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新しいことを始めるときは

3/24の卒業式をもって、東京外国語大学言語文化学部スペイン語学科を卒業しました。そして4月からは広告業界に進み、完全にゼロからのスタートを迎えることになります。楽しみ。
この文章は、体育会サッカー部で書いた卒業ブログからそのまま借りたものです。学生最後の5年間を振り返り、真っ先に思い浮かんだ思い出についての話。



弱い人間は、他人に期待する。誰かが自分を理解してくれること、誰かが自分の背中を優しく押してくれること。でもそれは大抵、叶わない。儚い期待をぶつけても、事はそう上手く動かない。

この部に入って1年が経つ頃、チームの広報という役職に手を挙げた。理由は、まともな照明もない土グラウンドで、暗闇のなか夜まで努力するチームメイトの姿が、もうちょっとだけ認知されて、誰かに尊敬されたっていいんじゃないかと思ったから。

それまでも、マネージャーさんが試合ごとにツイッターを更新してくれていた。だけど、新しく設けられた広報という役割が、それ以外にどんなことをするのか誰も想像できていなかった。それでも、何もかも未経験の自分には方法などさっぱり分からないけども、「このチームをこんな風に見せたい」というイメージだけは、ぼんやりながら明確に頭に浮かんでいた。

それでもたしかに、不安な感情はわずかながら心にあった。それは、部にとって初の取り組みを、この自分の脳内に広がるイメージだけを頼りに進めていくことに対する不安。もし、誰かが自分の想像に共感し、面白そうじゃんと言って行先不明の列車に乗り込んできてくれたら、と淡い期待を抱いた。

でも、現実はそう上手くいかない。暗闇を進もうとする列車に飛び乗ってくるやつも、実現の方法すら分からない勝手な妄想を聞いて前のめりになってくるやつもいなかった。

そして、誰がお気持ちで差し出してくれるやんわりとした肯定の言葉を押しのけて、喉に刺さった棘のようにいつまでも心に残ったのは、誰かが無意識に放った冷やかしの言葉だった。負のパワーを持った言葉は、他の優しい言葉たちのなかで痛烈に光る、とは誰か同じことに苦しんだ先人の表現だけども、まさにこれ。

ひとり取り残された気分だった。そして自分は、もしかすると多くの人と同じように、物事の進捗とか思考の進展とか何やらを、いちいち誰かに聞いてもらいたい衝動に駆られる。それが思い入れのある目新しいプロジェクトのことなら、なおさら。だけど、ただひたすらにそれを我慢して、自分と向き合うしかなかった。誰かに口を開いてしまうと、必ず自分が傷つくから。

本当にどうしようもないものと戦っていたなと思う。それでもたぶん、新しいことを始めるときは、目に見えるものを作り、周囲に行き先を照らしてみせ、脳内の想像が妄想ではないと信じてもらうまで、自分ひとりで戦うしかないんだと思う。これからの人生でも、なんとなくまた同じような苦しみと対峙することになる気がする。それでも、次は今回ほど苦しまずに済むかもしれない。

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