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教育のエッセイ



はじめに

こんにちは、貯金マンです。

いつも「貯金」や「節約」のことを中心に

記事を書いています。

しかし、今回取り上げるテーマは

「教育」についてです。


一口に「教育」といっても

個々人の親から子へと教えられる

家庭教育なのか

それとも、

塾や予備校といった産業教育なのか

定義は多義にわたります。


この記事で言及する教育の定義

そして対象ですが、

日本という国が

義務と権利を国民に保障している教育の場、

つまり学校ーー「公教育」です。

一つ、お断りしておきたいのですが

別に私は教員、学者、塾の社員といった

教育界に携わっているわけではありません。

あくまでも

私が思っていること、感じたこと、

考えたことをまとめたものだと言えます。

ですから、この記事はジャンルでいうと

ビジネスでもなく、教育でもなく、

自由な形式で

気軽に僕の意見を述べた散文、

「エッセイ」です。

私の心の世界、

その内を表現する過程において

学校、公教育そのものへの

批判的な事柄もあるかもしれません。

この記事を読もうとしている

小学生、中学生、高校生の方のなかには

学校が大好きだという方も

いらっしゃるでしょう。

記事を読み進めていく過程の中で

ひょっとすると

学校のことを悪く言われたように

感じてしまい、

嫌な思いをするかもしれません。

大学生の方のなかには

これから教員という職業を目指し、

教師という生き方そのものが

何であるのか自ら奮い立って

学ぼうとしている、

あるいは現在学んでいるという方に

水を差してしまうこともあるかもしれません。

現在、崇高な使命と責任をその身に負いながら

教育を司る現場の先生方にとっては

都合の良いような現場を無視しした理想論、

机上の空論であると

一笑に付してしまいそうな

トンデモ理論をこれから

かましてしまうかもしれません。

そして現在親として、

これからの未来において

常に子どもの成長と

その責任の両方を身に背負い

立派に育児に励まんとする保護者の

自尊心を傷つけてしまうことが

あるかも知れません。

色々な人たちの立場、生き方に対して。

「学校」「公教育」というアバウトかつ

デリケートな話題に対して。

本来私のような

教育界に身を置いていない人間が

その話題について触れる、

その危険性も重々承知した上で

それでもこの試みにより

これを読んでくださるあなたにとって

何かしらの利益をもたらすだろうと信じ、

ここに記します。


教育の目的

「先生、何のために学ぶんですか?」

子どもから大人に至るまで多くの人が

この疑問を思い、感じ、

考えたことと思います。


そして「勉強が何の役に立つんだ!」と

燻りながらも嫌々机と向き合い

学校に登校した人も少数ではないと思います。

先生に質問してみると

先生自身がその人自身の答えを持ち、

また教育を受けるプロセスにおいて

自身にとっての勉強する意味、

「教育の目的」をそれぞれが獲得します。


しかし、学校というものは

国が保障しているものであり

憲法を最高法規とした法律の名の下で

運営されるようになっています。

当然、日本という国が教育の目的について

どういうゴールを設置し、

それらをどう達成していくのか

その答えが法律にあります。

その法律の名を

教育基本法といい

その第一条には

こう書かれています。

教育基本法 第一条 

教育は、人格の完成を目指し、

平和で民主的な国家及び社会の形成者として

必要な資質を備えた心身ともに

健康な国民の育成を期して

行われなければならない。

文部科学省:HP https://www.mext.go.jp/b_menu/kihon/about/mext_00003.html


憲法や法律といったものは大抵、

その憲法や法律の名の下で特に

重要であると考えられている事柄、

つまり1番重要なことを

最初に持ってくるという

様式美があります。

つまり、

教育の目的はまず

人格の完成を目指して行われるというもの。

そしてなにより

日本という国、社会そのものを

形創っていく者を育成するために

教育を行うんだよと国は言っているわけです。

(もし、あなたが高校生であり大学に入学し
教員を目指すとなれば大学前期の
「教職入門」といった講義名で
このことを学ぶと思います)


知らなかった方にとっては

意外だったかも知れませんが、

国はこうしたゴール、ビジョンを持って

学校という公教育を司っています。


人格の完成って……

さて、学校という公教育が

何のために行われているのか

とりあえずは認識出来たと思います。

しかしながら、

少なからず一部の方達はこう思うはずです。

「人格の完成ってなんだ?」
「アバウトすぎん?」
「そんな曖昧なゴールでいいのか?」

そう、これが世に言う

教育問題その内の1つである

言わざるをえません。

「人格の完成」。

これは何を以て人格の完成と

見做すのでしょうか。

また、そのために行われる手段は

何が最適なのでしょうか。


それを解き明かすには、

文部科学大臣から諮問(しもん)を受け

調査・審議し大臣に建議や勧告をする

権限をもった中央教育審議会という

政府の審議会が示す

諮問・答申が鍵となります。

具体的にはその答申で散りばめられた

キーワードとして

「生きる力」=

①「確かな学力」

②「豊かな人間性」

③「健康・体力」が

あげられます。

そのための手段として学校は、家庭や地域と

相互に協働連携してチーム学校、

開かれた学校として教育的基盤を確立したいと

考えているとのことです。

さて、そんな学校ですが

実際には様々な問題にぶち当たっています。


どんなものがあるか考えてみましょう。



限界な教育ー学校現場

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現在、我が国の日本は

超少子高齢化社会と言われ

若者より

お年寄りが圧倒的に多いです。


教育の現場にもその波は当然そのシワ寄せが

来てしまって、教員としての人的量と質が

不足しているのが現状です。

そして、求められる教育というのは

時代によって変化していきます。

目まぐるしく変わっていくこの社会のなかで

求められる知識及び技能は

高度でより多大な範囲に

広がっていくことはあれど、

縮小されることはありません。

教員そのものの量や質について

足りないとされるなかで

求められていく教育は

高度化・拡大化の一途を辿ります。

例えば

2018年度、2019年度から

道徳が教科として変更になりました。

従来、道徳は教科外の活動として

位置付けられていたことが

相次ぐ学校現場のいじめ等を背景に

特別の活動であった道徳が

教科として定まりました。

これによって、学校現場の先生方は

道徳というものを評価しなくては

ならなければなりません。

ですが、

道徳というものを教えるということは


教育的にも非常に難しい問題であると

言わざるをえません。


道徳という言葉の中には

基本的人権の尊重はもとより

モラルやマナー、ルールや

公共の福祉といった抽象的概念すらも

その身に落とし込んでいく必要があります。


しかし、実際はどうですか。

子どもから大人になった者の中には

道徳性が身についていないような人々は

一定数いるはずです。

それは会社であったり

居酒屋やファミレスであったり


電車やバスといった交通機関で見かけたり。

大人ですら危うい人がいるというのに。

私としてはそれよりも家庭の場において

実際に親自身が目の前の子どもに

「あなたのことを愛してる」と言い

ぎゅっと抱きしめるだけで

道徳というものについて

子ども自身が感じたり考えたりすることで

より一層深く知れると私は思います。

限界な教育ー夏休み短縮論


2024年、7月3日にAbema primeが

YouTubeで公開した

「夏休み短縮」に対する動画が

一時話題になりました。

視聴回数は

現時点(2024年7月19日10:39)で

約25万回再生されている動画です。


これは動画を見ていただくと分かるのですが

2児のシングルマザー、リサさんが

その代表として思いを述べていました。

・夏休みに入ってしまうと
光熱費や食費がかさんでしまう

(クーラー、扇風機といった冷房)
(給食がないのでその分が負担になる)

・長期休暇に一律入っていくなかで
「〇〇県の▲▲▲に行った」という
旅行などのレジャー体験を周囲の同級生から
聞かされることもあり子どもが不憫

(体験的な活動において格差が生じている)

まとめてみると主張については

①夏休みを短縮してほしい(目的)
②経済的負担を軽減するため(理由)であり


これに対して多くの

賛否両論が巻き起こっていました。

以下は動画のコメント欄を

一部抜粋・要約したもの。

夏休みを短縮することに

肯定的な意見として、

・教室に冷房が設置されている現代に
夏休みとして避暑をする理由はない

・親は毎日子どもを育てて大変

・貧乏で娯楽も何もないから
夏休み楽しくなかった自分としてこんなに
反対意見多くてびっくり

夏休み短縮に否定的な意見として

・そもそも前提として格差は当たり前。
そのなかで何が出来るかを考えるかが
親の責任であり役割

・夏休みを短縮した場合、
その児童・生徒を指導監督するのは
教員でありその人たちの休みはなくなる

・夏休みをなくすのは親のエゴであり
子どものことを考えているとは言えない

と大きく分けて以上の通りに分類でき

肯定的な意見にはそのシングルマザーへの同情や
夏休みに対しての存在意義に関する疑問、
また国が一人一人の国民に対して支援、
保障制度が不十分だからこういう貧困世帯が出るのだという
政治批判も一部に散見されました。


そして否定的な意見に最も多く見られたのが
「格差はあって当たり前」、
「自己責任なのではないか」という意見が最も多く見られ
また自身をお金がない世帯だったと語る人の中には
「それでも夏休みは楽しかった。子ども時代の思い出だった」と
語る人も多く見られました。


ここを踏まえた上で

私の意見を言わせていただきます。

私は夏休みを短縮するべきではない、と

考えています。


前提としてこの問題の本質は

個々人の貧困によるものであって

夏休みを短縮しただけでは

根本的な解決の緒(いとぐち)に

なり得ないと思ったからです。

そして、この貧困に対しては

学校という狭く小さなところではなく

国が本気をあげて社会的な問題に

対して立ち向かっていかないと解決が

困難なものであり、とても学校というものが

背負えるものではありません。

それは政治・行政の領域であり

教育現場が背負えるとは到底

不可能だと思います。


動画の中には

「そもそも夏休みは誰のために、

何のためにあるのかもわからない。

先生は何しているのかも分からない。


でも給料は貰っている」と話す男性がいました。

学校は良くも悪くも閉鎖的な空間です。

教員、児童や生徒といった関係が基本軸として成り立ち

外部的要因はあまり見られません。

その結果、いじめや不登校など学校で起きる問題に対して

唯一助けることが出来る大人ー教師という立場がどれだけ

重要なのか言葉にする必要もないことかもしれません。

この男性はどういう意図でこの発言をしたのか

真意を知ることは本人にでもならない限り不可能です。

ともすると「夏休みがあるから教師は暇でしょ?」とでも言いたげな

発言であったことは確かに感じました。

しかし、時代は変わったのでしょう。


教師、いや組織としてどんな働き方をしていて

夏休みは一体何をしているのか広く周知させることも今後は

検討するべきだと思います。

そして、私のような教育界に身はおいてないものの

多少なりとも興味・関心のある者がより良き理解者として

社会に存在すること自体が重要であると感じました。


少し話はそれますが教員に限らず公務員というものは

非常にバッシングを受けやすいものに思えます。


例えば、消防隊員や警察官の方、あるいは救急隊員が

コンビニに立ち寄っておにぎりやお茶などの飲み物を

買っているとクレームを入れる人がいるのです。

食事などは最低限、人が生きていく上で必要最低限な行為であり

それを否定することに対してどういう根拠をもとに発言しているのか……

甚だ疑問でなりません。

彼ら彼女らは少なくともこの日本という国に対して非常に社会的な役割を

になっていることは紛れもない事実です。

しかし、公務員という職業の特性上

「滅私奉公」、「身を削ってでも社会のために頑張るべき」といった

およそ人を人とも見ていない方もこの世に一定数いることに

なんだか暗澹たる思いを感じずにはいられません。

私自身は「公務員として国家に尽くすべき」というのは

いわゆる「お客様は神様論法」だと思うのです。


サービスを与える側が「お客様は神様だ」という意識をもって

職務に専念するのは健全であると考えますが、

サービスを受ける側が「お客様は神様だ」と言い出すのは

はっきりいって傲慢以外の何物でもないと思います。


そして、これも教師に限らず公務員全体に共通する事柄かもしれませんが

労働に対する報酬が見合ってないことも

大きな問題であると考えています。

その崇高な使命と職責にかられる一方で

残業代は出ない、部活動などの特別活動の手当は雀の涙程度。

こんなことでは教員になりたい、または公務員になりたいと思うものは

少ないでしょう。

それを言うと

「じゃあ自分は公務員にならなければいいじゃん?」という人も

一定数います。


私はこれに対して「正気の沙汰ではない」といつも感じてしまいます。

例えば公務員に私がならなかった場合、一人だけの損失です。

しかし、同じような人が私の目の前に3人いたらどうでしょう。

50人では?100人では?1000人では??……

そうした結果、求められているものはどんどん拡大・

高度化の一途をたどる一方で現場はそのニーズに振り回され

希望して就職するものが減り、早期退職しリタイアする

悪循環になるということは非常に予想がつきやすいです。

結局、人を人と見ない現象は崩壊そのものしか生まないという

単純にして最悪な結論を出すことしかないものだと思います。

結局、官民関係なく人を大切にしていく社会にしなければ

この国自体が終わってしまうのではないでしょうか。


限界な教育ー失われた尊厳と教師


先ほど、人を人として見ていない人がいると述べましたが

それは現在教員として児童・生徒の前で教鞭をとっている方たちが

よりそのことを感じ取っているのではないでしょうか。

いつからか学校そのものが過剰なサービスともいえる

イエスマンと化し子どもと保護者、管理職などの人たちの

顔色を窺い何かあればすぐに受け入れることだけに終始してしまうように

なってしまったのではないでしょうか。

例えば、私が中学生のころ読書活動が盛んにおこなわれていました。

しかし、現在の読書活動を行っている学校の中には

「無理して読まなくていい」・「感想をかけるんだったら書いてね」という

超下手に出た教育が行われているそうです。


私はこれが正しいことだとは思えません。

常に優しさや配慮を求めた結果、

漢字がまともに読めない児童や生徒を生んでしまうのなら

それは教育ではないと断じます。

そして苦しいことや辛いことを避け続けた結果

なにかことあるごとに他者や社会に対して責任を求めるだけの

大人になってしまったらいよいよ手が付けられないと感じるからです。


教育の目的は、

「人格の完成」のほかに、

「より良い国家及び社会の形成者としての

資質・能力を育成すること」だったはずです。

結果として、目的に合致しているのかほとほと疑問を感じてしまいます。


総括


結局、私が言いたかったことは

第一に「教育の目的」、「学校や教師の役割」を知らない人が

多すぎるためまずそこから周知していく必要があると思いました。

そして、夏休み短縮論が出るようなまでに

育児が厳しいご家庭があるのなら、

言ってしまえば日本の貧富の差の二極化が激しいのなら

他ならない私たち自身の手で積極的に国政に参加する必要があると

強く意識を持ち行動することです。

日本は国民主権なのです。

それぞれがそれぞれに国政に参加できる参政権があります。

他方、教員のほかに公務員バッシングのようなものは

国家を衰退させることはあれど興隆に導くことはないということ。

そしてその割を食うのは最終的には私たち一人一人の人間だということを

私は忘れてはならないと強く思います。

今回、エッセイとして

私の思うところを述べました。

散文の散文もいいとこだと思うのですが

どうにか思考を言語化して表出させました。

今後もっとブラッシュアップして

自身の興味・関心に基づき記事を更新していこうと思います。


約6000字ほどの長文を

ここまでお読みいただき

ありがとうございます。

これからもっとアウトプットの練習、経験をつんでいきますので

なにとぞよろしくお願いします。






























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