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世界を動かす子供

「月がきれいだねぇ」
隣を歩くタカシから返事がないことは、ユミコが一番知っている。彼にはがどうであろうと何の意味ももたない。
それでも橋の向こう側にある駅の屋根の上に細くはかなげにかかる三日月をみると、口に出して言わないと勿体無いような気がする。

10月も半ば、夕方の5時過ぎにもなると、歩く人間が影絵に変わっていく。そしてそれは深呼吸をし終える頃には人も風景も輪郭が暗闇へと消えていくのだ。その一瞬の神秘を口に出してしまうことは無意味。それでも、それを口に出してしまうというミスを繰り返す人間はどこにでもいるものだ。

ユミコは輸入雑貨を取り扱う「高丸商事」の総務部に、タカシは企画部門に勤めていた。今日は土曜日の休日出勤で2人の帰りが同じ時間になった。
流通団地から駅へと架かる橋の下には、車両専用道路が走っており、南側と北側の異世界を危なっかしくも繋げている。

駅前にはブティックと見間違えるような品のいいスーパーが構えており、両隣にはブランド品を扱う店が並んでいた。
広めにとられた歩道にはレンガが敷きつめられ、等間隔に並ぶ街路樹の下にベンチがおかれている。ごみひとつも落ちてはいない。

ユミコは、会社からの帰りに、橋の手前でいつも小さく深呼吸をする。橋に一歩を踏み入れるためにそれは必要なことだった。

「お姉さん」
ユミコの足元で声がした。
女の子1人と男の子2人の小学生が座り込んだままユミコを見上げている。3人とも駅の向こう側にある有名進学塾のカバンを背負っていた。
「わたし?」
自分の顔を指差して聞いてみる。
ベージュのタータンチェックの上着に黒いスカートをはいている女の子が頷いた。
「どうしたの?」
タカシは、座りこんだユミコをチラッとみてから、その場に立ち止まり、ズボンのポケットから取り出した携帯電話の画面を見ながら指を動かし始めた。

神戸育ちのタカシは紺のスーツを着こなし、長い足を見せる立ち姿をよく知
っている。

ユミコは子供たちの輪に加わるように座り込んだ。3人のひざを着き合わせてできた輪の中には、黒い子猫がよたよたと今にも倒れそうな足を踏ん張ってミーミーと、か細い声を出していた。
「この猫貰ってくれませんか?」女の子はユミコをみて言った。
「あゆみちゃん……」                                     
肌の白い男の子が小さな声で何か言いけたが声はそこで止まってしまった。グレーのカーディガンを着た男の子はひざに肘をつけて、あわせた手首から開いた両手で頬をつつむようにしたまま目を閉じていた。

「捨てられたのかなぁ」
ユミコは子猫のあごに指を持っていき、何回かなでてみた。
子猫は指に顔を摺り寄せてくる。右目に目やにが固まってつぶれていた。それだけでみすぼらしく見える猫は誰にも抱き上げられないのかもしれない。
女の子はユミコの顔をじっとみている。男の子達は、固まっているかのように動かない。

「いいよ、猫好きだから、きっと仲良くなれるよ」
「よかった。お姉さんやさしいんですね」
 女の子はにこっと笑って小さな声で言った。
「じゃあ君たち、この子の名前付けてくれる?」
ユミコの申し出に、女の子がすぐにこたえた。
「マモルでいいですか」
「マモル……そうか、そうだね、マモルにするよ」
そういって、ユミコは子猫を抱き上げて、お弁当箱を入れていた布の袋にそっと入れた。
「あなた達も、もう家に帰りなさいね」
 立ち上がった三人に軽く手をふった。3人は黙ったまま背を向けて歩き出した。

「なに、猫なんて拾ってんだよ。どうするんだよ。そんな汚いの家に連れて帰るのか?」
タカシは、目を細くしてあご少ししゃくり、ユミコが大事そうに胸元に抱きかかえた袋を見下ろしている。
「その猫連れて帰るんなら、俺、今日ユミコんとこ行くのやめるわ」駅へと体の向きを変えて足を速めた。
ユミコはタカシに聞こえないように、小さく息を吐いて、タカシの後を追った。

薄手の緑のカーディガンに膝丈のスカートをはいたユミコには、その子猫が胸にほんわりと暖かかい。

就職を機に徳島から出てきて小さなワンルームマンションで独り暮らしを始めてから3年目だ。仕事に慣れることよりも、要領よく立ち回ることができる同僚達に慣れることのほうに時間がかかった。同じように要領よく立ち回ることはできないが、なんとか自分のペースがわかり、仕事に向き合えるようになってきた。
タカシが会社帰りに寄って帰ることにも慣れてきたところだった。
それでも、それなら猫は連れて帰るのをやめるとは言いたくなかった。

火曜日、ユミコは橋の上であのあゆみと呼ばれた女の子を見かけた。
長い髪の毛をポニーテールにまとめていて、その毛先はテンポよく揺れていた。
女の子の少し後ろに、あの時一緒にいた色の白い男の子とグレーのカーディガンを着た男の子が続いていた。

「ねぇ、君たち、あの猫、マモル元気だよ」
ユミコは左手を口元に持っていき、右手を振って大きな声を出した。
3人はユミコを見て立ち止まったが、女の子だけが一度だけにっこりと笑い、そのまま歩いていった。

次の日、橋の北側であゆみが立っていた。
「お姉さん、この猫貰ってくれませんか?」
女の子はみすぼらしい白い子猫を差しだした。
ユミコは暫く声が出せなかった。

あゆみの後ろ、というより、後方2メートルくらい離れているところにグレーのカーディガンを着た男の子が自分の足元を見つめて立っていた。それはただ立っていた。全く身動きはしていなかった。

ユミコは橋を渡る前にするように小さな深呼吸をした。そして、ひざに両手をあてて、目の高さをあゆみと同じにして、できるだけやさしい声を出した。

「あゆみちゃん、おねえちゃんは猫が好きだけど、この前も貰って帰ったしね。小さなお部屋だし、何匹も飼えないのよ」
ユミコは、手を出して白い子猫をなでようとしたが、猫の体に触れる前で止めて自分の体へと戻した。

あゆみはまっすぐにユミコを見ている。
「お姉さんはやさしいでしょ」
ユミコの話しなどなんの意味ももたないというように猫を差し出している。
「ごめんね」ユミコは視線を下げて言った。
あゆみは黙っていた。子猫を抱いたままの手を引き戻しはしない。じっとユミコを見ていた。
「ほんとうにごめんね」
何の反応を示さないあゆみに、これ以上、出てくることばがなかった。

「ごめんね、今日急ぐから帰るね」
何度、ごめんて言うんだろう。
何も答えないあゆみに背をむけて、小走りで数歩離れたユミコは「ギャッ」という声を聞いた。

振り返ると、去っていくあゆみと、その後を早足で追いかけるグレーのカーディガンの男の子の背中が見えた。そしてさっきまで立っていた場所には、白い子猫が顔を地面に押し付けたままミャァ、ミャァと鳴いていた。

「うそ……」
ユミコは駆け寄った。
「うそっ、違うよね」
さっき聞こえた「ギャッ」という声が頭から離れなかった。

ユミコは子猫を抱きかかえて駅へと歩き出した。
今日タカシは外回りが長引き、直帰になるそうで、一緒ではなかった。ユミコはそのことにほっとした。こんな場面を見られたら、何を言われるか分からない。
あの日、子猫を連れて帰ってから、タカシはユミコの家に寄らなくなった。猫に見られていると落ち着かないというのだ。

木曜日、ユミコは会社を休んだ。昨日連れて帰った白い子猫を病院へ連れて行った。前足を捻挫していると診断された。
「猫が捻挫なんてねぇ」
70はとうに過ぎていると思われる先生は、つぎのあたった白衣を着て淡々と話す。緑のシートが貼られた診察台の上で鳴きもせずにじっとしている白い猫は目を閉じたまま震えている。診察室の天井近くに付けられた換気扇が、小さなごみでも絡めているのか、からからと音をたてて回っていた。包帯をきつめに巻いた前足は痛々しかったが、子猫は小さな箱の中で丸くなっている。

金曜日、ユミコは仕事に集中できなかった。耳の奥で、あのときの「ギャッ」という声が、あゆみの顔と混ざり合った。
背中から肩に力が入って、その後ぞわぞわっと腕から足へと寒気が走った。今日中に仕上げなければならない各部署の物品購入報告書の作成も、何度か手を止めて、いくつかのミスをしてしまった。

ユミコが残業を終えて会社を出たのは、9時を少し回っていた。
門扉は、人が1人抜けることが出来るだけの幅まで閉められていた。
「高丸商事」は流通団地の入り口に位置しており、門を右に曲がるとすぐ橋が見える。

ユミコは門扉をすり抜けるとき薄手のコートの襟を合わせた。今夜はいつもよりひんやりと体に感じたからだ。早く家に帰りたかった。
足を早めて植え込みを曲がったところで子供の影が見えた。

「わっ」声がでた。
あゆみはにっこりと笑ったと思う。あたりの暗さでははっきりとは見えない。
「この前の猫、コウタって名前なのよ」
あゆみの声はしずかで、昨日のことなど何も無かったように話をする。
「そう」
ユミコはその二文字のことばをかろうじて出した。

そういえは、あの猫の名前をつけていなかった。白い猫を連れて帰ってマモルの箱に入れたとき、マモルはすんなりと同じ境遇の子猫を受け入れた。病院から帰った白い猫は、包帯を巻いた前足を隠すようにそっと体の下に入れていた。どちらも、ほとんど鳴くことはなく怯えた目をしている。お互いに寄り添い、小さな舌で毛を舐めあいながら、丸まって寝ているのをずっと見ていた。名前をつけることなど考えも及ばなかった。

「お姉さん、この猫貰ってくれませんか」
今まで胸に抱いていたのだろう猫を差し出した。その猫は聞こえるか聞こえないような声で鳴いたのだと思う、かすかに口をあけた。色は黒っぽいが、
真っ黒ではないようだ。

「あゆみちゃん」
ユミコは後ずさりした。
「あゆみちゃん、無理よ」そのまま背を向けて橋へと急いだ。
危うい橋は揺れて、消えてしまいそうだった。

「お姉さん」
 橋の真ん中まで来たとき、女の子の叫ぶような声が聞こえた。ビクッと立ち止まり、ゆっくりと首を後ろに回したとき、ユミコの顔を確認してから、橋の入り口付近で立っていたあゆみが、子猫を橋の外側に高く放り投げた。猫は街灯に照らされてグレーの体をくねらせながら車両専用道路へと落ちていった。

ユミコはどうやって家にたどり着いたか覚えていなかった。
橋が揺れて、自分自身も溶けてしまうのではないかと感じた。

声をだして叫んだのだろうか、声も出さずに目を覆ったのだろうか。歪んだ時間をすり抜けて家まで帰ってしまったのだろうか。

ドアに体を持たれかけさせて鍵を開け、靴を脱ぎ、そのまま子猫達が寝ている箱を抱きかかえて泣いた、声をだして泣いた。マモルとコウタは鳴きもせず、寄り添うように丸まっていた。どちらもきゅっと目をつむり体が小刻みに震わせていた。ユミコの泣き声は小さな部屋の中でばらばらと崩れ落ちて、ユミコとマモルとコウタを埋めてしまう。

土曜日、会社は休みだったがユミコは夕方に会社のある駅まで出かけていった。駅南側にある進学塾に行くためだ。

白いタイル張りの建物の1、2階がその塾のフロアらしく、ガラス張りの入り口を入ると、制服を着た受付の女性が笑顔で迎えてくれた。

白とグレーを基調にした内装で、黒い受付カウンターの両側に廊下があり、その奥にやはり黒い教室のドアが2つずつ並んでいた。
「あゆみちゃんと言う女の子に会いたいのですが、多分、5年生か、6年生だと思います。授業は何時くらいに終わりますでしょうか」
ユミコは丁寧に伝えた。
受付の女性はユミコの名前を聞いてから、目の前のパソコンに打ち込みをした。
「少々お待ち下さい」
受付の女性は、笑顔を崩すことなく、受付の前にあるソファへ掛けて待つように言った。

ユミコは勧められるまま、ソファに座って待っていた。
子供たちがたくさんいる建物とは思えないほど静かだった。

受付カウンターの奥の扉が開き、黒いスーツを着た、やせた男性が出てきて、ユミコに軽く頭をさげた。
事務局長と名乗る男性は、生徒には保護者から申請の出ている方以外とは会わせることが出来ないと説明を始めた。丁
柔和な物言いだが、こちらの言い分など一言も聞かないという意思が十分に読み取れた。

ユミコはどうしたらいいのかと思いあぐね、すぐに立ち去ることはしなかった。
それをみて、事務局長は受付カウンターのほうを向いた。
「お願いします」
その言葉が合図のように、廊下の手前に置かれていた観葉植物の後ろから、警備員が1人出てきた。

「分かりました」
深くため息をついてユミコは出て行こうとしたが、警備員はぴたっと寄り添ったままだ。事務局長は早々に受付の奥にある部屋へと戻って行った。

警備員は、若いユミコをみて気を許したのか「悪いね」と前をむいたまま話した。
「最近変なことが立て続けに起こったんで、事務局長も気が立っているんだ」

磨きぬかれたガラスドアを開けて外に出た。何ものからも遮断された建物からは別世界のように、動いている空気が体の中に入ってきた。ずっと建物の中に立っているだけの警備員は背伸びをしながらユミコの後ろをついて歩く。
「変なことって?」
 ユミコは立ち止まり、後ろに向きを変えて聞いてみた。

「昨日、生徒の1人がそこの橋から落ちて、車にはねられたんだ。なんであんなところから落ちたのかがわからん」
「それって、きっとあゆみちゃんて子に関係あるのよ。私見たの、あの子が突き落としたのを」ユミコは警備員の腕をつかんで訴えた。

「えっ、なんて言った」警備員がユミコに聞き返したとき、塾の前に高級外車が止まり、あゆみが降りてきた。
「あゆみちゃん」ユミコは、あゆみに近寄ろうとしたが、警備員に両腕を後ろから掴まれて身動きできなくなった。
「離して、あの子に聞いてみて。あの子が突き落としたのよ」
「なに言っているんだ。さぁ、向うに行ってくれ」
警備員はユミコを駅のほうへ連れて行こうとする。
その横をあゆみがすり抜けていく。
「月がきれい。なんていうからよ」
 ユミコを見てにこっと笑う。
「何で! 何であんなこと……」
「月がきれいでも、生きることになにが関係あるのよ、関係ないじゃない」
ユミコがその言葉を聞き終えたときには、あゆみはもうガラス戸の向う側に入っていた。

「あの子は特別なんだ。変な言いがかりをつけちゃ、あんたが警察に捕まっちまうぞ」
あゆみが建物の中に入ってしまったせいか、警備員は力を緩めてくれた。

「あの子は、この塾でもダントツに出来るんで有名なんだ。
日本でもダントツに違いないらしい。ああいう子が、大きくなって世界を動かすんだって事務局長はいつも自慢している」

ユミコはあゆみの姿が見えなくなった透明なガラスの向う側の空気が動かない世界の奥を見つめていた。
「さぁ、もう帰ってくれ。俺も中に入らなきゃ、いつまでも外にはいられない」
警備員は、そう言ってユミコから手を離した。
「その前は男の子が2人もいなくなったんだ、あの子達も頭のいい子だったのに、そりゃ事務局長も慎重になるさ」
そう言いながら、向きを変えて建物のほうに歩いていった。

ユミコはあゆみが入って行った黒い扉から目を離さずに警備員に声をかけた。
「待って、ひとつだけ教えて」
「何を?」
「いなくなった子供の名前」


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