この世は嘘で満ちている。
 欲で塗り固めた泥の地面を偽善の苔で覆い、虚飾の花で飾った地上に更にそれらを積み重ねて文明は成り立っている。
 その地表を少し剥がしてみれば、混沌の沼。人間の本性がある。
 僕ら人間もその文明と同じく、混沌の沼の泥を捏ねた人型であり、偽善の服と虚飾の宝石を身に着け互いに笑い合い、時折その本性を覗かせる。

 今の一見平和に見える世界なんて、薄氷の上に建てられた砂上の楼閣にしか見えない。見えなかった。ひとたび窮地に陥れば、乱世になれば、食うに窮すれば、欲を刺激されれば、あっけなく底が抜けてしまうような嘘でしかない。
 自らの心を探ってその混沌の泥を見た俺は、以来ずっと足元ばかりが気になって気もそぞろ、気が気で無くて真っ当な生活が出来なくなった。

 以前から俺は、「当たり前を当たり前に出来る人」という表現をしてきた。
 これは多分、人や社会の善意という物の後付け外付け感に危機感を覚えない人、或いは見て見ぬ振りを出来る人達のことを指しているとも言えるのだろう。
 俺にとって計算の無い善意というのは、全く以て信じられないものだから。

 実際、時代の流れはかなり嘘を信奉する方向に流れてきた。
 悪を隠しては葬り、暴いては糾弾し、或いは無自覚に振りかざす。そしてあたかも世の中から悪は粗方駆逐されましたという顔をしている。それが出来ている我々文明人は素晴らしいのだと誇ろうとした。
 少し前に「リコリス・リコイル」というアニメが流行ったが、確か丁度そんな感じの設定だったはずだ。もう少し遡れば「PSYCHO-PASS」というアニメもそうだった気がする。悪が全て事前に処理されているので一見平和に見える社会を一種のディストピアとして描いているという意味だ。違っていたら申し訳ない。ミリシラだし別にそれらの作品をどうこう言うわけではないが、個人的にはそれをディストピアで描くという設定自体は、個人的には今更としか思わない。そうやって分かりやすく描かなくても現実がそのまんまだろうと。
 ただまぁそれもやり過ぎたのか、今現在自体はその反動が出始めている時期だとは思う。綺麗事8割に人間性2割が丁度いいと受け入れられるのかなと感じている。誰も綺麗事だけのものは信じられなくなっているのだ。

 まぁその辺の根拠はどうでもいいか。どこまで説明しても主観の域を出ない。
 俺にとって世の中の所謂「善」なんて、それが許される前提ありきの後付け外付けの脆い嘘であり、その上で足っているには正気じゃいられないことだったということだ。どうして平然とその上で飛んだり跳ねたり、文明を築き更なる幸福を求めて上を見上げられるのかが理解出来なかった。
 だから結局俺は、足元を見続けるしかなかったのだ。そうやって時には石橋どころか薄氷を叩き壊し、時には己の泥に潜ってそれを採取し分析し続けた。その変わり現実を無視し逃げ続けた。真っ当な人間といえる為の一線すらぶっちぎって。

 俺ほど極端な人はそうそう居ないとしても、やはり世の中の嘘の上に立つのが気が気でない人も多くなってきたんじゃないだろうか。情報が溢れ見識が広くなったのと、やり過ぎてボロが目立ち始めたのと。
 そういう人達が無気力になってるという部分もあるではとも少し思う。
 因みに当たり前だが、「そりゃ人間には醜い部分があるのが当然だ。だから理性的に振る舞うんだろう」という反論は論外だ。言っていることは何も間違っていない。だけど単純にこう返す人は同じ口でこうも言うはずだ。「そりゃ人間は完璧じゃないから仕方ない」。自分の醜さ愚かさを仕方ないと済ませる人程、他人の粗を糾弾するものだ。
 俺が言っているのは自分が正しいかのように糾弾してくる審問官に追い立てられ、自分の本性を隠さねばならなくなった人だ。或いは、隠し続けて自分でも見失った人だ。そして、自らの欲の利用方法も分からなくなった人のことだ。
 俺たちにとって自らの醜さ愚かさというのは当たり前に存在を認められるべきものではなくて、秘さなければ殺されかねないものなのだから。

 前置きばかりが長くなるし抽象的になる。どうも、具体的に言おうとすると何かを否定する口調になりがちで、それを避けるといつもこうなるんだ。
 ともかく結局の所俺が言いたいのは人間の本性に醜さや愚かさがあることを認めるべきだ、という事だ。そして同時に、だからこそどれだけ今の人間の文明が脆く儚く、しかしそれ故に凄いものなのかということだ。
 治安と信用というものが分かりやすい。極端な話、治安が悪くなればお互いに信用出来なくなる。夜道を歩くと危険だからと行動が制限されるし、取引には余計な確認工程が増えコストが増える。
 苦境から生まれた不信が分断を生み、争いに繋がる。今の時代だ。
 だけどその脆さ故に人間の善意を前提とした社会は何度も壊され、後に重ねて補強され続けてきた。そして筋肉のように、その繰り返しの先で文明は強く豊かになっていく。数の集約こそが人の力だからだ。
 文明によって肥えて混沌の泥が膨張したのなら、いずれ当然嘘で覆われず穴となるところも出てくる。それもまたいずれその薄っぺらい嘘でパッチワークのように繕われる。
 常識や理想なんて嘘っぱちだ。人の本性ではない。だがその嘘を守り繕い、本当にしようと嘘を重ねようと願うのもまた人の本性だ。その葛藤の中で揺れ動くのが人の本質だ。
 我々は見た通りの綺麗な生き物ではない。その本性に混沌の泥があることを忘れてはいけない。だからこそ意識して嘘を着こなさなければならないのだ。自らの体系や身長を知らずに服を着こなすことは出来ないのだ。それを知らないからその醜い腹が服からはみ出たり、愚かさ丸出しの顔に下手くそな化粧をしたりして見る人を不快にさせるのだ。
 人は清いだけの生き物ではない。醜さを嘘で覆う生き物だ。だからこそ自らの意志で、少しでもその嘘を着こなさなければならない。どういう意図でどこを覆うためにその常識があるのか。何がもはや流行遅れで、新しいものを用意しなければならないのか。
 そういうことは人の醜さ愚かさから目を逸らし無自覚なままでは考えられないものだ。

 あぁクソ、どうしても抽象的なままになってしまう。
 でも具体的に言おうとすればするほど主観によって何かを否定することになる。

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