どうでもいい

 世の中には正義が溢れている。

・誰々が脱税をした
・政府は○○を是正すべきだ
・今の苦しい現実は××の怠慢にある

 こんな話は掃いて捨てるほどネット上に溢れていて、往々にして過激な言葉で目を引く。稀に気まぐれで開いて見ては、正義は我にありと声高に叫んでいるのが目に怒鳴り込んできてゲンナリする。
 まぁ、ただの愚痴だ。

 誰かを糾弾して息巻いている人たちは、いったい何がしたいんだろうか。
 正直、まともに考えてはいないがまぁその人達が言っている内容は、きっと道理なのだろう。別にその主張が間違っているとは思わない。錦の御旗は彼らの手にあるのかもしれない。
 で、そうれがどうしたというのだ。俺には正しければ世の中が変わるとは到底思えない。
 こうあるべきだとか、何々は是正すべきだとか、どれどれした奴は悪者だとか、何の意味があるのだろうか。
 そもそも世の中は望ましくない所から始まっている。人の世は思い通りにいかないことばかりで、それでも人は環境を整えることで、前提を変えることで少しずつ思い通りになることを増やしてきたのだ。それこそ長い人類史をかけて。そして基本的なことだが、現在はまだ人類史の途上である。
 つまり、まだまだ現実は理想にはほど遠いのだ。至らない所だらけの試行錯誤の途中なのだ。そしてそれらの問題が解決されていないのには当然理由がある。クリアされていない前提条件があるから課題は課題のまま残っているのだ。
 理想を語ることは良い。というか俺自身理想論者であり、むしろお仲間と言えるだろう。ただ、誰かを糾弾して終わってしまっては意味が無いのだと強く思う。それはつまり、責任を押し付けること、課題の解決のコストを払う事を他者に押し付けることに他ならなくないか?
 理想を唱えるのなら課題を明確にし、解決の糸口を提示し、自分はどういった助力が出来るかまでセットで語らなければならないと俺は思う。
 責められた人たちにもそれぞれの理由がある。出来るのにやらない、なんて場合は殆ど無くて、能力はあっても他の事情で出来ないという場合の方が圧倒的に多い。なんで出来ないのかも理解せずに、足りてない労力を補う姿勢も見せず、改善=自らのメリットのみを声高に叫ぶことに、何の意味があるというのか。
 誰かのせいにして自分は不遇なんだから自分を先に助けろと泣き喚くことに、何の意味があるのだろうか。

 勘違いされたくないのだけれど、俺は別に自己責任論者ではない。むしろその対極にあるとさえ言いたい。
 世の中なんて、自分の能力で制御できることなんて殆どない。人の世の大部分を占める他人を思い通りにすることは出来ないし、自分自身ですら制御するのは難しい。基本的に、思い通りになることなんて殆どない。
 だからこそ、責任というのは自らの意志で選び取って、背負うものなのだ。どうにもならないことばかりの世の中で、これだけは必死に手綱を握ろうと振り回されることを自分に課すことなんだ、と思う。
 そして自分が背負えないものを他者に任せる。それが分業という仕組みの肝であるとも。
 自分に出来ないから他者に任せているのに、何故糾弾できるのか。

 こういうと多分「じゃあ黙って不条理を受け入れろと言うのか!」とか噛みつかれそうだけど、そういう意味でもない。
 個人的には「文句を言うなら代案を出せ」派だけど、それを強要すべきではないとも理解している。その能力も無い人が殆どだからね。
 俺が言いたいのは、そういう場合すべきは「歎願」であって「糾弾」ではないだろうという話だ。
 本来であれば、不満があるのなら自らその課題に取り組むのが最初。それを本業としないまでも資金なのか代案なのか、何かしらのリソースを提供する。それも出来ないなら本来口を出す権利は無い。それでも変化を訴えたいのであれば、それはお願いする立場にあると思う。一人の声で届かないから数を集め、願う。それはSNS上の袋叩きとは違う。脅迫と歎願の違いを今更説明する必要もあるまい。

 ただ今度は税金を払っているんだからとか、消費者なんだからとか言って口を出す権利はあると言うかもしれない。それも違うんじゃないだろうか。
 民主主義というのは、統治者を自らで選ぶ社会制度だ。議員をキチンと評価をする責務を国民全員で引き受ける制度だ。確かにその責務の中には議員や政策への批判も含まれる。が、批判というのは情報の精査を含むものだ。それまでの経緯、メリットデメリット、必要なコスト等をしっかり調べてから物を言えというのが選挙制度だ。ネット記事に煽られてギャンギャン喚くことは批判ではなく文句でしかない。批判は受け止める必要があるが文句に取り合う必要は無い。
 だが現実問題そこまで政治をしっかりと精査する時間も能力も兼ね備えた人はそう居ない。というかだからこその専門家、政治家だ。口を出せない問題を信じて任せられる人を選ぶのが投票という行為だ。選ばれた以上、信じて任せると言った以上、それが裏切られたのなら、見る目が無かったというだけの話なのだ。自らが投票した人物で無かろうが関係ない。それこそ自分のコレだと思う候補者の選挙活動を手伝って支持を集める所まで責任が及び、それでも尚支持を集めきれなかったことに責があるというのが民主主義だ。そういう意味では、貴族政治や王権政治と比べて余程高い責任を自分達が背負わなければならない制度の国であると、どれだけの人が理解しているのだろうか。政府の失策は国民全員の責任だ。まぁ、民主主義政治ではなく衆愚政治を行っている我が国に、それを理解している人は少ないのだろうが。
 消費者だからというのも関係ない。消費者に出来る主張は不買までだ。方針を否定する権利があるのは株主だけだ。実際の所その影響力は相応に大きいが、本来は文句を言える立場ではない。外野でしかない。

 まぁ、なんだかんだと書いてはいるが、結局の所これは愚痴だ。そして、糾弾のつもりではない。つまり、別にそういう人達を責めるつもりもない。ただ、愚かなだなぁとゲンナリするだけだ。
 何故なら責めるつもりであれば、少なくとも今話した内容を一人一人に言って聞かせる責務が発生するが、わざわざそんな面倒な事はしたくないからだ。どうでもいい。世の中の大半は愚か者だ。
 そしてそもそも、責めるべきだとも思わない。その愚かさも、人の弱さに所以するものだからだ。世の中の大半に含まれる俺自身も、その弱さを克服なんて出来ていないからだ。
 誰もが精一杯生きている。精一杯生きていて尚、世の中は思い通りにいかないことだらけだ。力があればそれらを変えていけるかもしれない。が、殆どの人は非力だ。その弱さを否定してはいけない。強者のみが生きることを許される世界は、まさしく今の日本のように対応力に欠けていく。人の弱さを責められるのは、己自身だけだ。そして罪を憎んで人を憎まず、だ。
 だから愚かだなぁと思いつつも、本人がそれを恥じない限りはどうでもいいし、せめてこうやって同じように愚かな我が身を顧みる機会にするしかないのだ。

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