はじめまして

渡邊萌奈です。エジプトと日本のハーフです。歌を歌っています。昨年4ヶ月間外国を旅して感じた途方もない感情や、日々感じる何かを未解決なまま提起していこうと思っています。
一発目の投稿に自己紹介がてら、旅で強く気持ちが掻き立てられた瞬間を羅列したものを、下記に載せます。それでは何卒。

〈長いです。途方もないことについて〉

今朝もたまたま911同時多発テロの映像や巻き込まれた人が最後に遺した音声を観る機会があった。生きていく上で遠くのことに気を揉むことは実生活とのバランスが大切だよなと思うけど、知ることと自分の延長線上にそれらを感じることは絶対に必要と思う。

エルサレムでよくしてくれたパレスチナ人の男の人は、イエスキリストが処刑地のゴルゴタの丘まで十字架を担いで歩いたとされる ヴィアドロローサー悲しみの道 にある教会のそばで飲食店を営んでいた。壁には娘や奥さんやお母さんの写真が貼られていた。何度目かの食事に招いてくれたとき、そのみんながイスラエルとの攻防で亡くなったことを聞いた。彼の右手の親指の付け根には、涙を流した目のタトゥーが彫ってあった。どれだけ時が経って今笑っていても、心のどこかに消えない悲しみがある象徴だと思った。

パレスチナ自治区の中で、もう観光客は立ち入れないガザ地区を除いて、今一番イスラエルとの状況が緊迫しているヘブロンという街に行った時のこと。ユダヤ民族のはじまりであるアブラハムおじいさんのお墓のあるモスクがあって(つまりユダヤ教にとって重要、かつユダヤ教の聖典を旧約聖書としているキリスト教にとっても〈キリスト教の聖書には旧約聖書と新約聖書の二部があり、新約聖書がイエス以後のもの〉更にその二つの系譜にあるイスラム教にとっても大事なところ)そのモスクは今、半分はモスクとして、もう半分はシナゴークとして使われている。そのモスクをきっかけにして、本来パレスチナに与えられているはずの土地に、たくさんのイスラエル人が移り住んでいて、パレスチナ側に嫌がらせをすることがとても大きな問題になっている。そのモスクへ通ずる大きな道にはかつてパレスチナ人が住んでいたが、いまはイスラエル側に制圧されて廃墟の並ぶゴーストタウンになっている。つまり街が分断されていて、両者が自由に行き来出来ず、その境目のあらゆるところにチェックポイントがある。そのゴーストタウンへ足を踏み入れて、イスラエルの若い兵隊に道に迷ったふりをして話しかけた。もちろん自分にとってもこの状況は苦しいこと、でも自分の国のために宗教のためにやるしかないと言っていた。その通りの一角にイスラエル人の女性が営んでいる飲食店があって、いろんな地区に派遣される中ガザ地区に行った時には命の危険を感じたが、ここに来ると安心すると言っていた。その女性は以前にパレスチナ人によって親族を殺されたから、自分たちを守ってくれるイスラエル兵の助けになることをしたいという気持ちでそのお店をやっているとのことだった。

そこからパレスチナ側に戻ってすぐ話しかけてきたおじさんは、以前に間違ってこちら側に入ってきたイスラエル人の兵隊を、イスラエル側へ送り届けたことがあるとのことで、イスラエルの新聞に載ったと言っていた。

私のイスラエル人の友達は、もちろん心が痛んでいるけれど、あまりに根深くて本当に難しい問題と言っていた。

難民キャンプに住んでいるパレスチナ人のおじさんには、ムスリムにならない限り地獄に行くのだと言われた。

イスラエル最南端エジプトとの国境沿いにあるエイラートという街で泊まったホステルのオーナーは、主要な聖典をすべて自分で読んだ上で、どの聖典も時々の利権で弄られていて、どれもこれもくそだ!って言っていた。ホステルには彼が製作したたくさんの絵や人形たちが飾られていた。キリスト教、仏教、ユダヤ教、イスラム教、ヨーガ、あらゆる土地の叡智のシンボルが一緒に描かれている絵が印象的だった。

セルビアの首都ベオグラードで泊まったホステルのドミトリールームの私の隣のベッドには、片足のないおじいさんが長期滞在しているようだった。彼が眠るときにベッドの横に置かれる義足。ユーゴスラビアの紛争を目の当たりにした気がした。あのにおいとあの咳。

そのホステルにいたセルビア人の若者は、数年後には自分たちもアルバニアとの戦争で戦うんだって冗談めかして笑ってた。(セルビア南部にはコソボと呼ばれる自治区〈になるのかな〉があって、彼らは一国を主張しているがセルビアには認められておらず、すぐそばにあるアルバニアと同じ言葉を話し、合併したいとのこと)

そのホステルにはセルビア人、モンテネグロ人、ロシア人がいて、みんなおそらくそれぞれの言語で話してるのに通じてるのが印象的だった(どれもスラブ語族)

ブタペストのホステルで出会ったウクライナ人の男の子は、ウクライナ国内の東西の紛争で家族を亡くしたこと、そして国の酷い状況について教えてくれた。

スペインからの独立を目指しているカタルーニャ人の男の子と、スペイン人の男の子は、楽しそうにじゃれあっていた。
バルセロナに住んでいるオランダ人の男の子は、理路整然とその独立運動のむずかしさを語ってくれた。フランス人の友人もその彼もその動きには反対のようだった。

黒人やアラブ系の移民が多く、治安がとてつもなく悪くなっていることや、GDPの低下、フランス語が話せない多くの人間がフランスにいることを、フランス人の友人は嘆いていた。日本の移民受け入れの厳しさを彼は褒めていた。私はそれまで先進国の中で日本の移民政策がとてつもなく厳しいことを知らなかった。その移民の人たちの苛烈な日本での暮らしも知らなかった。(興味ある方日本にいるクルド人について調べてみれば情報出てくるはず。もちろん彼らだけじゃない)

たまたま出会ったドイツ人の女の子は、数年前までドイツも移民への政策が追いついていなかったけれど、最近はドイツ語の講座も追いついてきて、だいぶ状況が落ち着いてきたということを言っていた。日本で外国人が日本人として生きている姿を私は見たことがないし想像ができない。みんなは?

アウシュビッツ強制収容所に行ったときには、施設のあまりの巨大さとその効率の良さに、時間が経つに連れて無感覚になっている自分がいた。イスラエルの国旗を背中に背負って入り口の列に並ぶイスラエル人を見た時の複雑な気持ち。ベルリンの壁の跡地に惜しみなく展示されるパネルから感じるもう絶対にこんなことは起こさないっていうドイツの姿勢。

セルビア北部のノヴァサドという街にいた路上のバイオリン弾きのことが気に入って、おそらく現地通貨では結構な額の投げ銭をした翌日に、たまたま再会して昔の城壁が遺るエリアに一緒に出かけていったときのこと。観光地だから少しいいレストランがあって、そこでワインをのもうご馳走するよと誘ってくれた。薄汚れた彼をみるアイロンのしっかりとされたシャツを着たウェイターの目。汚れた爪とバイオリンで稼いだくしゃくしゃのお金を掌に広げて総額を見積もる様子、その中で一番大きなお札は私が昨日あげたものだった。彼の前で日本の歌を歌ってみせたときに、きみには自分の歌があるでしょ?って言われた。わかってくれたことがなんでか切なかった。別れ際の最後の握手。目から伝わる好意、強まる雨に濡れた服の重み、少し歩いてから振り返って去ってく彼を見たときのこと。その町を出るバスの中で泣いた。これからどうなっていくんだろう?って一生知り得ない物語を想像して泣いた。やるせなくてさみしかった。

貧乏で大変だけど人々の繋がりが強くて孤独を感じにくいムスリムの社会。道ですれ違っただけなのに家に招いてくれる人たちの狭間一人になりたい、私の気持ちは絶対に分かり得ないだろうって思ったのは事実だった。反して小雨降る大都会ロンドンで、自分に話しかけてくる人が誰もいないことも寂しかった。
生と死、違い、無い物ねだり、不平等、途方もない気持ちになる。
でも少なくとも肌で触れて知れたことを、自分の延長線上に感じることが出来たことを嬉しく思うし、こうして日本語で、同じ社会的なバックグラウンドを抱えて育ってきた友人たちに、こうして日本語で伝えることができることを本当に幸福におもう。
目の前にいる人のことですら途方もない気持ちになるのにね。すごく小さなことで嬉しくなったり悲しくなったりもするのにね。遠くの人なのに伝え合って暖かくなったり、すぐ隣にいて触り合ってすらいるのに遠く感じたりもするのにね。

ハーフに生まれてよかったなっておもう。どこにも属してないような気持ちで生きてきたから、出来れば色んな人のその人の思う正しさにのっとって物事を見てみたいって思えるから。その上でどこにも加担しないことが自分にとって大切に思う。

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