DD禁止署名運動ふぁぼで賛同お願いします

 こんぱ~にゃ~、ぱんにゃです。 
本記事は異常者向けの記事である。哲学系の科目を履修したことがない健常者の方々は即刻本記事を読むのをやめて下記チャンネルを確認してほしい。確認し終えたあかつきには夜見れな単推しになっているだろうから、本記事の内容を理解したも同然である。

概念に憑りつかれた男

 DDは全国大会で2番目のシェアを占めた先攻2killデッキである。恵まれたドローソースからアタッカーを展開し、タイトルイベントで全員に突破を付与して連パンを繰り返すことで、一瞬で相手を葬り去る強力なデッキだ。

DDの特徴は特定のマッチングに対して10:0がつく一方、別の特定のマッチングに対して0:10がつくということだ。具体的には、「ダンまち」や「Aチャン」に対して10:0がつく一方で、止血を抱える「ゾンビランドサガ」に対して0:10がつく。

加えてDDは非常に立ち位置がよいデッキである。というのも0:10がつくマッチングを除いて10:0とまではいかないまでもおおむね有利であるからである。それゆえDDは全国大会でも人気のデッキであった。

われわれが説明すべきなのは、このような特徴を持つデッキの立ち位置がいいことがなぜ問題なのかということである。われわれが擁護する見解は、この状況はゲームを矮小化することによって、ゲームにおける卓越性を称賛することに失敗することを引き起こすからだ、というものである。

重いコンダラ

まずはゲームを矮小化するとはどのようなことかを明らかにしよう。DDはその特徴によって、ゲームの勝敗をマッチングに還元することができる。なぜなら10:0マッチを引けば勝つし、0:10マッチを引けば負けるからである。このことはゲームを矮小なものにしていると呼ぶにふさわしい。なぜならゲームの勝敗を決定するために通常要求される、プレイという変数を不要にしているからである。つまり、ゲームの勝敗を決定するのに必要な変数をきわめて少なく、具体的にはマッチングのみにしているということだ。

それでは次に、このことがなぜ問題なのかを示す必要がある。なぜならゲームの勝敗を決定する決定する要素をマッチングのみにすることは、ゲームにおける卓越性を賞賛することに失敗しているからである。

この主張においてわれわれは次のような見解を前提としている。すなわちゲームとは、ゲームにおける卓越性を賞賛するものでなければならないということである。この見解は、ゲームにおいて誰が賞賛されるべきかという問いに関して、そのゲームにおける卓越性を持った人物が賞賛されるべきであるという主張に基づいている。賞賛とは多くの場合ゲームにおける勝利であり、時には名声である。この主張のポイントは、勝利した人物が賞賛されるべきなのではなく、卓越性を持った人物が賞賛されるべきだと主張していることである。すなわちこの見解によれば、ゲームとは卓越性を持つ人物が勝利するようにできていなければならない。ゲームを矮小化するデッキの存在はこの主張と衝突する。それゆえこの主張を擁護するのであれば、DDには何らかの手が加えられるべきなのである。

よって大事なのはこの主張、つまりゲームは卓越性を持つ人物が勝利するようにできていなければならないということのもっともらしさである。この主張がもっともらしいのであれば、DDに何らか手が加えられるべきだという主張ももっともらしくなる。

この主張を擁護するうえで、われわれは直観的なもっともらしさに訴えることになる。すなわち卓越していない人物が勝ち、卓越している人物が負けるゲームには何らか問題があるとわかるだろう、という論法だ。有名なゲームもこのような直観を共有しているように思われる。サイドボードや、Bo5、BANといったシステムである。これらのシステムはゲームの決定する変数を増加させることで、ゲームの矮小化を防いでいる。一般的にゲームの勝敗を決定するのに必要な変数が増加すればするほど、ゲームに卓越している人物が勝利する可能性が高くなる。なぜならゲームに卓越していなければ、勝利に対して適切な変数を入力し続けることができないからである。

2killDDを発明することは間違いなくこのゲームに卓越しているということを意味する。2killDDを発明して使用し勝利することは賞賛されるべきである。けれども現在のように誰でも2killDDを使用することができるような状況において、2killDDを使用することは特段卓越性を示すようなことではない。またわれわれの主張は、各エージェントはDDを使用するべきではないといったばかげたものではない。我々の主張は、ゲームの運営者はゲームの本質、すなわちあるべき姿に適合するようにゲームの環境を整えるべきであるというものである。

われわれの見解が抱える最大の問題は、具体的に特定のゲームにおける卓越性とは何かについて明確なコンセンサスを得ることが極めて困難だということだ。これは多くのゲームが抱える問題である。われわれの主張は有利マッチを引き続けることはそのゲームの卓越性を示してはないだろうが、ミラーマッチのロングゲームで勝利するのは卓越性を示しているんじゃないだろうか、などという感覚にすぎないものに依拠している。

ちゃぶ台返し

最後に、いくつかのちゃぶ台返しを見てみよう。

第一の星一徹によれば、ゲームに卓越している人物が勝つべきだという感覚は気のせいである。彼によればゲームを説明するのに卓越性という概念は余計である。この主張はそこそこ人気があるように思われる。上記でも少し言及したが、いかなる過程があったにせよ勝利した人物が賞賛されればよいという見解は、卓越性という怪しい概念を用いないで済むため、われわれの見解に比べて形而上学的コストが安い。

星二徹によれば、われわれが主張するように、ゲームの本質が卓越性を賞賛することであり、かつ現在の状況がそれに反するものだったとしても、為政者(調整チーム)は別に手を加える必要はない。彼によれば、為政者はゲームの本質に関心を持つべき理由がない。為政者が関心を持つべきなのはカードが売れているか売れていないかだけである。為政者が環境を整える理由は、面倒なクレームが多いからでなければならず、ゲームをあるべき姿に近づけるべきだからであってはならない。

星三徹によれば、そもそもゲームの本質とは何かというわれわれの問い自体に意味がない。ゲームの本質とは何かを決定する手続きが存在しないのであれば、ゲームの本質とは何かについての見解に依拠するわれわれの議論はそもそも無意味な議論である。

われわれのライバルとなるのはやはり一徹だろう。二徹は逆張りっぽいし、三徹はさすがに寝たほうがいい。ぼくもこの記事に飽きてきたので寝る。

結局どのカードにどういう制限をかけたらいいみたいなきわめて重要な話にはあまり関心がないので有識者に任せます。

以上、よろしくお願いいたします。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?