悪とは何か。
それは和を乱すことである。
人道を外れた事ではない。
余計な心配を呼び起こす所業を悪と人々は詰っているに過ぎない。
大抵の人は善悪を見極められるほど人間が出来ていない。
悪とは概念ではなく罵倒に過ぎない。

そういう意味では、この背に「惡」一文字を背負うことを厭うことはしない。
むしろ、いっそ憧れる気持ちすらある。
周囲の罵倒を真正面から叩き返し、己の掲げる善を世に問う彼らのように生きたいとすら思う。

だけど怖いのだ。
俺のやろうとしていることは悪ではないのか。
罵倒の悪ではなく、無知や弱みに付け込む概念の悪でないか。
自分の考えというのを抑え続けてきた俺にとってはもはや、正しさの押し付けは禁忌と言える。

俺は傲慢だ。自惚れた勘違い野郎だ。認めたくは無いが、そうと言わざるを得ない。
誰も彼も、バカに見える。考えが足りない奴ばっかに見える。
様々な研究や政治、経営など、各分野において俺以上に詳しく経験深い人は幾らでもいるし、その点については普通に尊敬するし、その気持ちに何の偽りも無い。
だが誰もが持っているはずの人としての生、その心理、葛藤、価値観という大事。大事のはずなのに誰も彼も考えなしに通り過ぎているようにしか見えない。
俺にとってはとっくに通り過ぎた自明のことを、ようやく辿り着いたとばかりにしたり顔で話しているのを聞いて、愛想笑いを浮かべる事が何度もある。
中学校で習った内容をドヤ顔で披露する子供を見守る親のような気分になる。例えそれが己より年長者であっても。
だからどうしても思いあがってしまうのだ。そして侮ってしまうのだ。
俺の話を聞いて、鵜呑みにされるのではないかと。aとbとcという考え方があって、それぞれd或いはeという根拠をもとにfかgメリットデメリットがあり、その中でfを重視するからaを選ぶ。みたいな話を聞いても最初のaで満足するんじゃないかと。
元来、民衆とはそういうものだ。考える事を放棄し、心地よい答えを求めては付いていく、迷える子羊、烏合の衆。
きっとそれは、理性的に見ても大きく間違ってはいないのだろう。
そしてその中で考え続けた俺は、専門家と肩を並べられるだけの知見を獲得しているのだろう。対応の経験は未熟でも、その知見に関しては流石に客観的にもそれなりのものなのではないかとようやく思えてきた。
だがいずれにせよ問題はそこにはない。
何かを断言することは安易な答えを与える事に繋がるのではないか。それは俺にとっての悪ではないか。それが怖いのだ。
そしてその根底には侮りが確かにある。自分の頭で考える脳が無いのだろうという侮りが。故に俺は己のやろうとしていることを扇動者と蔑称する。


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