覚書のようなもの

 現実を識って尚理想のために戦える人でありたい。

 一方的正しさや理想論ではない。
 現実に頭を垂れ反抗する人を嗤うのではない。

 世の中はこんなにも思い通りにならない。
 誰もが更なる何かを欲していて、いつも不満を感じている。
 飽くなき人の欲望は、今あるものを当たり前と感じて足りないものを夢想するから。

 でもそれが最終的には人類にとって良い未来に繋がると思うから、俺はその欲望を肯定したい。
 人の一番の力は数だから。最終的には多くの人が幸せを感じられる優しさが、多数の支持を得て残ると思うから。

 自分の理想全てを実現することは出来ない。
 やっぱりどうしても切り捨て、諦めなくちゃならない甘えもあると思う。
 でもそうやって自分の願いを絞って絞って、最後にどうしても残る渇望を


 この続きは友人へのメッセージに書いたので転記

自分の人生の目的となるくらいの渇望(desire)を見つける一番の方法は、自らを絞ることだと思います。

人には沢山の欲望願望夢があり、沢山ある内はどれが自分の人生を懸けるに値するのか見極めるのが難しいです。

故にまずは一度全てを捨てようと、全て諦めようとしてみると、どれだけ諦めようとしても手放せない、それを捨てるくらいなら死んだ方がマシという程のものが出てくる(ない人もいる)。

これは多分色んな宗教における厳しい修行と本質的には同じことだと思います。
大きな挫折を経た人の方が大きな成功を得る理由の一つだとも思います。

僕にとってはそれが生活保護の中で引きこもることでした。

自分は社会に適合できない。欲しいものも買えない。なりたい自分になれない。腹が減った。逃避はあっても快楽は無い。体の不調を感じる。憧れだけが遠い。

そんな中で「社会から見たら意味について色々真面目過ぎるくらい考えてる俺が間違ってるという結論のままじゃ死んでも死にきれない」という思いがあり、それが間違いなく大きなターニングポイントでした。

意図的にここまで自分を追い込むことはまさしく修行で、現代日本で試みるのは中々ハードルが高いと思います。
同時に他者を意図的にそこまで追い込むことは一般的には悪だとされます。

何故なら、その絞る過程で死んだ方がマシとまで光るものを、必ずしも見つけられるとは限らないからです。死ぬ気でやるというのは万人が出来る事ではないのです。その途中で心が折れると、人は簡単に心を病むし死に至る。

そして自他ともに恣意的にそういう状況に追い込むことが難しいなら、反転して悲劇は云わば必要悪と肯定する事さえできます。
だからこそ偶発的、ある種運命的に大きな挫折を経た人の方が僕の考えに共感してくれやすいのかなと思います。極論俺の活動とひきこもり界隈の親和性はここにあります。

そしてまた、時代によって多くの子供たちがこのどん底の一歩手前にいると思います。

多くのものが簡単に手に入る一方で、その価値が薄っぺらく感じてしまう。

手に入るものが多くともそこから本質的な幸せは得られないという失望と、今手に入るものもいずれ手に入らなくなるという絶望。

それが不登校に繋がっていると見ています。

親や同級生といった個人を恨むより、時代という曖昧なものを恨んだ方が気が楽だ。

そしてその時代さえも人の善意が裏目に出ただけなら恨まずに済む。

そこに悪意はなく、ただ課題がある。そして人は非力であれど無力ではない。

折角人を恨まずに自分を絞る機会を得たのであれば、その機会を活かして己の渇望を見定め力と転じればいい。

それが若者に訴えたい本質でもあります。

話が逸れましたが、自分の渇望を知る一番の方法は自らを絞ること、欲望を切り落とす事。色んなものを諦めて尚手放せない何かを見つけるまで耐える事だと思います。

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