ひきこもり×働くということ

 先程このシンポジウムをオンラインで視聴してきたので、色々と思う処を纏めていこうと思う。
 基本的には当事者である自分自身の経験と分析を基にした私見であることはご了承いただきたい。

 まず最初に断っておきたいのは、私個人としてはひきこもりにオンラインを通じたアプローチを試みること自体はそう悪く無いアプローチだと思っている。が、それ以上ではなく特別効果的なアプローチとまでは思っていない。
 ひきこもりがオンラインと相性が良さそうだと思われる理由は幾つかあるが、最も分かりやすいのは

・外に出なくて良い
・パソコンやゲームなら普段から慣れ親しんでいそう

 という2点であろう。これらは特にそう間違っているとも思わないが、本質ではない。

ひきこもりの本質

 ひきこもりとは俗称としても用いられるが、厳密には状態を指す言葉である。
 そしてその状態に陥る原因、その本質は「世間との信頼関係の断絶」にある。
 自分自身が受け入れられていない感覚。自分の持っている当たり前や価値観を受け入れてくれるという信頼が失われているのだ。
 それがどういう感覚か。例えるなら、「食犬・猫文化の集落の中に放り込まれた」時だろう。ぽっちゃりフワフワしたネコを見て「可愛いね」って言ったら、「え? 丸々してて美味しそうでしょ?」と気味悪がられ村の他の全員がその言葉に頷く。そして逆に「え、クジラなんて食べるのヤバいでしょ」と糾弾されるのだ。
 自分が当たり前だと疑いもしなかったものが通じない。一部の人と食い違うならそういう事もあると流せるが、全員に違うと言われれば自分を疑わざるを得ない。そして当たり前が当たり前でなくなった以上、何一つ確かなものは無い。
 己の全てを疑うストレスは多大だ。そしてそれらに向き合い解きほぐすのに必要なリソースもまた途方もない。
 故に大きなストレスを抱えたまま消化出来ず、しかし外の人と会うとそれが顕在化してしまうからそれを阻止して押し殺すために引き籠る。

 ひきこもる理由は多種多様で全てがそうではないだろうが、ある程度共通するメカニズムはこういったものだと考えている。
 逆に一人の自分と周囲の全員の対立の中で、自分ではなく周囲を否定する要素の方が多い人間はどちらかと言うと「ニート」と自称することの方が多いように体感的に感じる。
 「僕が悪いんだ。こんな僕を誰も助けてくれない」となるとひきこもるし、「俺は悪くねぇ!世間のバカどもの方がバカなんだ!」となると働いたら負けの精神になる。
 ……あくまでひきこもりのコミュニティとニートのコミュニティ両方に所属してみた体感を基にした憶測であるが。

ひきこもりと就業

 さて、そんなひきこもりにとって働く事の何が一番のハードルになるのだろうか。それはやはり人間関係である。とは言っても世の中の悩みの殆どは人間関係だとアドラーも言っていることだしもっと具体的に言おう。
 相手に合わせることである。

 当たり前の話だが、ありのままの自分で話せる相手なんて誰であろうと生涯で数人居たら幸せな方だ。自分も相手に合わせるし、相手も自分に合わせる。共通項を辿って距離感を測り付き合っていくのがコミュニケーションという奴である。
 しかし、繰り返すがひきこもり視点だと世間や社会や大人といったものへの信頼感は皆無だ。自分は相手に合わせなければならないが、相手が自分に合わせてくれることは無い。万一相手にそのつもりがあったとしても、辿れる共通項が無い。自分の当たり前が相手に通じないのだから。
 そしてその傾向は特に働くという場に於いては顕著だ。賃金を代償に利益を口実に、あらゆる責務は全ての自己主張に優先される。
 無論、それだけが全てでないことは当事者とて知っている。しかし100%の経験に対して多少の知識はあまりにも説得力に欠ける。

 昨今では「居場所」という活動が持て囃されているが、これもつまり「あなたの当たり前が当たり前として通用する場所」を用意していると表現できる。それによって「全ての他者に自分の当たり前は通用しない」の全てを崩す経験を提供しているわけである。
 同様に、作業所や障がい者雇用、リモートワーク等、絶対数こそ少ないが当事者に「合わせた」働き方も増えていっている。これもまた望ましい事だ。
 居場所にせよリモートワークにせよ、その環境が最大限自分達に配慮してくれていることは分かっている。ならばもしその外に出たのなら?
 世の中には配慮の足りない人がごまんといる。むしろそういった人が殆どだ。全ての人が自分を排除しないと分かっても、殆どの人は自分を否定するという認知の歪みは、やはり解消されないのではないか。
 それが「本質ではない」と言った理由である。

相手を尊重する

 とはいえ、何度でもいうが居場所にしろオンラインにしろ、有用なアプローチであることは間違いない。
 人の認知は経験によって形成される。心理的安全性が保障された環境、非対面且つアバターというクッションを置いた対人関係性、失敗や非効率を許された上で誰かの役に立てる仕事。
 いきなり本番は無理だ。段階を踏んで経験を積む機会はむしろ必要とさえ言えるだろう。そしてその中でもし尊重し信頼できる人との出会いがあれば、その先へ繋げることも出来るだろう。人との出会いは大いに偶然性が絡むが。

 そう、結局は、肝心要なのは「互いに尊重しあう」ということなのだ。
 それは決して支援者から当事者への一方通行でも、その逆でもいけない。双方向が結びついてやっと、信頼関係を結ぶ経験が出来る。
 何故なら失われたのは「双方向の譲り合い」であり、歪んで獲得したのが「一方的な恭順」だからだ。
 ただ優しくするだけでは何も変わらない。それだけでは「立場が変わり自分が合わさせているだけではないか」と不安を拭えないか、或いは「今まで我慢して気なのだからこれくらい許されるだろう」とモンスター化するかのどちらかに成りかねない。
 ……まぁ、分かっていてもその匙加減が訓練を積んでいても難しいし、相性もあるからある程度運任せになるのだが。

御恩と奉公

 そしてもう一つ、現代の日本においてひきこもりや不登校が増えている(或いは顕在化してきている)理由についても分析を述べておこう。
 まぁ話の流れで分かる通り、社会全体で信頼関係が崩壊し一方的な恭順を要求するようになったからだ。
 一番の契機はやはり就職氷河期の時代だろう。終身雇用という「御恩」は破られた。しかし依然としていや一層の滅私「奉公」を求められるようになった。
 そして今や話は就職だけに留まらない。重くなっていく税金と裏腹に、光どころか改善の見込みすら見えない未来。
 政治においても社会レベルで、信頼関係は崩壊の一途を辿っている。

 自分の口答えを押し殺して任務を遂行するというのは、それこそ軍人が訓練を経て求められるレベルの技能である。日本は軍隊教育に端を発する学校教育でその訓練を国民レベルで施しているが、当然技能には適不適がある。
 そして就職氷河期以降はより顕著に、人材業界から不適格者は淘汰された。時代のメタから外れたという意味で、昔であればそれこそ盗賊に身をやつさなければ生きていけず、挙句討伐されていた類のたちが、悪事すらも働かず生きることが許された。そして臭い物に蓋の精神を持つ日本人は何十年単位で無かったことにし続けた。

今、変わったのか

 企業側が奉公に対して裏切りを働かざるを得なくなった理由についても持論はあるが一旦それは置いておいて、根本的に今その信頼関係を取り戻す方法はあるのだろうか。
 企業が人を見なくなったのは端的に言えば景気が悪いからだ。景気が悪いから効率を求める。効率に於いて摩擦は取り除かれるべきものだ。特に人間関係における摩擦、仕事に於いて我々が掲げる当たり前「ビジネスマナー」すら守れない人間は。
 異なる当たり前を持つ人間との価値観の擦り合わせは非常にコストが掛かる。故に排除する。力、効率、結果を重視するなら当然の帰結だ。
 今はどうだろうか? 「障がい者雇用_外部委託」と調べた結果が答えである。
 「コストを払えと言われれば金は払うけど、膿はなるべく内に入れたくない」というのが本音だろう。我々社会不適合者に対する扱いなんて、一般的にはそんなもんである。

 それにこれは就職氷河期に繋がる一因でもあるが、そもそも低ランクの仕事が殆どない。冒険者ギルドでE級の駆け出し冒険者がやっていたような低ランクのクエスト、お茶汲み鞄持ち書類整理といった仕事が機械に取って変わられている。AIの成長によってさらにCどころかBランク以上のクエストしかなくなっていっているのも逆風だ。代わりに様々な機材を使いこなせれば高い生産性を発揮できるようにはなっているが、大抵の場合必要能力値に満たず、能力値を上げるための経験値を得る機会も無い。
 まぁ厳密に言えば職業訓練など探せば別に色々あるのだろうが、分かりやすいという意味で簡単な仕事からどんどん機材に取って代わられているのは事実だろう。
 簡単に言えば、昔は普通に使い物になったレベルの能力や技術を持った人材も、今じゃ基礎スペック不足なのである。
 未就業者が幾らでもいるのに人材不足が叫ばれているのを見れば一目瞭然だ。我々は「人材未満」なのである。
 これを解決するには、企業が使い物になるまで投資し育てるのが一番なのだが、いつ余所に転職するかも分からない新人に投資出来るほど余裕がある会社はそう多くない(というのも柔らかい表現だろう)。ここでもまた信頼関係が失われている。

効率と大義

 なら、どうすれば根本解決が出来るのか。
 詰まる所、企業が効率よりも大義を重要視するようになればいいというのが、私の主張である。
 大義、いわゆる「ミッション」とか「理念」とかで企業HPに掲げられている内容だ。
 無論、今の会社達が自らが掲げた大義を軽視していると言いたいわけではない。どこの会社もなんだかんだ言って大切にしている所が殆どだと思う。
 だが「株価」と比べてどうか、と聞かれて大義と答えられる会社はどうだろうか。
 法人も人と同じだ。人が飯を食わねば死ぬように、株価が暴落すると倒産する。株価の問題は生きるか死ぬかの問題だ。そしてその生殺与奪を握っているのは株主である。故に株主の意向は大義より重い。法人が背負うのは社員全員の命、一人の命ではないのだ。死ぬわけにはいかない。
 では株主は何を見ているか。どんな製品、サービスを送り出したかか? その会社がどんな未来を目指しているかか? いいや、数字だ。株価が上がれば喜び、下がる気配を感じたら売る。そこにビジョンは無い。
 ならばそれは悪なのか? それも違う。当然の権利だ。そもそも己の利益を追い求める人間は自分にメリットの無い他人の意見など聞かない。善悪を論じることに意味は無い。

一億総貴族時代

 だから私はただ「かっこ悪ぅ」と言うだけだ。お金の額面より、「なんか大義とか理想とか、そういうのに人生を賭している方が格好良くね?」という雰囲気を作るだけだ。
 そうなれば株価の数字を見るスタイルより、掲げるビジョンに投資する方が投資家自身にメリットを提供できる。「不祥事があると株価が下がって損をするからキチンと監視する」という本来の株式の仕組みを利用できる。

 ただ、お金より大義を重んじる価値観というのは、そう簡単に得られるものではない。昔からそういう名誉とか騎士道とか言えるのは王侯貴族、高い地位に居るものくらいだ。「名誉で腹は膨れん」。この言葉が全てだ。
 どんな理想を掲げようと、どんな計画の途中であろうと、数日飯を食わねば人は死ぬ。死んだらそれまでリスタートは無い。命の継続、つまり飯を食えるかというのは何と引き換えにも譲れない一線だ。
 言い換えれば兎にも角にも飯を食えること、全てはそれからだ、ということだ。
 そして今の日本はどうだろう。

 私は、生きている。一度精神を折られ、働いてもいない俺でさえ、取り合えず飯は食えている。
 どころか、こうしてパソコン越しに自身の論説を書けるだけの環境と、知識を得られている。
 生活保護でこれということは、建前上とはいえ取り合えずこのレベルの生活は全国民に保証されているということだ。
 飯を食えること、その前提は満たされ、且つ溢れんばかりの情報もタダ同然で手に入るのだ。
 食料を得るための力が持て囃された戦士の時代、それを否定し統治者には名誉や矜持といったものを求められた貴族の時代、それが庶民を置いてきぼりにしたせいで揺り戻しに金が全てとなった商人の時代。
 極一部の特権階級にしか許されなかった「食うに困らず、故にそれ以上の大義を掲げられる」環境に今の日本は近づけるのではないだろうか。
 今の若者がお金だけに重きを置かず、何かしなければという言い表せぬ使命感だけモヤモヤさせているのが、その兆候ではないだろうか。
 貴族が土民から搾取せねば維持できなかった環境を、意思無き機材から搾取出来るようになった今こそ、その未来を目指せるのではないだろうか。

 私はそう考えている。

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