変えられるもの、変えられぬもの

 過去は変えられない。タイムマシンは未だ無い。
 未来は変えられる。未来は不確定、いや未確定だ。

 だけど人は往々にして過去が変わることを願う。
 ああだったら良かったのに、あの時こうしていればとifを願う。
 或いは現在を否定することで、それを構築する過去を否定する。
 それでも過去は変わらない。

 なのに人は往々にして未来は変えられないと諦める。
 どうせ、結局、と未来を否定することで、己の非力を慰める。
 或いは安易な現状維持を信じ込むことで、困難な未来を否定する。
 それでも、未来は変えられる。

 他者と自分の関係も、過去と未来の関係と同様だ。
 他人の気持ちを操作することは出来ない。なのに思い通りにならない他人に憤慨し、否定する。
 自身の決断は自ら下すことが出来るのに、だって仕方がなかったと言い訳し、肯定する。

 別に私は、そんな人の弱さが悪いだなんて否定するつもりはありません。
 人とは本来、そういうものであり、それを克服するには心の強さだけでなく人生経験や、それを支えてくれる人との出会いが必要です。
 ですが青の力学は自分の人生を生きるための哲学。これを聞いてくれている人は、それを乗り越えたいと志す人達だと考えています。
 言い換えましょう。今回の主題は、意志の介在できる余地があるかどうかという話です。


 例えばブレーキの壊れた列車があるとする。それを生身のあなたは止める事が出来るでしょうか。
 まぁ無理でしょう。あなたが列車の前に立ったところで轢き潰されて終わりです。ですが、僅かながら列車は減速する。ほら、変える事が出来た。
 こういうとあなたは騙されたと感じるでしょうか。ただ変えられるというのが思い通りにすると同義で無いという意味では、今の例えは極論であっても例としては的外れではないのも確かです。

y=2x+a

 突然数学になって人によってはうげぇって思うかもしれませんが、上の式はxの値によってyが変わるよ、という式です。
 当然xが「3ではなく5だ」と言えばyの値は変わります。しかもxの二倍の影響を受けます。
 ですがそれだけでなくaもyの値に影響しますので、aが「3ではなく5だ」といえばyも変わります。
 ではbはどうでしょうか? bが「3ではなく5だ」、それどころか「3ではなく1万だ!」と主張しようが、yになんの変化もありません。
 じゃあもし、

y=2x+a+b/1000

 という式だったらどうでしょうか。
 bが「3ではなく5だ」といった所で端数切捨てされる程度の誤差です。
 でも「3ではなく1万だ」と言えばその値は10も変わるのです。

 直観的にはこちらの方が分かりやすいのですが数学アレルギーの方もいるでしょうから別の例えをしましょう。
 東京から大阪に行くとき、あなたが車の運転手なら途中で静岡に寄ることも出来るでしょう。あなたが助手席に乗っていたとしても、運転手に寄ってとお願いすることは出来るでしょう。
 ですがもしあなたが飛行機の客席に座っているのなら、あなたが幾ら客席から静岡に下ろせと騒いだところで、キャビンアテンダントは機長に伝える事すらしないでしょう。
 もしあなたが静岡に降りようとすれば、コックピットに押し入って脅し、即ちハイジャックをして言う事を聞かせる必要があるでしょう。
 いやまぁ現実には機長の耳には入るだろうし、病気とかの正当な理由があれば降りるかもしれませんが、そういうことを言いたい訳ではありません。

 いずれの例においても、要は物事の行く末や意思決定の過程において、あなたの意志が反映される余地があるか否かという話です。
 例えその影響力が小さくとも(数学的に言えば係数が小さくとも)、0か否かは大きな違いということです。0でないなら、大きな力を持てば影響力を発揮することが出来る。0なら頑張ったところでマジで何も変わらない。
 その点、過去は変えられず、未来は変えられる。

 冒頭でも言った通り、実は他人と自分にも同じことが言えるのです。

 例えばあなたの目の前、窓際に人が居る。その人を反対側の壁際へ移動させたいと思った時、あなたに出来る事はなんでしょうか?

①壁際にお菓子を置いて誘導する
②「移動してくれたら1万円あげる」と交渉する
③「移動して」とお願いする
④「移動しないと殴る」と脅す
⑤物理的に押す
※物言わぬ骸にしてから移動させる

 あなたが出来るアプローチはこんなものかと思います。
 関わり方次第で相手の意志決定に影響力を発揮することが出来ると言えます。但し、当然ですがあくまで決めるのは相手であり、相手の意志決定そのものをコントロールできるわけではありません。
 対戦ゲームだと分かりやすいでしょう。FPSなどで、相手を誘ったり、攻撃したりして相手を動かそうと試みる事は出来る。だけど実際にキーボードやマウス、コントローラーを奪い取って直接相手のキャラを移動させることは出来ない。
 いえ、厳密に言うと不可能ではないのです。相手を殺す。生命ではなく精神を殺して奴隷にする。洗脳によって望み通りの意志決定をするように調整する。ゲームやファンタジーであれば魔法や魅了などで操ることもあるかもしれないですね。
 いずれにせよそれは相手の自由意志を奪うこと。意志の介在の余地を奪うこと。その善し悪しは一旦置いておくとして、それを禁忌とするならば、やはり他人を思い通りに操ることは出来ないとなる。
 具体的に言えば嫌われないように行動することは出来ても、嫌われない事は出来ないということです。傷つけないように配慮することは出来ても、傷つけないことは出来ないということです。
 嫌いになるかどうかは、傷つくかどうかは相手次第。こうすれば嫌われなかったのに、あんなこと言わなければ傷つけずにすんだのになんて考えるのは越権行為、傲慢とさえ言える所業でしょう。
 勿論反省は必要でしょう。ただどこまで言っても自分に出来るのはどういうアプローチをするか、手段を考える事だけで相手の気持ちをどうこうすること自体は出来ない。限界がある、ということを理解しなければなりません。
 当たり前と思うかもしれません。でも例えば人殺しはダメだ、という考えならばどうでしょうか。あなたにとっては人殺しは許されないことでしょう。でも鎌倉武士にそれを訴えたところで、怪訝な顔を浮かべた後首を刎ねられるだけ。
 そんな極論でなくとも、例え親子であろうと、上司部下であろうと、同居人であろうと価値観を押し付けるのは、相手の自由意志を奪いコントロールしようという試みに違いないのです。
 犬猫やウサギ相手にはオヤツで誘導する癖に、人間相手には怒鳴ることでコントロールしようとする。やってる手段自体は鞭で叩いて火の輪を潜らせようと調教してるのと同じだと自覚もしない。「正しさ」というものの恐ろしい所です。

 さて、最後に「自分」について解説していきましょう。
 いつだって自分のことが一番難しい。これまでの説明はこれからの説明の前置きとも言えるでしょう。

 「自分は変えられる」
 「自分の人生は自分の選択次第だ」

 名著「嫌われる勇気」の最初の章で語られている内容です。
 人によってはここでいきなり挫折した人もいるのではないでしょうか。
 もしさっきの言葉が真実だとするなら、今の苦しい現実は自分自身の選択の結果だということになる。所謂自己責任論に聞こえてきてしまう。
 それは、とても受け入れがたいことです。必死に生きてきたのに、「頑張りが足らなかったから辛い今も自業自得だ」なんて言われるのは許せない。どれだけ必死だったのか、生死を賭けた闘争の中で生き抜いてきたのかも知らないで偉そうなことを言うなと言いたくもなる。

 だけどその上で言いたい。アドラー心理学は勇気の哲学、それを取り入れた青の力学は自分の人生を生きる為の哲学です。
 変えられない過去はどうでもいい。せいぜい例の一つとして挙げる程度。
 大事なのは、「自分の人生において、どこに意志の介在の余地があってどこに無いのか」を知ることです。
 言うなればゲームにおける大型アップデートやDLC、或いは大型MODみたいなものです。
 新しいルールや選択肢が増えれば、当然出来る事が増える。出来なかったことが出来るようになる。
 必死に生きてきた、精一杯苦しんできたことを疑うつもりはありません。やれるだけの事はきっと、間違いなくやってきたんだと思います。他のやり方が選択肢に無かっただけで。そしてその選択肢というのは知識や失敗がなければ導入候補にも挙がらず、挙がったとてそれを導入するためには時間や資金、経験といったコストが掛かる。幼いころにその選択肢が無かったことは、何も責められることではない。
 本当はそれらを補うために義務教育というのはあるのだけど、旧式過ぎてガタがきてるからね。

 改めて、「自分は変えられる」
 このことを納得するために必要なのは、「自分の人生において、どこに意志の介在の余地があってどこに無いのか」です。
 詳しくは長くなるのでまた改めてお話ししますが、具体例を幾つか先にお話ししておきましょう。

・過去は変えられない。未来は変えられる
・他人の意志をコントロールは出来ない。判断材料には余地がある。
・感情の噴出はある。だが何に反応するかもどう表現するかも余地がある。
・動物としての本能はある。だがそれは調伏することが出来る。
・認知には歪みがある。だが認知が経験によって形成されるのであれば、経験をコントロール出来れば認知も変えられる。
・人との出会いはコントロール出来ない。だが流したり、逆に逃さず掴みに行くことは出来る。

 こんな感じで、極論自分のことは大半が意志の介在の余地があります。
 つまり沢山の打てる手がある中で、他人の課題や過去のことのようなどうしようもないことにかかずらっている余裕はないということです。
 その上で自分のことですら、全部まともに取り合っていけるほど人は強くないし、時間も無いです。
 その中でどこに時間を回し、心を砕くかが、生きるということだと私は思います。

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