大河ドラマから見る日本貨幣史『麒麟が来る第9話より』

2020年3月15日放送の『麒麟が来る』のラストシーンで、行商の「一服一銭」が出てきました。一服一銭は、銭一文でお茶やタバコを売っていた商人のことです。戦国時代の庶民が何を飲んでいたかについては、宣教師の記録に「夏の暑い間でもぐらぐらと沸かした湯を飲んでいた」と記されており、当時の日本において生水を飲むという行為がほとんど行われていなかったことが知られています。店舗型の茶店など営めないような戦乱の最中にあって、常に煮沸したお茶が飲める一服一銭という商売はかなり繁盛したようです。

では、当時の京における「一銭」とは何を指していたのでしょうか?一銭という言葉自体は、円形方孔の特徴を有する銭貨1枚を指す単語で、額面1文と同義語として用いられていたことは多くの方がご存知かと思います。ですが、先日の「麒麟が来る」第9話劇中の京で用いられていた一銭が、どの貨幣だったかについて明示されていませんでした。この貨幣の正体について私なりの考えを述べてみたいと思います。

松平広忠が亡くなったのは天文18(1549)年のことです。(※彼の死去が劇中で信長の暗殺とされていた箇所は完全な創作です。)日本は応和3(963)年の「乾元大宝」の停鋳をもって銅銭の公鋳をやめていたため、戦国時代までの一文銭は、基本的には中国大陸から輸入したものでした。ですが、着実に経済規模が拡大していた日本において、それだけでは決して足りません。そのため

① 奈良・平安時代から使われ続けている皇朝十二銭を使う

② 中国の銭を鋳写す。あるいはオリジナルの貨幣をつくる(模鋳・私鋳)

ことが行われていました。こうした銭を「鐚銭(びた銭)」と言います。びた一文払わないの「びた」ですね。もっとも鐚銭だからといって必ずしも状態が悪いとは言い切れません。なかには当代一の鋳物師が丹精込めて模造した鐚銭もありました。

さて、日本では銭はすべからく1枚=1文で扱う商習慣になっていました。これには大きなメリットがありまして、文字が読めないし計算もできないような庶民でも、簡単に貨幣による売買が行えます。さらに、貨幣制度をいちいち整備しなくても民間は勝手に適当な銭貨を使ってくれるため支配者にはローコストでした。もちろん自国で貨幣発行をしないため、慢性的な銭不足によるデフレからは逃れられませんが、良くも悪くも武士が政権をとった鎌倉時代から国内では戦乱が絶えませんでしたので、インフレとデフレのバランスが一定程度保たれてしまっていたのです。(戦乱になると食料等大量に物資が必要になるため、物価が上昇しインフレが起こりやすい。)

戦国時代になるとさすがに古い銭はぼろぼろになりました。考えてみてください。文字すら読めないまで腐食して今にも崩れ落ちそうな和同開珎と、つい先日つくられたばかりのピカピカの銭が、等価と言われて納得できるでしょうか?できないですよね。そのため戦国時代の民間では、銭の状態によって価格差を設ける「撰銭」という行為が行われるようになりました。あまりにもボロボロだと、オリジナルの銅銭であっても1文と認められず、1/2文や1/4文として扱われたのです。

すべての銭を1枚=1文でカウントするメリットは取引の効率化でした。ですが、撰銭を行い1枚1枚銭貨の状態を確認し値段をつけていたのでは、そのメリットが失われ取引速度が低下してしまいます。だから、各地の領主は撰銭を禁止したり、あるいは銭貨の公定レートを定めたりしようとしました。こうした法令を「撰銭令」といいます。

さて、当時国内に入ってきた銭貨のなかで最も新しく質の良いものは、中国大陸を支配していた明が発行した明銭でした。ですが、不思議なことに西日本では新しくて奇麗な明銭よりもまだ奇麗に残っている皇朝十二銭や宋銭(9世紀から10世紀にかけて中国の宋が発行した銅銭)のほうが、取引実績も伝統もあるから信用もあり価格が高いとされました。

明銭は当時世界最高水準の鋳造技術でつくられた大変美しい銭貨だったので、この考えはちょっと無理があります。室町将軍も明銭の価格下落には頭を悩ませていました。そりゃそうです。新しいピカピカの銭が1枚1文になれば、大量に輸入して古い銭と交換していけばやがてすべての銭が1文となり撰銭の悪弊も収まります。ですが、当時もっとも価値があった宋銭や皇朝十二銭はすでに誰も作っていないのです。

明銭の不人気の理由はよくわかっておりませんが、日本銀行等が推している学説をここでは紹介しておきましょう。そもそも明は、前王朝である元の貨幣制度を真似ていた所が多く、小額貨幣含め紙幣で国内経済を回そうとしていました。そのため、明銭を中国人商人は低く扱うようになり、わざわざ貿易用に新規には宋銭を私鋳していた位です。それを見ていた日本の貿易商人のあいだでも「明銭」=価値のないものという図式が成立したのでしょう。

文明7(1475)年、応仁の乱末、第8代将軍・足利義政(正確には乱の最中に家督を譲っているので前将軍ですが)は、明から明銭5万貫(約5,000万枚)を輸入しました。応仁の乱後の復興や幕府態勢の再建、さらに銀閣など東山の開発に何かと物入りの時期でしたから、一世一代の大量輸入だったのでしょう。当時、一部の銭貨はますますぼろぼろになり、市中の銭貨不足は深刻でしたから、この輸入は京の庶民の生活を救うとも考えられておりましたが、京の庶民の明銭嫌いは徹底しており、5,000万枚がほとんど人びとに用いられなかったようです。

明応9(1500)年には、余りにも状態の悪い銭しか市中に残っていなかったため、『「永楽通宝」「洪武通宝」「宣徳通宝」の明銭3種を1文として使うように』という法令を室町幕府は出しました。ですが、以後毎年のように同じ法例を出し続けていることを考えると、誰も幕府の命令を聞かず明銭を撰銭していたのでしょう。

状況が一変するのは天文11(1542)年のこと。興福寺が寺領の領民に対し『宋銭と明銭を対等に評価すること』という法令を制定しました。奈良時代以降、広大な荘園からの収益と、有力貴族からの寄進によって何百年も力を蓄えていた興福寺の権威は、応仁の乱後、急速に力を失っていった室町幕府より強くなっていました。こうして畿内全般で急速に明銭の価値は高まっていき、徐々にですが「永楽通宝」以外の明銭が用いられるようになっていきました。なぜ、永楽以外かというと「為替差」の問題が生じたからです。

当時、永楽通宝というのは関東以東で非常に人気の高い銭でした。余りにも人気が高すぎて、茨城では大規模な永楽通宝の模造工場がつくられております。関東での永楽通宝普及の決定打となったのは、天文15(1546)年の河越夜戦だったあと考えられます。この戦いは相模の戦国代表・北条氏康が、関東管領の名門・上杉家に勝利した合戦です。これにより実質関東の覇者となった北条家は、まだ里見家など敵対勢力は残っていたものの関東でもっとも有力な大名へと躍り出て、本格的な領国経営のための徴税制度の整備を行い始めました。

北条氏が行った税制改革については『撰銭とビタ一文の戦国史』(平凡社/高木 久史著)に詳しいですが、非常にざっくりというならば、

① 土地の豊かさや年ごとの気候に左右される米ではなく、銭で徴税を行おうとしたこと(税収の目処が付けやすく国家運営が安定する)

② その際、「永楽通宝」を基準貨幣に選んだこと

のふたつです。何故、永楽通宝が基準に選ばれたのかについては謎が多いですが、室町時代初期より戦乱が多かった関東においては、関西ほど権威や伝統の力が及ばず、貨幣に用いる金属の状態そのものの価値が重視されたのではないかと私は推測しております。とにもかくにも、関東では永楽通宝が1枚で1文となり、それ以外の銭は永楽通宝より価値が下に見られるようになりました。最も価格差が生じていたころには永楽通宝1枚がその他の銭4枚分として扱われていました。畿内では、ようやく永楽通宝とその他あらゆる銭の価値を等しくしようとしていたころです。

さて、あなたが京で永楽通宝を1枚手にしたとします。京で使ってしまえば茶一杯分にしかならないのですが、関東へ持ちこんで両替をすれば、永楽通宝以外の銭が4枚手に入ります。それを京へ持ち帰れば……このような簡単な転売の機会を商人が見逃すはずがありません。16世紀中期には地域間の銭の為替差を利用した両替商が多数出現しました。その結果として京で永楽通宝はほとんど出回らず、逆に関東では流通する銭の8割強が永楽通宝という事態になりました。

また、幕府により最初に名指しされていた洪武通宝ですが、こちらは最後まで畿内圏で人気が出ず、逆に九州では人気がありました。この為替差を使っても両替商が売買を行っております。

畿内を代表する商業都市である堺(1話で光秀が鉄砲を買いに行った都市)では、16世紀中期の大規模銭貨工場が発見されていますが、そこからの貨幣の出土状況は、以上の状況を踏まえた内容となっております。この遺跡でもっともつくられていた模造銭貨は、なんと「開元通宝」(唐・621年初鋳)で、次いで「皇宋通宝」(北宋・1039年初鋳)、「元祐通宝」(北宋・1093年初鋳)、「政和通宝」(北宋・1111年初鋳)と続いております。明銭が1文と定められた後も、畿内ではやはり古代銭貨の方が需要があったということでしょう。

また、この遺跡からは何の文字も書かれていない無文銭も多数出土しております。これも貨幣として流通していた物で「平目打」という名称でさまざまな史料に名前が登場します。史料を見る限り悪貨、鐚銭の代表で名前を挙げられていることから、銭貨需要に応じてつくられたものの1枚1文には満たなかった、あるいは端数調整のためにあえて1文以下の銭をつくったのではと私は考えております。結局、畿内で明銭の価値が1枚1文近くにまで上昇するのは、関東の影響を受けて永楽を基準銭に採用した織田信長が上洛する、1560年代後半を待たねばなりません。

これらを踏まえると、第9話の時点で望月東庵が一服一銭茶屋に支払った一銭は、明銭ではなく、状態の良いオリジナルの開元通宝や宋銭、もしくは堺鋳造の中国模造銭と考えてよいのではないでしょうか。

皇朝十二銭に関してはそもそも数が少ないため、庶民が状態の良いものを手にする確立は相当低かったと思われます。

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