正式

今朝、飲んだコーヒーが口に纏わりついて離れない。口の中を洗い流したい思うけど電車の中にいてはどうすることもできず僕はただ電車が停車するのを待っていた。小田急線のアナウンスは海老名に着くことを伝えている。一旦、降りて水でも買おうかと腰を上げようとしたたら横に座っていたおじさんが僕に向かって喋りかけてきた。
 「人との付き合い方がわからないんだ。」おじさんが何か語り始めていた。見ず知らずの人間に急に話しかけるような人間だから、人との付き合い方が分からないんだよ。そんな感想しか出てこなかった。けれどおじさん声はとても小さな声で死んでしまったような、消えてしまいそうな、か細く綺麗な声で僕の中にあったおじさんの嫌悪感を無くすくらいには魅力的だった。「人との付き合い方がわからないんだ。」おじさんは僕に縋るようにもう一度、一回目よりも小さく呟いた。
 おじさんはフードを被っていて顔はよく見えない。煙草臭くてなんだか死んだ祖父を連想させ懐かしい気分になった。
「中学の友人も、高校の友人も気づいたら周りからいなくなっていた。君にこんなことを話しているが、僕は君がいつ僕から離れてしまってもおかしくないと思っているよ。」
 
『扉がしまります、ご注意下さい。次は相模大野に止まります』アナウンスが流れた。扉が閉まりかかっているというのに僕は扉が開いていたことにも気づかなかった
 
外は暑く、七月の初めにも関わらず、三十五度を超える猛暑日だった。電車の中にいても、蝉の鳴き声が鬱陶しく耳にちらつく。夏が始まる前の六月、蝉の声を僕も世間も待ちわびたのにいざ鳴き始めると鬱陶しい存在でしかない。
サラリーマンが汗だくになりながら駆け足しで乗り込んでくると扉は一旦開き、『駆け込み乗車はおやめください』と注意されていた。すこしの間があって僕とおじさんは目を合わせて一緒に笑った。
 海老名から相模大野は四駅吹っ飛ばし進んでいく。街の景色は一瞬で姿を変えてゆく。景色が一瞬で歪んでは新しい景色が姿を現し同じように歪んで後となり、視界から消える。「人間関係もここまで、振り切れてしまえばどんなに楽なのだろうか。」おじさんはふと呟いた。
 見捨てられる駅はどんな気持ちか、小田急線の快速急行と急行は考えたことがあるのだろうか。考える訳がない、無機物なのだから。あと少しで、相模大野に着いてしまう。
 「そうだな、僕には生きる理由がない。言わずもがな生きる意味もない。理由と意味二つとも同じ事だと君は思うかもしれない。だけど、僕は違うと思う。なんだろうね、僕の感覚でしかないんだけどこの二つはきっと大きく違う。」
 相模大野についてしまった。扉の開く音がする。「僕たちは降りなきゃいけない。」聞き返す間もなく、おじさんは歩きだした。「快速急行に乗り換えなきゃ、時間がもったいないからね。」おじさんは優しく言った。
 「相模大野と町田はなんでこんなにも近いんだろうね。君わかる?まぁ、そんなことは些細な事だからどうでもいいね。」小田急線快速急行は相模大野駅を出発する。
「さて、話の続きだ。生きる理由と意味がどう違うのかということだね。僕はこんなふうに考えているんだ。人間みんな生きる意味なんてないんだよ。これは仕方のないことだ。どんなにスポーツが出来ても、どんなに賢くても生まれてこなきゃ、そんな人間生まれなかった。おかしな文になっているね。でも、考えてみてほしい。野球の才能がある人が素晴らしい成績を残す、頭の良い人が学者となりノーベル賞を取るような功績を残したとする。だが、そもそも彼らが生まれてこなければ素晴らしい成績も功績も存在しなかった。そんな成績や功績が存在しなくても日々は関係なく続いていて人は生きていくことができる。だから、人間が生きたとこで何の意味もないと僕は考える。けれど、忘れないでくれ。生きる意味がないからと言って僕は自殺を肯定したり、促したりしている訳ではないんだ。むしろ、自殺に対して否定的な感情を持っていた。死んでしまったら無になる。そこには何も無い。だから、人生が無意味だとしても生きていかなくては行けない。そう思っていたんだ。そうなんだけど最近、無駄に日々を消費しているうちに人生に飽きてしまった。人生に飽きてしまったことに僕が気づいた時、僕が生きる理由なんてないのだと悟った。まぁ、こんなんが生きる意味と理由について僕が話すことだ。君は生きる理由はなんなんだい」
小田急線はゆっくりと減速していき、定時刻、定位置で新百合ヶ丘に着いた。
 僕が生きる理由はなんなのだろう。しっかりと考えた事は今までなかった。「わかんないな―」とか言っておじさんの問いを適当にあしらうのは違うな。身体の反射と同じように思考よりも先に僕の口は動きだした。
「僕は生きていたいです。上手く言語化出来ないし理屈ではないんですけど、とにかく生きていたいんです。死んだら家族や友達が悲しむし、飼ってる猫に会えなくなるから。」
 おじさんはとてもやさしい顔で笑った。小田急線は新百合ヶ丘を出発する。徐々に加速する電車はホームを抜け、おじさんを午後の日差しが照らした。曇っていて、よく見えなかったおじさんの顔を午後の日差しは遠慮も配慮もせず照らす。ようやく見えたおじさんの顔は疲れていた。
「おじさんはもう死んじゃうの」直観として僕が感じた問いにおじさんは、腕を組み考え始めた。「死ななきゃいけないんだ。いろんな人に迷惑をかけた。さっき、あんな風に人生の生きる意味と理由の違いを偉そうに君に語ったことを誤らないといけない。僕は高尚な人間ではない。人生論を記す哲学者でもない。だが、そのどちらにもなりたかった。人に尊敬されたかった。負け続けた僕はどこかで、挽回しなくてはいけない。世間に認められ、僕が哲学者になろうとした夢を馬鹿にした人を見返したかった。夢を応援してくれた両親、支えてくれた妻に恩返ししたかった。だが、両親は死んでしまい、妻は家を出ていった。もう、叶えられそうにない。」
おじさんは泣いていた。僕は静かに窓の外を眺めた。ここまで語ってくれたおじさんに僕が労いの言葉を掛けた所ですべて偽物の言葉として聞こえてしまう気がして何も言えなかった。
窓に、下校する小学生が写っている。この集団の中にも、悩んでいる子供がいるのかもしれない。いつから、ランドセルの色はこんなにカラフルになったのかな。おじさんが齢を取っているのと同じように僕も歳をとっているのだ。
 おじさんの目にはまだ、涙が残っている。「情けない姿を見せてしまったね。ごめんね」また、優しく笑った。
「そんなことないですよ。おじさんは情けなくないし、強い人ですよ。」
「そうなのかな。もう、何年も、負け続けてきたから、強い人、勝ち組、強者といったものではないよ、僕は」
「僕個人の考えですけど強い人は、ただ強いというだけではないと思いますよ。勝った人が強いんじゃない。強いというのは一義的な意味じゃない。おじさんは、自分の弱さをしっかりと受け止めている。僕なんかより、よっぽど強い人だと僕は思います。」
「ありがと」おじさんは、そういうと席を立ち、登戸駅で降りた。僕はおじさんの背中を眺めた。おじさんの背中に降りかかってきたものを想像した。
そんな呑気な事をしていて、おじさんが駅を降りようとしているのだと理解するのが遅れた。急いで、おじさんの後を追いかけたけど扉が閉まりだした。僕はとっさに片足を伸ばして扉が閉まるのを防いだ。後ろの顔も知らない誰かに笑われた気がした。僕はおじさんを追いかけた。あたりを見回すと改札口の前におじさんはいた。おじさんに追いつくと息が切れかかっている僕をおじさんは不思議そうに焦点の合わない目で見ていた。
「これ、僕の連絡先です」と電話番号を差し出した。おじさんは、恥ずかしそうに笑って、「電話は苦手なんだ。メールアドレスでもいいかな」
「いいですよ」キャンパスノートに僕のメールアドレスを書き殴って一ページ破りおじさんに渡した。
僕とおじさんは登戸駅を後にした。
 
 
 夏は過ぎ去り、肌を秋の風が通り抜けていく。九月の終わりになっても夏は顔を出していて衣替えを出来ずにいた僕は長袖を着る機会を見失っていた。電車の中の人を見てみるとみんな長袖で半袖を着ているのは僕だけだった。
 寒すぎて体調が悪くなりながら家についた。大学四年生にもなると学校に行くのは週に一、二回で外に出るのはめったにないから偶に外に出ると疲れがどっと押し寄せてくる。家のベッドでスマホを弄っているとメールが何通か来ていた。僕のとこにくるメールはほとんど、企業の宣伝メールだから大抵無視するが、今日はなんとなく見てみてみようという気になり、メールを開くと件名に『君へ』という個人からのメールが届いていた。
 「急にメールを送ってしまったことをまず初めに謝りたい。件名を君としたのは名前を聞きそびれてしまった為に君の名前が分からないからだ。そして、あの日私の話を聞いてくれたこと、心から感謝している。本当にありがとう。もし、君がいなかったらあの日僕は死んでいた。
 君にあった日から二ヶ月が経とうとしている。時間というものは不思議なもので君にあったのがつい昨日のことのように思ったり、何十年も前のことにも思える。君と別れた後、妻に会った。僕は今までのことを見栄をはったり、かっこつけたりせず、恥も外面もなく、あの時君がかっこいいと僕にいってくれたのと同じ素直な気持ちで妻に謝った。妻は許してくれなかった。今は、別の男と暮らしていて、僕に会いにきた理由は今までの形だけの離婚ではなく、正式に離婚し別の男と結婚するからだった。なんとうか、君に貰った生きる理由が自分の身体の中から少しずつ薄れていくのを感じたんだ。一つ気づいた事もあった。自分の中の理想の妻の姿を現実の妻に押し付けてきた事を知った。愚かな自分が気持ち悪くて笑えてきた。生きていくのは難しい。それでも僕は後少し、生きてみるよ。」
 
 おじさんのメールは覚悟を決めたものだった。僕はここまで素直に自分の気持ちを人に赤裸々に語ることが出来ない。僕にメールを送ることで過去の清算を完全に終わらせる事にしたのだろう。
おじさんのメールを僕が読み終えるのを見計らったように、猫が部屋にやってききては遠慮もせず、僕のベッドで鼾をかいて寝はじめた。この瞬間のために僕は生きているのだ。理屈ではない生きる理由は、こんなにも身近にあるものなんだ。
 きっと、おじさんが僕の名前を知ることはないのだろうけどこの先もどこかで生きていたらいいなとすやすや眠る猫を撫でながら考えたりした。
 
 
 

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