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かきだす、こと

おだんごさんの初企画の投稿締切が迫っている。

投稿企画に参加することの僕なりのハードルとして、締切の要素は結構大きい。書きたいことが渋滞しているわけではないのだが、書くために無意識下でも準備していくための時間が必要なのだ。時間と書いたが、具体的には日数だったり週数だったりする。

ちなみに、締め切りは11月30日(明日!)である。

企画の内容は、おだんごさんの投稿を読んで欲しい。なるほどnoteとはこういうふうに使っても良いのだな、と思えた方にこそ、参加して欲しい企画である。

今回、この企画に参加するにあたって投稿を何度も読んだ。読めば読むほど、この贈りnoteの緊張感と温かさのバランスに唸らされた。たった一人のために書く、でもそれを読むのは多くの人である、というアンバランスさに書き手がどれだけ耐えられるか、そんな印象を受けたのだ。

具体的に書きすぎると、読み手は引いてしまう。読んで良かったのかな?と不安になってしまうこともあるかも知れない。しかし、抽象的に書いてみると書き手は満足できないだろう。その微妙な力加減が難しく、僕は書き始めるまでに数日かかってしまった。

誰に向けて書くか、どう書くか、そしてどう読んでもらうか・・

すでに書き上げた人たちの投稿を読んで感じたのは、書き手の愛だった。決して贈った相手には読まれないだろう、と前置きしておきながら、二人にしかわからない記憶を展開したり、言葉を使ってみたり、もう読み手は置いていかれるのである。それでいいのである。

マガジンには、妻に向けて夫に向けて、それはそれはふだんから書いている皆さんだからこそ、涙が出てくるような、映画のような、人生の様々な場面を見せてくれる作品が並んでいた。書いている人に会ったこともないし、贈られている人なんてもっと知らない。なのに、読み終えると自分の記憶と相俟って温かなものが残る。


先日の日曜日、意を決して参加するための投稿を書き始めた。迷った末に、贈る相手は、春に生まれた息子にした。息子のことは、具体的なことをあまりnoteには書いてこなかった。ほとんど「赤ちゃん」という呼称で登場させていたのだ。

息子の出生に関しては、きちんと残しておきたいと思っていたので、別の投稿を認めていた。しかし、まだ書き終えられていないこともあって、下書きのままだった。


話は変わるが、僕が好きな作家さんに、あさのあつこさんがいる。その方が出演されていたテレビ番組をたまたま見かけたときに、ワークショップを通じて「書くこと」の意味を語られていてハッとした。

「書くこと、書き出すことは、自分を”掻き出す”ことなんです。」

まさに、この贈りnoteは、自分を掻き出して表現している方ばかりだった。とっておきの思い出や、ふだんは口に出せない感謝の気持ち、明るい未来への希望など、書き手の中身を掻き出さなければ見つからない言葉たちだった。

僕も、その言葉を励みにしながら、贈りnoteを書いた。

3人目にして”初めての赤ちゃん”のような経験に戸惑いつつ、不安な気持ちと、別に気にしなくていいかと手放す気持ちが混ざる日々だが、大切に過ごしていきたいと思っていた。上の子たちのようにいかないことが決まっている、それを飲み込めない僕たち夫婦の緩やかな葛藤。うまく掻き出せたか分からないが、書き上げてみて不思議と気持ち良かった。

それは、今まで他人に息子のことを話してこなかったこともあるけれど、もう隠さなくてもいいか、とはっきりと思えたからだった。息子はこれから、いくつもの悪意ある視線や言葉に出会うだろうと思う。しかし、それを防ぐために親が囲っていては、きっと人間的な力が足りないままになってしまう。

もっと良くなってから、もっと大きくなってから・・は大人の都合で、いま本人はきっと普通の赤ちゃんとして過ごしたいはずだ。だから、普通ってなんだろうか、と考え続けているのである。


たった一人に向けて書くことは、とてもプライベートなことかも知れない。けれど、書き上げた時にちょっとした救いが得られると僕は考えている。その救いは、読まれることで薄れていって、やがていつもの日常に戻り、書いた時の温かな気持ちは思い出せなくなるかも知れない。

しかし、書いてあるものを読み返せば、それが自分を掻き出した作品であることは、自分自身が知ることとなるし励ましになると思うのである。

贈りnoteで、自分を掻き出す体験を、もっと多くの人にしてほしい。


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