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「縛り」の概念

みなさんどうもこんぱんにゃ、ぱんにゃです。
今回みなさまにご連携するのは無です。
ちょうど『BLEACH』が無料期間なので、本記事よりも『BLEACH』を読むのをオススメします。
『BLEACH』を読み終わってしまった方は下記チャンネルをご参照ください。ゲームを愛した女である彼女を見れば、「ゲーム」とは何かが理解できるでしょう。

領域展開

世界には「ガチデッキ」という概念と「ファンデッキ」という概念が存在するとされている。「ガチデッキ」は相対的に強いデッキを、「ファンデッキ」は相対的に弱いデッキを指す。また「ガチデッキ」を好むプレイヤーを「ガチ勢」、「ファンデッキ」を好むプレイヤーを「カジュアル勢」と呼ぶことになっているそうだ。そして「ガチ勢」と「カジュアル勢」の間では1万年と2千年前から争いが続いているようだ。本記事によってわれわれが示すのは、いわゆる「ガチ勢」と「カジュアル勢」の間に重要な対立はないということである。

典型的な「ガチ勢」の主張は以下のものだろう。
①「カジュアル勢」はたいして強くもないデッキを使っているにもかかわらず、勝ちたいと主張している。
②けれども、もしほんとうに勝ちたいのであれば、「ガチデッキ」を使うべきである。
③よって、「カジュアル勢」は不合理なやつらである。

それに対して、典型的な「カジュアル勢」の主張は以下のものだろう。
①画一的な「ガチデッキ」を使用すると、勝ちやすいのは当然である。
②それゆえ、「ガチデッキ」を使用して勝つことはおもしろくない。
③よって、いつでも「ガチデッキ」を使用する「ガチ勢」はつまらないやつらである。

こうして「つまらないやつら」と「不合理なやつら」は喧嘩するのが常である。Twitterは喧嘩に最適な場所だ。

制約と誓約

「ガチ勢」と「カジュアル」勢の見かけ上の対立を紐解くのに有用な概念が、「縛り」の概念である。われわれが言うところの「縛り」とは、目的を達成する手段に対する制約を示す概念である。具体的に言えば、「縛り」はデッキの構築を制限する。たとえば「好きなカードを使う」というのは非常に人気のある「縛り」の一つである。他にも、次のようなデッキはメインエリアに5ネームを揃えるという「縛り」に従っていると言えるだろう。

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5人いる!

縛りの概念を使うと、一般的に、「ガチ勢」は「縛り」を設けないプレイヤーであり、「カジュアル勢」は「縛り」を設けるプレイヤーであると説明することができる。ここで重要なのは、目的が勝利であるという点において、「ガチ勢」と「カジュアル勢」の間に対立はないということだ。それゆえ「縛り」について理解すれば、カトリックとプロテスタントが和解できるかは別としても、「ガチ勢」と「カジュアル勢」は和解できる。

けれどもこの説明は「ガチ勢」にとって受け入れがたいものだろう。なぜなら「カジュアル勢」が「縛り」を設ける理由が説明されていないからだ。「縛り」を設ける理由が存在しないのであれば、「ガチ勢」にとって「カジュアル勢」は理解不能な不合理なやつらのままである。

ここで我々が提示する仮説は、「縛り」はゲームのプレイを何らかの仕方でおもしろいものにするという仮説である。残念ながら、われわれはこの仮説に対する決定的な説明を持っていない。われわれが持っているのは、各種ゲームにおける「縛りプレイ」が人気を博しているという直感的な説明だけである。このことが直感的に理解できるのであれば、「ガチ勢」は「カジュアル勢」を理解不能だとみなす必要はなくなる。

逆に、「カジュアル勢」が「ガチ勢」を「つまらないやつら」だとみなすことは理解の浅さを示していると思われる。「縛り」によってゲームが単純によりおもしろくなるのであれば、「ガチ勢」は「カジュアル勢」よりもつまらないゲームをプレイしているという主張がもっともらしくなるかもしれない。けれどもこの主張はゲームの「おもしろさ」が単純に、量的に比較可能であるという前提に基づいているように見える。確かに「縛り」はゲームを「何らかの仕方で」おもしろいものにするように見えるが、それは質的な仕方であると主張するほうがよりもっともらしいとわれわれは考える。それゆえ「ガチ勢」は「カジュアル勢」よりもつまらないゲームをプレイしているとは限らない。ポイントは、「縛り」を設けずにゲームをプレイすることも十二分におもしろいということであり、そのおもしろさは「縛り」を設けたゲームのおもしろさとは質的に異なるということだ。むしろ、「縛り」を設けずにプレイしたときにまったくおもしろくないゲームというのは悪いゲームであると言えるだろう。

もう一つのポイントは、ゲームの世界においては「カジュアル勢」もその気になればいつでも「縛り」をやめることができるし、「ガチ勢」もその気になれば「縛り」を設けることができるということだ。われわれは質的に異なるおもしろさの間を自由に旅することができる。このことはゲームのよさの一つである。対して、人生における「縛り」はなかなかやめることができない。身体が壊れているとか心が壊れているとかいった「縛り」は人生をチャレンジングなものにするという仕方で人生のプレイをおもしろくするかもしれないが、その「縛り」はしばしば意図せず与えられるものであって、やめたくなったからといってやめることができるものではない。話が逸れたが、われわれが主張したいことは、「ガチ勢」と「カジュアル勢」は決して不連続な存在ではないということだ。

卍解

加えておもしろいことに、「縛り」という概念のもとで、非難に値すると考えられる集団がいる。それは勝利を狭義のゲームプレイ(いわゆる立ち回り)の目的としていない集団である。このようなプレイヤーは倒錯している。彼らはゲームの枠組みを利用してその内部に別のゲームを構成することによって、ゲームを冒涜している。なぜなら勝者が決まるタイプのゲームのルールは、ゲームの参加者の立ち回りの最終的な目的が勝利であることを前提に作られており、それゆえにそのゲームのプレイによって賞賛されるべき卓越性はゲームの勝利と切り離すことはできないからだ。「縛り」の重要なポイントは、目的が勝利であるという点において、「縛り」を設けているプレイヤーと「縛り」を設けていないプレイヤーの間に差異はないということであった。けれども倒錯したプレイヤーとの間には、目的が勝利ではないという点で重要な差異がある。われわれの枠組みでは、「縛り」を設けたうえで勝利したプレイヤーはその卓越性を賞賛されるべきであるが、倒錯したプレイヤーは賞賛されるべきではない。

具体的な例を見てみよう。『ベイビーステップ』の岩佐くんをご存じだろうか。われわれの考えでは、彼はテニスを冒涜していることになる。

両親は芸術家で、自身も試合中にボールの軌道でコートに「絵」をイメージして描いている。絵が完成するとプレー中にも関わらずテニスを止めてしまうという癖があり、周囲からは理解し難い面をもつ。(Wikipedia, 「ベイビーステップ」, 2020/03/27)

彼の目的はテニスの試合に勝つことではなく、ボールの軌道で「絵」を書くことである。彼はテニスに勝利するという過程で、「絵」を書くという縛りを課しているのではなく、「絵」を書くこと自体を目的としているのである。それゆえ彼は「カジュアル勢」ではなく、「倒錯者」だとみなされるのである。それゆえ彼に対する非難は正当であると考える。そんなんだから美大受験に失敗するじゃないか?(こちらは不当な非難だ)

われわれは「ガチ勢」と「カジュアル勢」の間に重要な対立はないということを示してきた。それではこのことによって、彼らの間の戦いは収束するのだろうか。残念ながら、そのようなことはありそうもない。なぜなら争う人々の目的は争うことだからだ。しかも彼らは争いというゲームのプレイに対して、争う理由がなければらなないという「縛り」を設けていないのである。よって残念ながら、Twitterは今後も「つまらないやつら」と「不合理なやつら」の戦場であり続けるだろう。

以上、よろしくお願いいたします。

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