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環境の健全性について

誰しも心に傷を抱えてる。
ジェイナ・プラウドムーアです。

まずは下記のチャンネルをご覧ください。
ノエルちゃんの放送は本当に健全だなあ。

何やってんだよ団長!

あなたが招いたのよ

カードゲームの環境に対する感想といえば、ブ○ロード潰れろ、KMR○ね、サンキューベンブロードなどさまざまである。

本記事の目的は、よい環境とはどのような環境であるかという問いについて分析し、この問いに答えを与えることである。

「よい環境とはどのような環境であるか」という問いに答えるためには、まずはこの問いの意味を明確にしなければならない。意味を明確にするとは、必要十分条件を明らかにすることである。具体的に言えば、よい環境であるのはかくかくしかじかのときかつその時に限るということであり、記号的に言えば⇔であり、エセ外国人風に言えばイフアンドオンリーイフデース。

ここで最大の曲者になるのが「よさ(good)」の意味である。私が知る限りでは、よさの意味について解き明かしたものはいない。このことがなぜ難しいのかを理解するためには、事実判断と価値判断の区別について知る必要がある。

「あの机の上にりんごが存在する」という判断は事実判断である。この判断が真であるか偽であるかは、実際に机の上を確認することによって検証することができる。マザーから「机の上にりんごがあるよ」と言われたならば、机の上を見に行って確認すればよいのだ。もし机の上にりんごがなければ、「机の上にりんごがある」というマザーの判断は偽だ。ブラザーが食べてしまったのかもしれない。そのことを検証するために、今度はブラザーの胃を解剖して検証することになるかもしれない。事実判断においては、「あの机の上にりんごが存在する」、あるいは「しない」という世界の側にある事実と照らし合わせることによって、真か偽かを確かめることができる。「机の上にりんごがあるよ」と言っていたマザーを机のそばに連れて行けば、マザーは自分の発言が偽であったことを認めるだろう。そしてマザーは「机の上にりんごがあった」と訂正することになる。

次に、「このりんごはおいしい」という価値判断について考える。この判断が真であるか偽であるかは、このりんごを実際に食べることによっては検証できない。このりんごを食べることによって検証できるのは、「このりんごは(私にとって)おいしい」ということだけだからである。一般的に「このりんごはおいしい」ということは確かめられない。もし同じりんごを半分食べて「このりんごはまずい」と言ったブラザーに「このりんごはおいしいだろ」と説得してもブラザーは訂正しないだろう。なぜなら彼は「このりんごは(私にとって)まずい」ということを確かめたばかりだからである。

道徳的判断は代表的な価値判断である。「人を殺してはならない」という道徳的判断の真偽を確かめるために、実際に人を殺してみたとしても、この判断の真偽はわからない。人を殺すのは非常に大変だし、殺した後も非常に大変なので、やらないほうがよかったなあと思うことになるだけである。もしかすると人を殺すのは最高に気持ちいいので人はどんどん人を殺すべきだと思うかもしれない。

ここで問題になっているのは、価値判断においては判断の真偽を判定するために確認するところの事実が世界の側に存在しないように思われるということである。机の上を確認すればりんごの存在が目に入ってくるが、世界のどこを確認しても、「人を殺してはならない」とは書いていないということだ。どこかの権威ある本には「人を殺してはならない」と書いてあるかもしれないが、そこに書いてあることは偽かもしれない。

価値判断は事実判断とは異なり、真理値を持たないというアイデアが有力に見えてくる。つまり、事実判断は真か偽のどちらかであるが、価値判断は真でも偽でもないということである。具体的に言えば、机の上にはりんごがあるかないかのどちらかであるが、人を殺してはならないわけでも殺してもよいわけでもないということである。私の偏見によればこのnoteの読者の9割は古き悪しき日本のIT企業に勤めているため、そのような人々に親しみやすい言い方にすると、事実判断はBoolean型でかつ非ヌルであるが、価値判断は(Boolean型で)常にnullである。変数AppleIsExistにはTrueかFalseが必ず入っているが、変数KillAllowにはTrueもFalseも格納できない。なお私は英語の経験もプログラミングの経験もないため変数の命名は無茶苦茶である。

価値判断が真理値を持たないということが厄介な理由は、もし価値判断が真理値を持たない場合、特定の価値判断について議論することが実りのない試みだということになるからである。価値判断とはいわゆる「お気持ち表明」にすぎないということだ。「人を殺してはならない」かどうかについて議論することは、「人を殺すな!」と「(特定の場合には)人を殺してもいい!」という感情の表れのぶつかり合いに過ぎないということになる。

だが、事実判断にのみ着目することによってお気持ちを変えることは可能である。たとえば、「小○進次郎は低学歴だから政治家として悪い」という価値判断をしている人に対して、彼は学部はFランだが修士はコロンビア大学だという事実を伝えてあげれば、判断を改めるかもしれない。だがそこで、オックスフォード以外の政治家はありえないなどと言われたら、彼の判断を改めることはできないかもしれない。それゆえ、関連する事実判断について議論を深めることは実りある試みであるように思われる。

また、「(私にとって)よい」とか「(私にとって)悪い」とかいう価値判断は真理値を持つように見えるので、これらについて深堀りすることは可能なように思われる。たとえば、「このりんごは(私にとって)おいしい」と言う気持ちを表明した人に対して、それはなぜかを問うことができる。それに対して「甘いから」と答えることができる。別の人は、このりんごは酸っぱいからおいしいとか、甘すぎてまずいとい言うかもしれない。そうであれば、「このりんごは(私にとって)おいしい」という文をそれぞれの人がどのような意味で使っているのか、部分的に分析できていると言える。

一般的な価値判断に関する議論は実りがないので、一切やめてしまおうというアイデアにはあまり魅力がない。なぜならわれわれは一般的な価値判断と共に生活しており、一般的な価値判断について他者と理解しあえるという大前提のもとでコミュニケーションをしているように思われるからである。それゆえ、この厄介な状況のもとでどれくらいわれわれのコミュニケーションを実りあるものにするか考えるほうが魅力あるアイデアだと思われる。アルダーの真理探究者となり山奥にこもって聖典のコストを下げるのも悪くはないが、ざらざらとした大地でうまくやっていく方法を考えてほしい。

われわれの論敵は、「よい環境とはどのような環境であるか」という問いに対して、「そんなの人によるじゃん、それってあなたの感想ですよね?」と言ってくるひ○ゆき族の人間である。「よい環境とはどのような環境であるか」議論を試みている人々にとって、これらの議論によって何らか部分的であれ合意が得られるということはコミュニケーションの前提である。ひ○ゆき族は破壊者なので、一歩下がってその前提をひっくり返す。ライン越えである。このような行為はサッカーを見てどうしてボールを手で持ってゴールに向かわないのか問うていることに等しい。

私の魔法で引き裂かれるがいいわ!

そういうわけで、やっとわれわれのお気持ち表明に移らせていただく。
われわれは具体的ないくつかのパターンについて、
①一般的な意味でよい環境
②ある特定の利害を持つ人々にとってよい環境
という2つの意味でのよい環境について分析する。

ポイントとなるのは、「よい環境」について議論する際には、①と②の区別に注意するべきだということだ。①について議論している人と②について議論している人は同じ「よい環境」という語を使っているが、内実は別の事柄について議論しているからである。このような混乱のもとでは、不要な争いが発生する。本当に実りのない議論である。

①一般的な意味でよい環境 は前述した一般的な価値判断に該当する。
このことを分析するには、「よいゲームとはどのようなゲームであるか」という問いに答える必要がある。
結論を先取りすると、下記の2つはよいゲームであることの十分条件であると思われる。すなわち、よい環境であるならば少なくとも次の2つを満たす必要がある。
条件1. ゲームシステムを生かせていること
条件2. ゲームプレイについて卓越性を持つ人物が勝利しやすいゲームであること
これらの条件がなぜもっともらしいのかについては下記で説明する。

②ある特定の利害を持つ人々にとってよい環境 は前述した個別の価値判断(私にとってよいか、悪いか)に該当する。このことを分析するには、ゲームプレイヤーやゲームデザイナーがどのような利害を持っているかに答える必要がある。多様なゲームプレイヤー、デザイナー、販売元が存在するので、それらについて網羅的に議論を展開するのがベストだが、あいにく調査するよい方法を持たないので、私の偏見でこの三者について次のように代用的な利害を仮定して議論を進めることにする。


・ゲームデザイナー:一般的な意味でよいゲームを作成することと、ゲームのコントロールを目的とする。
・卓越したプレイヤー:勝利を目的としているプレイヤー
・卓越していないプレイヤー:勝利を目的としているが、卓越したプレイヤーに比べてカードゲームが下手なプレイヤー
・カジュアルプレイヤー:特定のデッキしか使わない「縛り」の上で、勝利を目的とするプレイヤー
・販売元:より高額の売り上げを上げることを目的とする。
※いわゆるカジュアルプレイヤーのこと。本noteの記事『「「縛り」の概念』を参照してほしい)

【例1】1強環境

よく悪しき環境として槍玉に上がるのが1強環境である。
①一般的な意味 で言えば、1強環境は「条件1. ゲームシステムを生かせていること」と極めて仲が悪い。なぜなら、1強環境では勝利を目的とした場合にプレイされないカードが大量に存在するからである。

たが、「条件2. ゲームプレイについて卓越性を持つ人物が勝利しやすいゲームであること」からすれば、たとえば、ゲームが長くて複雑なコントロールデッキの1強環境は、ゲームに卓越した人物がミラーを制することが予想されるため、条件2の観点からはよい環境と言える。一方で、赤単1強で先行ブレイズクローが最強の環境はよい環境とは言えない。

②個人的な意味 で言えば、
ゲームデザイナーからすると、1強環境は好ましくないように思われる。なぜなら、①の条件1について述べた際と同じ理由で、使われないカードが大量に存在する状態はデザインに失敗していると思われるからである。

プレイヤーの観点で言えば、上述の①の条件2についての議論と同様の理由で、よい環境であるとも悪い環境であるともいえる。ゲームに卓越した人物にとっては、ゲームが長くて複雑なコントロールデッキの1強環境は自分が勝ちやすいため、よい環境である。一方で、ゲームに卓越していない人物にとっては、赤単1強で先行ブレイズクローが最強の環境は運がよければ勝てるため、よい環境である。また一方で、特定のデッキを使うという「縛り」を課しているプレイヤーにとっては、「縛り」の対象となるデッキが1強のデッキに狩られ続ける悪い環境であると言える。

販売元からすると、1強環境は場合によるとはいえ、あまり好ましくない環境であるように思われる。カードゲームの売り上げについて何も知らないので偏見であるが、強力な1デッキに使われるカード以外が購入されないのであれば、全体として売上が低下するように思われるからである。もし売上が上昇するのであれば1強環境はよい環境である。

【例2】メタゲーム

よい環境の目安とされているような気がする環境が、メタゲームが成立している環境である。デッキAはBに強く、デッキBはCに強く、デッキCはデッキAに強いような環境においては、メタゲームが成立していると言える。

具体的に考えてみよう。最初にデッキBが強いという情報が出回ったとしよう。そうすると、プレイヤーはデッキBを選択する。だが、デッキAがBに強いということを発見したプレイヤーはデッキAを選択するようになり、この情報が出回ると、デッキBを選択していたプレイヤーは徐々にデッキAを選択するようになる。ここでさらにデッキCがデッキAに強いことが発見されると、デッキCを選択するプレイヤーが増加する。ここでデッキBはCに強いことが発見され、デッキBを選択するプレイヤーが増加し、最初の状況に戻る。

①一般的な意味 で言えば、「条件1. ゲームシステムを生かせていること」とは仲が良い。1強環境とは異なり、この環境にはいくつかのデッキの選択肢が存在しているので、使われないカードの枚数が少なくなるからである。

だが、「条件2. ゲームプレイについて卓越性を持つ人物が勝利しやすいゲームであること」と整合するかどうかは、情報の伝播の速度とゲームのルールに依存する。もし上述の例でデッキAがBに強いということが判明する(いわゆる「メタが回る」)のに時間がかかるのであれば、最初にそのことを発見した卓越したプレイヤーが勝利しやすい時間は長くなるので、この条件と相性がよい。一方で、すぐにメタが回るのであれば、メタを素早く理解したプレイヤーが勝利しやすい時間は短くなるため、この条件との相性は悪くなる。また、ゲームのルールについて言えば、たとえば全国大会に出場するために全勝が必要なルールの場合、メタゲーム環境は条件2との相性が悪い。なぜならメタゲーム環境は特定のデッキが別のあるデッキに対して極めて強力であることを仮定しているので、卓越したプレイヤーであっても運悪く相性の悪いデッキに当たって負けてしまうことがあるからである。一方で、勝率が重視されるような、たとえばラダーシステムのようなルールでは、メタゲーム環境は条件2との相性がよい。なぜなら、いち早くメタゲームの変化を察知したプレイヤーが高い勝率を記録するはずだからである。

②個人的な意味 で言えば、
ゲームデザイナーからすると、メタゲーム環境はデザインに成功していると想定されるため、よい環境であると言える。なぜなら、メタゲームの操作はデザイナーが意図するものだからである。デザイナーがゲームをコントロールできていることは、デザイナーにとってはよいことであるように思われる。

プレイヤーの観点で言えば、上述の①の条件2について議論した通り、卓越したプレイヤーにとっては、ゲームのルールがよく整備されていれば、「よい環境」であると思われる。卓越していないプレイヤーにとっても、うまくメタゲームの情報を入手すれば勝ちやすくなるので、コントロール一強に比べて悪い環境ではない。使用デッキに「縛り」を課しているプレイヤーにとって1強環境に比べたら悪くはない。メタゲームを構成するデッキが「縛り」の対象であれば、「地雷」として君臨することができる。

販売元からすると、ゲームデザイナーがゲームをコントロールできている関係上、よい環境と言える。なぜなら、プレイヤーはメタゲームに追いつくために、複数のデッキを所有する必要があるからである。また、現在支配的なデッキに対して強いデザインのカードを印刷すれば飛ぶように売れることが予想されるので、将来の予測もしやすくなる。

以上、よろしくお願いいたします。

【例3】群雄割拠

よい環境の目安とされているような気がするもう1つの環境が、群雄割拠の環境である。1強環境ではないが、メタゲーム環境に比べて、勝率の高い特定のデッキや極端なマッチアップが少ない環境を、メタゲーム環境と区別して、群雄割拠の環境と呼ぶ。

①一般的な意味 で言えば、「条件1. ゲームシステムを生かせていること」とはこの3つの例のうちで最も仲が良い。なぜなら、使われないカードが最も少ないからである。

「条件2. ゲームプレイについて卓越性を持つ人物が勝利しやすいゲームであること」との相性は、具体的なデッキの種類とゲームのルールに依存する。先に述べた通り、デッキの種類によっては、引き次第(いわゆる運だけ)に陥ってしまうことがあるし、ルールによっては、卓越した人物が運悪く負けてしまうからである。

②個人的な意味 で言えば、
ゲームデザイナーからすると、これが意図したものであるかどうかに依存する。意図したものである場合は大成功であり、よい環境であるが、意図したものでない場合、今後新カードのデザインによって一気にゲームバランスが崩壊する可能性があるため、よい環境とは言いがたい。

プレイヤーの観点で言えば、卓越したプレイヤーにとっては五分のマッチを卓越性によって勝利できるため、よい環境であると言える。卓越していないプレイヤーとっては、五分のマッチで卓越したプレイヤーに狩られ続けるので、悪い環境である。「縛り」を課しているプレイヤーにとっては、「縛り」によるデメリットがなくなるため、よい環境である。

販売元からすると、すべてのカード売れやすくなるため、最もよい環境である。一方で、ゲームデザイナーについて述べた通り、ゲームのコントロールに失敗している場合には、今後の没落が懸念される。

われわれの分析によれば、よく言われている通り、【メタゲーム】環境か【群雄割拠】環境が一般的な意味でも個人的な意味でもよい環境となりやすいように思われる。

だが、MTGやハースストーンのようないわゆるe-sportsよりのゲームでは、卓越したプレイヤーが多いため、【メタゲーム】環境と、勝率が重視される大会ルールをセットにした環境がよい環境とされやすいが、WSやプレメモのような萌え萌えカードゲームでは、「縛り」を課しているプレイヤーが多いため、【群雄割拠】環境がよい環境とされやすいと思われる。

なお、私は卓越していないプレイヤーであるため、簡単なデッキの【1強】環境が私にとっては最もよい。

狂気のデッキに捧ぐ!

以上、よろしくお願いいたします。

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