『物々交換社会はなかった!?』経済学が無視する最新貨幣史の実情 2

 物々交換社会がどうも歴史上存在していた形跡がないぞ!?ということを前回書きました。たしかに、醤油を切らしてお隣の家から借りる時、いちいち醤油に変わる何かを我々は用意しませんもんね。まず醤油を借りて、返す時にできた料理をお礼として持っていくというのが自然な流れではないでしょうか。社会が小さく人間関係が濃厚な場合、わざわざ物々交換などという手段をとるまでもないのです。では、物々交換による取引が全くなかったかというとそんなことはありません。ただしそれは、我々が学校等で習った平和的な物々交換の姿とはだいぶ様相を異にしていたようです。

 ドイツの哲学者で経済学者のカール・マルクスは「商品交換は、共同体の終わるところに、すなわち共同体が他の共同体または、他の共同体の構成員と接触する点に始まる」としています。原始社会では、必要な品が生まれても贈与・借出と、返済を記憶するだけで経済が回ることは前回説明致しました。教科書によく出てくる海の幸と山の幸の交換の例だって、そもそも小さな共同体は自らの他に人類がいることを知らないので、ここでは手に入らない品があるとは思いつきもしないはずです。

 ところが、共同体が発展して家族から村となり活動範囲が広がると、自分たちとは全く異なる共同体が存在することを知ることとなります。小さな社会の取引の原則は、信頼に裏打ちされた贈与・借出と、信頼を裏切らないための返済とお礼(利子)の支払いですが、異なる共同体は大前提となる信頼を持ちようがないのです。

 信頼をできない共同体の構成員と出会った時、人類がとった手段はおもにふたつでした。即ち、“殺しあう”か、“平和的に付き合う”かです。この平和的に付き合う手段として用いられたのが交易でした。

 オーストリアの経済学者カール・ポランニーは、市場経済が誕生する以前の社会における交易の意義・目的・動機を「その場では入手できない財を獲得する手段である」と定義しています。ポランニーの定義が白眉だったのは、原始の交易は、“利潤”ではなく“財”を獲得するために行われていることを看破したことでした。現代の感覚ですと、どうしても交易の目的は多かれ少なかれ利潤の追求が含まれていると考えてしまいますが、原始の交易の記録を見ると必ずしも利潤を追求してはいないことがわかってきます。

 古代ギリシヤの歴史家であるヘロドトスが紀元前5世紀ごろに記した人類最古の歴史書『歴史』に、カルタゴ(現在のチュニジア北部にあった国家)の商人とアフリカ奥地で暮らす黒人部族とのとても変わった交易記録が残っています。カルタゴは海洋国家で、アフリカ内地との交易も頻繁に行っていました。

 カルタゴ商人は交易地に到達すると、まず浜辺に荷物を降ろして船に戻り狼煙を上げます。すると浜辺の奥から黒人部族が出てきて、品物を検分し、その品に見合うと思った量の黄金を置いて再び奥へ帰っていきます。部族が浜辺から遠ざかったのを見て、カルタゴ人は再び上陸。金の量を確認し、納得したら黄金を船に積み込み出航、満足いかない場合は黄金を受け取らず、再び船に戻り黄金の量が増やされるのを待っていたそうです。

 同じ形式の交易は世界中で記録されています。お互いに言葉を一言も介さないため「沈黙交易」と呼ばれています。沈黙貿易は、比較的発展した国が未開の人から多く黄金をせしめるために行っていた手段と19世紀ごろまで考えられていました。なぜなら双方が同程度の文明レベルをもっていると、どちらが損をしたかが判り、交渉なしの沈黙交易方式では永遠に取引が成立しないからです。

 しかし、南太平洋サンドウィッチ諸島のワイルクで、島の南と北にすむ同程度の文明水準の部族がそれぞれの品物を持ち寄り、川を挟んで同様の交易を行っていたことが分かりました。両部族の言語は同じですし、狭い島の中ですのでお互いの村でしか取れないような物もありません。それでも、相手の商品が気に入らなかった場合は、両岸からお互いに文句を言い合って取引を行っていたそうです。言葉が通じるのに、わざわざ川を挟んでしかも双方にとって利益にも損益にもならない交易をしていたのです。

 この例から経済学者の栗本慎一郎氏は、沈黙貿易の本質は言語が通じないからとった「沈黙」という手段ではなく「接触忌避」にあったと指摘しました。何故、接触を忌避する必要があったのか。それは、相手が自分と共同体の異なる、信頼の置けない異人だったからです。

 人類は何故過剰に異人との接触を避けたのか。そのヒントはなんと本邦の歴史書に記録されています。『日本書紀』の斉明天皇6(660)年3月の記録によると、将軍・阿倍比羅夫は粛慎国という謎の国の武装船団と出会い戦いました。彼は、開戦の前日に武器や高級品であった染布を浜辺に積んで粛慎人に示し、一度は軍を引き上げました。粛慎人はそのうちの着物を自分たちの着物と交換して船に戻ったのですが、何らかの理由で再び浜辺に戻り一度は持ち帰った服を返却したため戦となったようです。

 平和的に沈黙交易を申し出た阿倍に対して粛慎人は、意図したかしていないかは不明ですが、お前たちとは平和的に付き合えないと態度で示してしまったのです。自らの過失に気付いた粛慎人はすぐに阿部に和平を申し出たようですが、阿部は軍を引く事無く粛慎国の船団を滅ぼしたそうです。

 原始社会において他の共同体との接触は、何をされるか分からないという恐怖を常に伴います。そのため共同体は、他の共同体との接触を可能な限り避ける必要がありました。しかし土地の広さは有限です。共同体が成長するということは、必ず他の共同体と接触することになりました。こうして出会った2つの共同体は、お互いに相手が自らの共同体では手に入らない品を持っていることを知ります。戦争を仕掛けて略奪を行うという選択肢もありますが、人的損害の大きさを考えるとその選択肢には消極的にならざるを得ません。そこで、敵意を見せずに、自らの共同体の特産品と相手の共同体の特産品を物々交換する沈黙交易が世界各地で行われることとなったのです。

 この交易は命の危険が伴うため、村の若者が適当に行うという訳には行きません。結局、共同体の代表者がその権限でルールを定めて、接触を避けながら行うようになったのです。この場合、代表者に交易で求められる事は、個人の利潤を追い求める事ではありません。共同体の長としての勇気や権威を誇示できる、相手がもつ財を手に入れることでした。

 原始社会から古代に行われていた沈黙交易(物々交換)は、取引ににおいて損得や債務が発生することは極端に避けられました。債務が発生すると相手の共同体から恨みを買う恐れがあるからです。前回、貨幣は債務を記録する決済システムとして誕生した可能性が高いと書きましたが、沈黙交易はだから、貨幣が誕生する余地がないのです。

 ところで、最初から侵略されたり、沈黙交易の失敗として侵略されてしまった共同体の運命はどうなったのでしょう。皆殺しを行う場合ならともかく、そこまで苛烈な行為は通常行われません。侵略側の共同体が被侵略側の共同体を吸収し同化するという過程をとることがほとんどでした。この時に用いられたのが、本来沈黙交易で支払うはずであっただろう共同体の威信を示す財でした。

 中国で歴史上確認できる最古の王国は黄河文明の「商」という国です。この国は吸収した他民族に対し、王の権威の象徴としてタカラガイという貝の貝殻を加工して下賜しました。タカラガイは美しい貝殻で装飾品として人気がありましたが、中国近海には生息しておらずインドの南洋や沖縄近海で捕獲するしかありません。その希少なタカラガイを気前よく与えてくれる商王に、支配された共同体は従ったのです。ちなみに「財」「寶」「貨」といった財貨を示す漢字に「貝」という字が入るのは、この事例があったからです。タカラガイで作られたこの加工品を「貝貨」と呼びます。東洋貨幣の最初期の形とされていますが、貝貨では売買は行えず、あくまでも権威を示す道具でした。しかし、貝が王から与えられる“財”であるという印象は東アジアに強く残り、以降中国で作られる貨幣は、貝殻の形を模して発展しています。

 アダム・スミスは、まず、物々交換社会があり、やがて物々交換の欠点を補うために誰もが価値があると認められた素材を用いた貨幣が誕生したと考えてました。ですが、さまざまな調査や歴史書の記録により、“物々交換社会が存在しなかったこと”、“貨幣はお互いの信頼で執り行う貸し借りを、計測し記憶するシステムなので物理的な形を取る必要はないこと”が判ってきました。

江戸時代の勘定奉行・荻原重秀は、アダム・スミスより100年も前の17世紀初頭にすでに貨幣の素材に意味がないということに気が付いていたようです。「貨幣は国家が国民に信頼されていれば、瓦礫でつくったとしても流通するはずだ」という主旨の言葉を残しています。

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