると思い、あくまでも「客人」であることを忘れないようにし、もし会場の絵が気に入らなければ、黙ってそこを立ち去り別の会場へ移動しよう。あなたは展覧会場を選ぶことはできるが、今いる会場の展示物を変えるようにと要求することはできない。』

 私たちはつい理性で考えて「自分は間違いない」と思うと、自分の権利を主張したり、相手のおかしなところを指摘したり改めさせようとしたりしますが、それは悪手なのだそうです
 仕事で上司が問題のある人の場合、「相手が極上の気持ちになるようなシチュエーションを想像し、それによって相手をいい気分にさせてこちらへの攻撃をかわす」などのテクニックはあるようなのですが、もし立ち去れるなら立ち去っていいのです。
上司が問題のある人だからといってそれを指摘して改めさせようとするのは徒労であり、逆に何も落ち度がない自分が会社からはじき出されるなどの憂き目にあうのはトランサーフィン的には何も不思議のないことらしいのです。

 

誰かから与えられたものではない自分の目的

 
 エイダは仕事先で偶然ディオールのドレスと出会い、「必ずパリでディオールのドレスを買う」という、誰から押し付けられたわけでもない「自分の目的」を見つけることができました
 自分が目指すものがまさしく「自分の目的」であるならば、「外的意図がその人生ラインへとあなたを移動させ」、「新たな人生ラインでは、これまでの人生ラインでは思ってもみなかったような新たな可能性が現れ、扉が開かれる」ため、理性があきれて天を仰ぐような、自分では到底考えつかない奇跡のような偶然が重なって起きるというのは、先の引用にあげた通りです。
 「自分の目的」さえ見つけられれば、外的意図がバリアント空間の中のその目的へと続く人生ラインへと持って行ってくれる・・・

全自動やん!

 なので、まずは「振り子」に惑わされたり思い込まされたのではない「自分の目的」を探すことが大切になってくるわけです。

 それでは私たちの目的について書かれたところを一部引用したいと思います。

あなたの目的

貴方には自分の胸の奥にしまってある願望があり、それを達成するにはどうすべきか、およそでいいからイメージしてみることを前提で私は最初から話してきた。願望がどのような形で実現されるかについて、たとえ全然予想がつかなくても、それは少しもかまわない。あなたにバリアントを所有する決意があれば、バリアントは見つかるだろう。一番大事なことは、胸に秘めている本物の願望を特定し、それを所有し行動する決意を持つことなのだ。意図は願望を目的に変える。意図のない願望は決して実現しない。ともあれ、最初は、あなたが人生から何を欲するのか、明らかにする必要がある。「お金持ちになって幸せになりたい」というようなあいまいな表現は効力を発揮しない。
 何ら具体的な目的もなく街を歩いているところを想像願いたい。気の向くままにただのんびりと歩くのだ。あなたはどこへたどり着くことだろう。わからない。もし具体的な目的地があるならば、たとえ行き方を正確には知らなくても、遅かれ早かれあなたはそこへたどり着くことだろう。人生でも同じことだ。あなたに目的がなければ、あなたは荒れ狂う川に浮かぶ紙の船となる。もし目的があって、あなたがそれに向かおうとすれば、たどり着けるかもしれない。しかし、たどり着けないこともある。
 百パーセントの保証付きで目的を達成できる場合がひとつだけある。目的があなたのもので、あなたが自分の扉を通ってそれに向かう場合だ。この場合は、誰からも何からも邪魔されない。なぜならあなたの魂のフレイルの鍵は、あなたの道へと続く扉の錠前にぴったりと一致しているからだ。あなたの進もうとする道を奪い取ろうとするものは誰もいない。そんなわけで目的達成にかかわる問題は何もない。問題なのは、あなたの目的と扉を見つけることだけなのだ。
まず第一に、目的は何らかの一時的な欲求によって決まってくるものではない。目的とは「あなたは人生から何を欲しているか?どんなことがあなたの人生を喜びにあふれた幸せなものとするのか?」という質問に答えるものでなくてはならない。ただこのことだけが重要なのだ。残るすべては振り子による見せかけだけのものとみてよい。
 一番大事な目的をひとつ見つけていただきたい。その目的が達成されれば、残るすべての願望も達成されるだろう。もし頭に何も浮かんでこなければ、最初は、例えばこんな目的を作ってみよう。あなたは人生から快適さと幸福を欲する、というものだ。快適さと幸福とはあなたの理解ではどういうものだろう。家、車、センスの良い服、その他快適な生活につきものの品々を持つという欲求は、高収入の仕事を持つという一つの目的に置き換えられる。しかし、すでにご承知の通り、これはまだ目的ではなく扉なのだが、それもぼんやりとした輪郭の扉である。
 高収入の仕事は、独自の分野において右に出る者のいない優秀な専門家になるという具体的表現に置き換えられる。あなたの魂は何を気に入っているのだろうか? だが、疑問が生まれてくる。この仕事が人生のすべての意味を満たしてくれるのか、というものだ。もしそうであるならば、それは幸運なことだ。あなたの目的と扉は一致しているのだ。仮に、あなたの魂が、科学、文化、あるいは芸術の一分野に惹かれているとしよう。そういうときは、あなたは好きな仕事に従事しながら発見を成し遂げたり、傑作を作ったりすることだろう。そんな人生ラインの幸せは今ここにあるのであって、どこかこの先にあるのではない。快適な生活につきもののその他すべての条件は、ほかの人々にとっては大変な苦労の末に手に入れる物なのに、あなたの場合はそうなることが当たり前のように、ひとりでに集まってくる。なぜならあなたは自分の道を進んでいるからだ。
 もし喜びをもたらし快適さの属性が一生涯を満たしてくれるような好ましい仕事が、たったひとつではないとしたらどうだろう。その仕事はおそらくあなたの扉だと識別することはできても、目的と呼ぶことはできないだろう。あなたの目的は、随伴するあらゆる属性を伴い、人生を祝日に変えてくれるということを忘れないでいただきたい。目下のところは、達成手段、つまり扉のころは考えないようにしよう。大事なことは目的を決めることである。扉は時間の経過とともにひとりでに見つかるだろう。
 次の質問に答えてみよう。あなたの魂は何を気に入っているのか?何が人生を祝日に変えてくれるのか?目的が持つ威厳性や近寄りがたさについて考えるのはやめよう。どんな制約も無視しよう。信じられないのなら、あなたはすべてが手に入るというふりをするだけでもよい。そのうえで目的を選ぶのだ。ためらわずに、限度いっぱいまで注文しよう。
 あなたはボートが欲しかったって?ヨットなんてどうだろう?
 あなたはマンションが欲しかったの?豪邸なんかじゃ駄目かい?
 あなたは課長になりたかった?会社の社長の役職ではなぜいけないの?
 あなたはたくさん働いてたくさんの給料をもらいたかった?全然働かないで何不自由なく安楽に暮らすというのはどうかな?
 あなたは手ごろな値段の土地を買って、家を建てたかったそうだね?地中海の島なんてどうだい?
 このように「・・・・ではどうだろう?」という例は、数限りなくある。もしあなたの扉を通って、あなたの目的に向かって進む場合に、あなたが手に入れられるものと比べたら、今のあなたの要求はどれほど控えめなことか、想像すらできないだろう。
 願望を理性によって推し量ろうとしてはいけない。あなたの魂が欲しいものを明らかにさせるための時間を惜しんではいけない。「これは私の心にかなう」という表現は、うまく本質を言い表している。この表現は意見を表しているのではなく、関係を示している。意見とは、理性の知的活動による産物だ。関係とは、魂の奥から来るものだから、自分の目的と他人の目的とを見分けることができるのだ。あなたの目的を決める際には、こう自問していただきたい。「目的が達成されたとしたら、私はどんな感じがするだろうか」
 あなたが自分の願望を見つけたとしよう。それがあなたの願望であるかどうか確かめるために、自分に二つの質問をしてみよう。一つ目の質問:それがあなたに本当に必要なのか?二つ目の質問:それでもやはり本当に必要なのか?その願望に他人の目的を選んだ場合の兆しで当てはまるところはないか確かめてみよう。
 本当にあなたはそれを心から望んでいるのだろうか?それとも、それを望むという行為がしてみたいだけなのか?あなたは他人に目にもの見せたいだけではなかろうか?あなたは本当にそれを望むのか?流行や威厳に惑わされているだけなのかもしれない。足の不自由な人がスケートに載ってみたいと強く思っているようなものだ。本当はこの目的は心の奥から来ているのではなく、自分に障害があるという悔しい気持ちから来ているのかもしれない。目的は達成が困難であれば魅力も大きくなる。もし目的の達成が難しいのであれば、それを断念して、しばらく自分を観察してみよう。もしほっと安堵するのならば、それは他人の目的だったことになる、もし憤慨や抗議といったような感情を覚えるのならば、その目的はあなたのものかもしれない。
 目的を選ぶ際に、唯一頼りにしてよい基準は、魂の不快である。これは理性がすでに下した決定に対する魂からの否定的な反応のことだ。魂の快・不快については、理性が自分の目的を定めた後であれば、確かめることができる。あなたはすでに目的を成し遂げ、すべては過去のものとなったとイメージしてみよう。イメージしたら、目的についてどうこう議論することは中止し、魂の感覚に注意をはらおう。気分はどうだろうか。良いか悪いか、どちらだろう。もし喜びの中に懸念、重苦しさ、義務感などが混じっているのなら、魂ははっきり「いいえ」と言っていることになる。理性は、美しく包装された目的の中に何らかの不快な成分が含まれていることを推測できない。だが、魂はこれを感じ取る。
 魂の不快な感じは、不明瞭で漠然としているかもしれない。魂のぎこちなさを魂の不快と取り違えないようにしよう。前章でも触れたとおり、ぎこちなさやある種のためらいは、「本当にこれを全部私に?」というように非日常的な状況から発生する。魂の不快とは気落ちしたり重圧を背負ったりしているような重苦しい感じのことで、理性が楽観的な見解を披露する背後でかすかに現れてくる。魂のぎこちなさはスライドを利用することにより解消できるが、魂の不快はどうしても解消できない。あなたがそうしたものを得るに値しないと考えることこそが、最も大きな過ちだ。本当にそれは馬鹿げたことだ!そんな幼稚なレッテルをあなたに貼りつけたのは振り子である。あなたにはもっともよいものを受け取るべき価値がある。とにかく、結論を急いではいけない。自分の目的をスライドにして試してみよう。もし時間が過ぎても重苦しい感じが消えないのであれば、魂の不快と関係があることになる。
 もしあなたが目的自体のどこかに魂の不快を感じるのであれば、その目的は他人のものと言うことだ。もし目的が達成困難なものという認識から魂の不快を感じるのであれば、その目的は快適域に入っていないか、または、あなたが他人の扉を選んだことになる。自分の目的をはっきりと決めないうちは、達成手段について考えてはならない。もしある役割についた自分を明確にイメージすることができないならば、あなたにはまだそれを受け入れる準備ができていない。快適域はスライドを利用して広げることができる。扉について心配するには及ばない。あなたに求められているのは、所有する決意だけである。所有する決意があれば、外的意図は遅かれ早かれ必要な扉を探し出す。
 お金を自分の目的にする誘惑には負けないようにしよう。もしお金があったらそれで何を買えばよいかはわかっているから、すべての問題を解決することができると言われている。スライドについて述べた第二章で、お札の詰まったトランクケースについて述べたことを思い出していただきたい。お金は目的にはなり得ず、随伴する属性に過ぎないことを説明した。あなたはすぐにそれに同意するだろうが、それは決してありふれた主張などではない。私たちは皆、お金に慣れきっているので、ほとんどすべてのものをお金に換算してしまう。しかし、お金は理性のために定められた抽象的なカテゴリーであって、魂のためのものではない。魂は抽象的な思考ができないので、お金をどうしてよいのかまったくわからない。最終的な目的は、魂に分かるものでなくてはならない。あなたが注文したお金で、家、カジノ、島などを買いたいことを魂が知らなくてはならない。だから、お金と言う手段については、魂がそれを気に入っているのならば別だが、そうでなければ話題にすべきではないのだ。
 あなたの内なる会計課ともいうべき理性が目的を達成するための手段を算定しているうちは、目的を定めることも、目指す人生ラインに同調することもうまくはいかないだろう、自分の見張り役の働きを活発化させ、「私は人生に何を求めるのか?」という質問に答えを出すことから理性が逃げ出そうとしたら、その都度、自分をきつくたしなめよう。目的が達成困難であるという固定観念は、もっっとも執念深いので、忍耐が必要だ。理性は「これをどうやって達成するのか?」という質問にすり替えようとするだろう。さあ、ここで、あなたの魂から理性にこう言ってもらおう。「黙れ、これはお前さんが心配することじゃない。おもちゃを選んだのだから!」
 あなたは破壊的振り子から自由な状態に居なくてはならないが、それは自分を孤立化させるということではない。社会全体が振り子による影響の上に築かれているので、それが嫌ならヒマラヤへでも逃げ込むか、あるいは、自分の振り子を見つけるしかないのだ。隠遁者は振り子から遠く離れているので簡単に「永遠性との会話」を行う。しかし、そのような隠遁者を振り子だらけの好戦的な環境に戻すや否や彼らは世俗にまみれ自分のバランスを失うことだろう。
 あなたの目的も何らかの振り子に属している。しかし、目的が本物である限りは、あなたにとって振り子に属することは何の恐れもないはずだ。自分の目的を見つけよう。振り子はあなたをお気に入りにせざるを得なくなるだろう。新たな振り子を作り出すことだってできる。大事なのは、選択の自由と言う自分の権利を行使し、振り子から支配されないようにすることにある。
 分析や施策によって目的を決めることはできない。本当の目的を見分けられるのは、あなたの魂だけだ。分析や施策は理性の活動である。魂は考えることができない。魂は見て感じるだけなのだ。
 目的を探すプロセスにおける理性の課題は、探すことにあるのではない。理性が目的を探すとなると、広く一般に通用している固定観念や紋切り型の考え方をベースに分析を行い論理的な鎖を組み立てるという方法による。こうした方法で自分の道が見つかるのならば、誰もが幸せになれるに違いない。
 理性にとっての課題は、すべての外部情報を自分経由で通過させ、その際に、魂の快・不快に特別な注意を払うことにある。理性にはこんな設定をしてあげるだけで十分だ。「何が人生をお祭りに変えるか探し出してみよう」。その後、すべての外部情報を理性経由で通過させながら、理性にセットした観点からの魂の感覚を観察するだけでよい。
 躍起になって道を探しても何にもならない。心配せずに観察しながら待つことにしよう。目的を探す設定にしてあれば、必要な情報はひとりでにやってくる。その瞬間が訪れたら、何らかの情報を受け取ったあなたは急に活発な興味を示すようになるだろう。大事な点は、その瞬間に理性が自分の思考によって自分自身を邪魔することなく、ただ魂の快・不快に注目していてくれることだけである。
 必要な情報の到来を自分で早めることができる。そのためには、自分の興味を持っている領域を広げることがとても役に立つ。博物館、見学ツアー、映画、町の反対側への散策、本や巡りなど、まだ訪れていない好きなところへ行ってみよう。一生懸命に探しまわることはなく、ただ外からの情報域を広げて、観察してみるのだ。
 時間の制限をしたりせず、そういうことを行う。時間を区切ることで自分を追い込んだり、目的探しを義務にしたりしてはいけない。「私の人生をお祭りに変えるものを探す」という方針を、あなたは頭の中にセットするだけでよい。
 以前に行ったときよりもっと自分の感情について注意深く観察しよう。このようにセットした方針は、背景で常時作動しているようにしよう。あなたに届くあらゆる情報を、「これについては私は何を感じているか?好きか?嫌いか?」というチェックフィルターに通そう。
 遅かれ早かれあなたは、「おお、これは大好きだ!」と内側で何かが急に活気づいたような何らかのサインや情報を受け取るだろう。その情報についてあらゆる角度からじっくり考えて、魂の快適な状態を注意深く見守ろう。
 これでようやくあなたは手段についてあれこれ考える誘惑から離れ、目的を定めることができる。その目的を達成するために所有し行動する決意が現れると、あなたの世界の層は驚くべき変化を遂げるだろう。まさしくそれが起こるのだ。
 あなたは偽りの目的による重圧から解放され、ほっと安堵する。あなたは、魂の気に入らないことを自分に強いるのは、これ以上しなくてもよい。あなたは未来におけるまぼろしの幸せを求めて闘うこととは縁を切り、今ここで幸せを思い切って手に入れることにしたのだ。以前のあなたは心の空白を振り子が提案する安っぽい代用品で穴埋めしようとしていた、今では理性が魂を箱から外に出したので、驚くほど軽快で自由な気分がしている。それはまるで春がやって来て、長い冬眠から目覚めたようだ。落ち込んだ気分や思苦しい感じは消え失せてしまった。以前は、そのと世界で探そうとしてもうまく行かなかったものが、自分の内部で見つかったのだ。自分の目的に向かって進むことは、大変に心地よいものだ。あなたの理性は、他人の目的と言う不要ながらくたを放り出し、目的達成の手段についての無駄な考えをやめ、ただ必要な情報を自分の世界の層に取り入れた。魂はおもちゃを選び、喜びのあまり飛び上がったり、手をたたいたりしている。あなたは偽りの固定観念を打ち破り、目的の達成が一見難しそうに見えるのに、思い切って目的を達成することを自分に認めてあげた。だからこそ、あなたの目の前で、今までずっと閉じていた扉が大きく開いた。ここまで来て遂に理性は目的が実際に到達可能であることに気づく。これで人生はお祭りとなる。喜び浮かれた魂は、理性のところへぴょんぴょん飛び跳ねてやってきた。理性は、目的を自分の世界の層に取り入れてくれたのだ。魂と理性は、幸せへと続く平らで気持ちの良い道を、楽しそうに手に手を取り合って歩く。幸せはもう今ここにある。

「願望実現の法則」リアリティ・トランサーフィン2 魂の快・不快の選択  第4章目的と扉 あなたの目的 p294-306※太字は原文のまま


 「ハレとケ」という言葉があります。ハレ・晴れの日は非日常、祝い事やお祭りなど年に数回訪れる楽しいひと時で、ケは日常、晴れの日以外の義務と強制と繰り返しによる日々の生活です。
 糧を得るために私たちはほとんどの日をケとして過ごし、今では物価高などでたまさかの「晴れ」の機会さえ以前よりも減っているかもしれません。

 ですが、引用中にあったように、
「自分の目的」を見つけるためついでしゃばって台無しにしがちな理性に対するコマンドは「何が人生をお祭りに変えるか探し出してみよう」というものです。
もし見つけられたら、
人生がお祭り、毎日がお祭り。
 あの、糊のきいた浴衣を着せてもらって、夜出歩くのが許されて、祭囃子や幻想的なランプの灯りに高揚して、祭りの日にしか食べられないさまざまなお菓子をほおばって、射的や金魚すくいに胸躍らせ、心から楽しんだ、あのようなキラキラした気持ちでずっと毎日を過ごすことができたなら。

 やったぜ、一年中ハレの日!
 
 そんなばかなと思うけれども、一日中歌って暮らしている人、一年中各地を旅行して回りそれをYOUTUBEで流すだけで十分楽しんで暮らしている人、趣味で好きなものを集めてそれを語ることで人が集まってくる人、
いろんな方がいます。
誰でも知っている超有名人ではなくたって、時間を浪費する労働とは無縁の、ゴージャスな生活を楽しんでいる人たちもたくさんいます。
実際に叶えている人の生活が垣間見えるのが今のネット社会です。
別にあの人たちだけが何かを許された特別な人ではなく、
大好きだ!!と思えるものを見つけ、それを自分が所有し行動する決意を持てれば、それはだれにでも、制限なく可能なことなのです。

 途中で「振り子」の話が出てきました。
今のところ私にとって「振り子」は、
隙あらばものを食べさせようとしたり、感情を揺さぶったりしてエネルギーを持っていこうとする、敵対する存在でしかないのですが、
振り子から逃れるためには隠遁者にならなきゃいけないって・・・
そういえば、
チベットのお坊さんとか信じられないような技を繰り出してくるって動画をちょっと前に見ましたが、
きっとそれも「振り子」の影響が少ない場だからこそできるのかもしれません。
・・・話がそれました。

もし自分の目的が見つかれば、その振り子は私を「お気に入り」にせざるをえなくなり、恐れる必要もないというのです。
そうよねー、どっかにひとつぐらい私にとって害のない振り子があったっていいわよねー

引用がかなり長くなりましたが、
振り子からの押し付けで無い「自分の目的」が見つかりさえすれば、
「こんなん笑うわ」というぐらいとんとん拍子の展開が待っているようです。
 まさにサーフィンのようなバリアントの移動をぜひ早く体験してシェアしたいのですが、焦りは禁物のようです。上の引用から一部再度切り出します。

躍起になって道を探しても何にもならない。心配せずに観察しながら待つことにしよう。目的を探す設定にしてあれば、必要な情報はひとりでにやってくる。その瞬間が訪れたら、何らかの情報を受け取ったあなたは急に活発な興味を示すようになるだろう。大事な点は、その瞬間に理性が自分の思考によって自分自身を邪魔することなく、ただ魂の快・不快に注目していてくれることだけである。 必要な情報の到来を自分で早めることができる。そのためには、自分の興味を持っている領域を広げることがとても役に立つ。博物館、見学ツアー、映画、町の反対側への散策、本や巡りなど、まだ訪れていない好きなところへ行ってみよう。一生懸命に探しまわることはなく、ただ外からの情報域を広げて、観察してみるのだ。 時間の制限をしたりせず、そういうことを行う。時間を区切ることで自分を追い込んだり、目的探しを義務にしたりしてはいけない。「私の人生をお祭りに変えるものを探す」という方針を、あなたは頭の中にセットするだけでよい。

「願望実現の法則」リアリティ・トランサーフィン2 魂の快・不快の選択  第4章目的と扉 あなたの目的 ※太字は引用者による

 エイダにとっての「ディオールのドレス」のような、人生をお祭りにするものを見つけに「好きなところに行きたい」のですが、
夏の暑さと湿気が苦手なので、今一つ乗り気になれないのです。冬万歳。
 
待っててね、私にとってのディオールのドレス。
















実は私は洋服が好き?骨格診断士


 自分が納得いく服を今のところ持っていない私ですが、実は私は洋服やファッションが好きなのかもしれません。

 今「骨格診断」というのがだいぶ知られてきて、男性でも「ストレート、ウェーブ、ナチュラル」という体形の種類について知っている人も出てきているようです。
 意外なことに私はこの骨格診断の資格、出始めの2012年の時点で講座を受けて取得しています。
「これはすごい!絶対おもしろい!」と知って学びたくてたまらなくなり、そこそこの金額を振り込んで受講しました。
 どういう遺伝子が作用しているのかわからないのですが、本当に骨組み、筋肉の付き方レベルで(完全に3タイプに分かれるわけではないですが)体形が分かれて、それに応じて似合う服も違ってくるんですよね。
 本当におもしろい。

 でもこれも完全ではなくて、
たとえば私は上半身にボリュームが出やすく肉質にハリのあるまごうことなき「骨格ストレート」なのですが、
じゃあ教科書通りの「コットンのシャツ」「トレンチコート」とかが似合うかというとそんなことはなくて、
 もちろんウェーブの人が似合うようなテロテロの服はまあ無理ですが、でもハリはありつつもどこかに「しなり」や「柔らかさ」がないと難しい。
 だからシャツもトレンチコートも、素材をコットンシルクにするとか、混紡、ハリのある化繊のほうが似合ったりします。

 骨格ストレートの人は、肉の質感でタイプを分けている流派?もあるぐらいなので、本当にむずかしい。
 以前島崎和歌子さんの服選びもったいない!と書きましたが、私もおそらく和歌子さんと同じタイプだと思うのです。

  
 あと、興味深い体験として、以前ある方にお願いして、どの骨格タイプかがわかるお身体の「ポイント」を触らせていただいたことがあって、
 その方は上にあげたような「トータルでファッションが素敵で、人柄も素敵な人」だったのですね。
 TOCCAとかANAYIとかでしょうか、一般的に骨格ウェーブが似合うと言われているスタイルの服を着られていて、私もウェーブの方かなと思っていたのですが、なんと触らせていただいたらその方は骨格ナチュラルだった、ということがありました。
 でも、しっかり目の生地を選んだりされて、まったく違和感なくひざ丈でふわっと広がるワンピースを着こなされていました。

 なので、骨格診断とかパーソナルカラー診断など、服選びの目安にはなるかもしれませんが、絶対ではなく、
やはりあまり「理性」にでしゃばらせることなく、決めるときには「魂」にちゃんと尋ねることが必要なのだと思います。

 あと、見出しにサラッと書きましたが、私は子供の頃「ハリスおばさんパリへ行く」という本を持っていて、細かいところは忘れましたが、おばさんがディオールのオートクチュールを手に入れるためにパリへ行く話で、
私は口絵のディオール氏がドレスを持っている写真を、白黒だったと思うのですが、

でもそんなふうには見えないかも。
どうせ一番いいものは手に入れられないのだから。ベストでなければ、もうなんでもいい



 






 

 


 



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