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なんとか、3回目。高校時代を振り返ります。

なんとか3回目に漕ぎ着けました。2回目から、こんなこと書いてて、どうにかなるのかなと思いながらも、フォローしてくださってる方の記事を読んで勇気づけられ、また書いています。読みに来てくれてありがとうございます。

今日は高校時代を振り返ります。

生徒の常識を重んじる校風で、あまり厳しいルールはなく、思い出すと個性的なクラスメイトがたくさんいました。

入学当初、部活はバスケットを続けるか、演劇部に入るか悩んでいたのは、発達しすぎたふくらはぎが気になっていたことと、「ガラスの仮面」に影響され、演劇に興味が湧いていてのことでした。結局、後のキャプテンで、面倒見のいい他のクラスの女子に強引に誘われて、またバスケ部にはいりました。

先輩は全然怖くなく、練習もさほど厳しくなく、ちょっと拍子抜けしながらも、顧問の先生のやる気に引っ張られて、またバスケ三昧の日々が始まりました。

2年生になって背番号9をもらい、スタメンの背番号ではないけど、必ずスタメン入りする自分が好きでした。高校時代に初めてダークホースと呼ばれたのですが、その後の人生で何度か同じことを言われることになるとは、まだ思ってもいませんでした。

中学時代にベスト4常連の強豪校にいたチームメイトも何人かいて、やっとベスト8レベル中学出身の私は全く期待されていなかったのですが、負けん気の強さと、スピードと、どのポジションもこなせる器用さで、重宝されました。パスカットからの速攻や、フェイントからカットインでシュートを決める、またはファールを誘ってフリースローを決めるというのがメインの役割でしたが、ガードもセンターもメンバーの負傷など状況に応じて交代しました。スリーポイントシュートが導入されたのはたしか2年生の時でしたが、ロングシュートも結構決めていました。最終的には、県の選抜チームに入り、県大会優勝チームと対戦するまでになりました。

この時の県大会で優勝した商業高校には、中学時代一緒にプレーした仲間がいました。彼女は、その後もずっとバスケに関わって審判の資格をとり、最近まで全国あちこちの大会で笛を吹いていました。数少ない親友の一人です。会いたいなあ。

高校生になって好きになり、今でも好きなのは、坂本龍一さんと矢野顕子さんです。忌野清志郎さんと坂本さんが二人で歌った「いけないルージュマジック」を入口に、「音楽図鑑」をへて、「未来派野郎」のコンサートにも行きました。矢野顕子さんの出前コンサートという、ピアノ弾き語りのコンサートにも行きました。山奥の小学校の体育館で体育座りで聴いたのですが、「ラーメン食べたい」や「わたしのにゃんこ」「ひとつだけ」など名曲ばかりで、あの時にタイムスリップしたいと思うほどに楽しく、すてきな時間でした。

当時流行っていたジョージ・ウィンストンのピアノの曲も大好きでした。今でも一番好きな楽器はピアノです。実は小学校の時6年間ピアノを習っていたのですが、外で遊んでばかりで全然練習しなかったせいで、黄色いバイエルが終わらず、高校になって、もっと練習しておけば良かったと、反省しました。バスケ部のチームメイトが、練習試合で行った他校の体育館のピアノで、エリック・サティのジムノペディを上手に弾くのを聴いて、うっとり。家に帰って練習したものの、全然ダメで、がっかり。彼女はのちに県立美術館の学芸員になりました。当時から特別なオーラを纏った人でした。会いたいなあ。

当時のバンドブームに乗り遅れることなく、音楽好きの彼が結成したバンドに私もキーボードで参加しました。一応弾けるだけで十分だと言われて。チェッカーズに、尾崎豊に、BOØWYなど、当時全国の高校生が、奏でたであろう名曲の数々を練習し、何組かのバンドと一緒に、ライブハウスで演奏した時のことをあまり覚えてないのは、コーラスで歌うパートもあり、ソロ演奏もありだったけど緊張しすぎてあまり上手くいかなかったからだと思います。

嫌な記憶は忘れがちです。

いつからだろう、人前で緊張するようになったのは。小学生の時は平気だった。中学生の時も結構大丈夫だった。高校生になると、大きい試合でフリースローが緊張して決まらないことがありました。顧問の先生に言わせると、当時つきあっていたラグビー部の彼が試合を見に来ると、私がフリースローを外すと。もう見に来させるな。ということになりました。

3年生になってようやくやりたいことをみつけました。英語を勉強してそれを生かせる仕事に就きたいと言う目標です。「通訳になるには」という本を読んでいたようですが、それが最終目的ではなかった証拠に、妹に言われるまでその事を忘れていました。

友達の多くが大学に行ってキャンパスライフを楽しみながら将来したいことを見つける。と言っていましたが、私はもうやりたいことは決まったから、ダイレクトにそこに行こうと思って、英語の専門学校を探しました。大阪にもあったのですが、どうせなら東京に行こうと思い、体験入学を申し込みました。

初めての東京は、今日はお祭か?というほど人がたくさんいて、多くの地方出身者の方々が言うことですが、本当にびっくりしました。初めて飛行機に乗って、雲の上のずーっと見渡す限り空、という景色に感激し、キャビンアテンダント(当時はスチュワーデスと言ってましたが)になりたい!と思いました。ところが、体験入学で話を聞くと、とても肉体的にきつい仕事で、特に腰にくると言われ、バスケの練習で壁に激突して腰の靭帯を伸ばしてしまった身では諦めるしかないという結論に。 他には秘書科、貿易科、英会話本科などがあり、その中でも、学校が提携しているホテルのアルバイトをしながら、寮に住んで通学する制度があるという英会話本科を受けてみることにしました。

母は私が小さい時から「農家は継がなくていいからやりたいことをやりなさい」と言ってくれていて、その時も付き添ってくれました。同じB型で干支も同じで、家族の中では一番分かり合える存在で、なんでも相談していました。おっちょこちょいで、いつも鼻歌を歌っていて、ついつい根を詰める性格で、無理をしがちで… 会いに帰りたいなあ。

高校時代は思い出が多すぎて、まだまだ書きたいことがありますが、最後に初めて尊敬できると思った先生のことを書きます。古文の先生で当時もう何年かで定年を迎える女性でしたが、ある日、「先生、学校辞めることにしたの」と廊下で言われ、「どうしてですか?」と聞くと「もっともっと勉強したいことがあるの。だから学校をやめて勉強することにしたの」と。こんな年でもまだ勉強するの?と驚きながらも、なんだかかっこいいなあと思いました。先生の授業はとても面白くて、古文なんて正直人気のない授業でしたが私は毎週楽しみにしていました。授業で短歌を作ったこともありました。「わらう声 友達のかお 陽のひかり わが春の夢 ここにとどめむ」全然評価されませんでしたが、生涯勉強って、たぶんこの時からずっと思っています。

高校時代を思い出したら、もう実家に帰りたくてしょうがなくなってきました。最後まで読んでくれてありがとうございます。

次回専門学校時代に続きます。



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