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忘れられない彼との物語。

今日、私は急いでいた。

広いショッピングモール内で場所の知らない目的地に向かい、足早に歩いていた。
目線は常に斜め上、誰もがその場所を見つけられるようにと、数十メートル間隔で設置された矢印を追っていた。

目的地は直ぐに見つかった。
中に入るために、外まで続いていた列の最後尾に私は並んだ。平日だというのに運悪く混んでいた。

それでもほとんど待つことなく順番は回ってきた。
選ぶことは許されなかった。一つポカリと空いたその空間に私は向かった。
そこに足を踏み入れた瞬間、見知らぬ誰かの残した香水の香りが鼻腔をかすめた。
そしてそのすぐ直後、香水の隙間から、異臭を感知した。
その異臭は自分のものと違う、異文化を感じるものだった。香りから想像した物体への揺るがない確信に若干の恐怖を感じた。

嗅覚の信号は直接脳に送られる。あっという間に脳から指令が下され、動く眼球。

見たくない。
そう心が叫んでも、身の危険を察知した脳の命令は絶対だ。

身を守るんだ、まっ子。

本能が目を閉じることを拒んでいるため、手で鼻を覆うのが精一杯だった。個室の中にあった、白い器の中へと視線が動いていく。

その中に、彼がいた。
初対面だと言うのに、臆することない堂々とした態度。
器の中から強烈な圧力をかけてくる佇まい。

そう、うんこだ。

芽生えた恐怖心。
大人しく水中で身を潜めているのは今だけで、目をそらしたら襲いかかってくるかもしれない。

さっきまで強烈に感じた尿意は完全に失われていた。
トイレの個室の鍵をかけ、ドアに寄りかかり自分を落ち着かせた。

見知らぬ彼をどうしたらいいのか。
私のすべき行動はなんだ?
導き出されたアンサーは一つ。
彼をすくいあげる。だ。

間違えた、流すだ。

便器に一歩近づく。
ここまで、私はいちどもは彼から目を離してはいない。彼の真上を越えた右手が便器の後ろにある洗浄ボタンに触れた。真下に見えた初対面の彼。

…なんて立派なんだろう。

多少凹凸感はあるものの、全体的にツルリとしている。
先端が細くなっているということは、肛門を拭く負担の少ない、親孝行なタイプ。
なんて美しいフォルム。

そして思考は広がっていく。
最後にこんなに立派な私の彼と対面したのはいつだろう。
それにしたって、こんな大きさに対応できるの肛門のポテンシャル、感動だ。

そんなことを考えていると、また異臭を感じた。
我に返り、洗浄ボタンを押そうとした瞬間だった。一つの疑問が頭に浮かんだ。

なぜ彼は丸裸なんだろうか。
生み出された時に肛門に残されたであろう彼の一部を拭いたトイレットペーパーがないのは何故か。

永遠と洗浄ボタンを押せない右手が、行き場をなくした。

とりあえず、深呼吸だ。
すぐに肺いっぱいに吸い込んでしまった異臭に吐き気をもよおした。

でもここで立ち止まっている暇はない。
私は脳に問いかけた。なぜ、便器の中にあるはずの使用済みトイレットペーパーがないのだろうか。
脳からいくつかの仮説が返ってきた。
目には見えない微弱な水の流れに、軽いトイレットペーパーだけが、流されてしまったのか。
もしくは、トイレットペーパーではない別のものを使用した?
いや、まさか、全く拭かなかったというのか!
それとも、使用済みトイレットペーパーを持ち帰った?でも、何のために?

特定の人・物についてある程度深く思考すると、急に好意を持ってしまうのは私だけだろうか。例えそれが、うんこでも。

生みの親にきちんと向き合ってもらえなかった彼が急に哀れに思えたきた。捨てられたんだね、君は。
しかも然るべき対応もしてもらえずに。

彼への嫌悪感は消えた。
吐き気さえ感じたくせに、彼に同情さえし始めていた。
そして哀れな彼を愛おしく感じ、言葉をかけた。

「君を産み出す為に私たちは食べてるんだ、君に合うために、三大欲求の食が存在するんだ、君が私の生きている証なんだ」

人間は滑稽だ。うんこするために毎日せっせと食事をとっているんだもの。

「お疲れ様」

誰かの努力の結晶、生きる証よ、さようなら。
そっと、右手で洗浄ボタンを押した。

目の前から彼が消えた瞬間。
見計らったように、再び尿意を感じた。
冷たい便座に座わり、私の生きている証を出し切った。
そして手を伸ばした先、そこには、トイレットペーパーが、無かった。

脳裏に浮かぶ、さっき流した彼の姿。
生みの親は、拭かなかったんじゃない。拭けなかったんだ。
彼の親もまた辛かったのだ。ああやって息子を葬ることしかできなかったのだもの。

彼の物語を完結できた喜び。これで彼も報われる。

そして気がついた。

トイレットペーパーなしで、どうやって私は私の物語を完結すればいいのだろうか。



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