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朝ドラ『虎に翼』に夢中な私は、透明人間ぶって生きてきた

皆さんがそうであるように、私も『虎に翼』が大好きだ。27才がNHKの朝ドラに夢中になるなんてちょっと恥ずかしいかなと思ったが気づけば推してる韓国アイドルと同じくらいの熱量を日々寅ちゃんに注いでいる。

日本で女性初の弁護士であり裁判官。法の最前線で力を尽くした女性。私とは生きた時代も功績もぜんぜん違うのに、「自分のための話だ」と思うのはおこがましいかもしれない。けれど寅子の口からは、私が社会で生き延びるために言えなかった数々の「おかしいでしょ」が放たれる。私は「そうだ、本当にそうだ」とテレビの前で首を縦にふるし、その共感の輪が、社会のなかで決して小さくないことも感じている。




『虎に翼』に出会う数年前。私はしっかりと、芯のある違和感を覚えていた。のちに「フェミニズム」という挑戦の歴史を持つ学問に辿り着くが、たとえばパートナーの前で自分の能力を下げて見せてしまうこと、護身のために服装を工夫すること、食事の席でさまざまな役割をこなすことなど、自分が「女性である」という事実だけでモヤモヤする日常に、突然おかしさを感じはじめてしまった。学問を通してその正体に触れると、心のなかで握り潰していた言葉が少しずつ生き返った。

けれどもなぜか、私はこれまでの人生で一度も「フェミニストでありたい」と口にできたことがない。なんなら思想の片鱗すら見せまいと懸命に努力した。いまになるととんだ被害妄想ゆえなのだが、寅子が場をわきまえて「すん」としてしまうように、長い長い歴史のなかでありふれた風景のひとつだったのだと思う。



寅子の生きた時代から何十年先に生きる私たちの社会では、どれだけのことが変わっただろうか。憲法14条のもと、すべての国民は平等であるべきと心から信じながら「とは言いつつ」で妥協させられた思いが、どれくらいあるだろうか。


私は、寅ちゃんが口にする、女性が女性として生きるための真っ当な主張が、あまりに現代の痛みと呼応していて鳥肌が立っている。そんでもってふと思った。私がフェミニストでありたい自分を隠し、知識も意見もない透明人間を演じる余裕なんてないほど、社会はまだ、ぜんぜん前進できていないんじゃないかと。寅子の物語の延長線上を生きるのは、この物語を「私の話だ」と思えた自分自身のはずなのに、まだ社会からどう見られるか怯えている。

ジェンダーが社会的構築物であるということを理解することは、それから逃れることが容易だということを意味しない。ジェンダーは差異化の記号のうちでも屈指の記号、歴史性と文化とをふかく背負い、その「自然性」がもっとも疑われにくい記号のひとつである。だが、だからといってそれを「運命」だと考える必要もない。

『差異の政治学』上野千鶴子 

だから本当に小さな決意なのだけど、自分自身がフェミニストでありたいということを、私以外の人の前であっても透明化したくないなとつよく思うのです。なぜなら私が隠したりまるめたりしてしまう言葉の先に、私の生きたい社会がないからだ。(そしてそれは最近よく聞く「誰かの娘だから大切にされないといけない」という家父長制の言説とはまったく異なる、「女性が女性として、弱者が弱者としてそのままで尊重されるべき」というフェミニズムの思想にもとづくことをここに示したい。)


そう再び思えたのは紛れもなく『虎に翼』のおかげなのです。大袈裟かもしれないけれど、この時代に、あのNHKの朝ドラで見れることが、現代に生きるひとりの20代の背中をかなり大きくおしていることを伝えたかった。ありがとう、寅ちゃん。100年先からのラブレターです。

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