前書き
「青の力学」は、自分の人生を生きる為の哲学だ。
私にとって、最も憧れ、目指し、考えてきたのは「格好良く生きる」ことだった。
「格好良く生きる」というのは「善く在る」こと。
即ち、「巨大な困難にぶつかり、己の無力さを思い知り、それでも足掻き、力を求め、乗り越えようとする」生き方であり、「決して他人のせいにせず、優しく、強かで、誠実」な人柄のことだ。
有り体によって中二病である。
大人になるにつれ現実を知り、身の程を知ることで程々の幸せを目指すべき所を、それを拒んで駄々をこね、真っ当に働く事から逃げたひきこもっりの戯言である。
ただ私は思うのだ。
人類は十分豊かになった。世界の飢餓は生産の問題ではなく分配の問題となった今、少なくとも先進国とされる日本では無職でさえ、飢え死にという物は然程現実的なものでなくなった。
人の生命活動を維持するのに最低限の生産力があるのなら、残りの豊かさは贅沢につぎ込まれる。贅沢というのは即ち快、と楽だ。心を喜ばせる快と、労力を減らす楽だ。
その快楽が溢れた今、更なる生産力をどこへつぎ込むのか。なんのために更に生産力を向上させるのか。
私は人が善く在ろうとするために使われて欲しいと思う。
食べ物が無い時、目の前の人から盗むのが最も手っ取り早いし、手間もかからない。一方、狩りや農耕によって食料を生産するのは手間がかかる。
往々にして、正道というのは長い目で見れば僅かではあるが最も価値を生む手段であるが、同時に明らかに最もコストのかかる手法だ。正道を行うには長期にわたってリターンを回収するだけの体力、豊かさが必要だ。
或いは「艱難辛苦、汝を玉にす」の言葉通り、人の成長には苦難が必要だ。だが乗り越えるのには多くのリソースがいる。時間、人、選択肢、情報、それらを代替する金銭。それらを乗り越えられるだけの豊かさが無ければ、人は乗り越える事を諦め、時にはその生すらも諦める。
実を言うと、有り体に言えばSDGsである。更なる快楽のためではなく、人類が残してきた困難な課題のために豊かさを用いようという考えである。
実際、快楽は溢れつつある。命も同様だ。溢れ、当たり前になったものの体感価値は下がっていく。
自分の命が明日も続いていることを疑わなくなった。そんな「あって当たり前」の為に苦労して我慢して、そうやって心を傷つけて生きている。相対的に命の価値が下がり、心の価値が上がった。
でも命の価値は何よりも重いなんて言われるし、思いたい。じゃあその命を何のために使っているかというと、沢山の快楽を享受するため。だけどその快楽の価値も下がっている。
生きる為に自分の心を犠牲にしたくない。でもどれだけ動画を見ても、ゲームをしても、満たされない。何かしなくちゃと思うけど、使命感を持て余す。
そういう人も少なく無いんじゃないかと、私は思う。
そんな人にこそ、「青の力学」を知って欲しい。
「自分らしく生きる」ことと「自分の人生を生きる」は違う。
自分にとって心地よいものを集め、困難を遠ざけることを「自分らしく」なんて言うのとは違う。
己の生きる意味を自ら定め、困難に向き合うことで鍛え、自身の信念を通すために何が出来るのかを考え、行動し、挑み続ける。
ありのままの自分を認めてもらおうなんて思わない。自分と違う他者を認めることはそう簡単なことではない。
己を通すための労力を相手に背負わせるのではなく、己を通すために何が出来るかを考える。そしてありのままの相手を認められるように、自分が強くなる。
そんな志を持つ人にこそ、「青の力学」を知って欲しい。
なんて暑苦しい熱血なんだ鬱陶しいと思うかもしれない。
自分はそんなストイックなことが出来るような人間じゃないと思うかもしれない。
だけどそれ以外の生き方を批難するわけでもないし、別にそんな生き方を実践出来なくてもいいんだ。
そもそも、これを言い出した本人がヒキニートだ。言い訳と泣き言ばかり、実践どころか何も行動してこなかった人間の屑だ。そんな人間が捨てきれなかった理想論でしかないし、理想が人によって違うことに何の不思議があろうか。
決して崇高なものでも無ければ、完璧なものでも無い。
それでももし同じように使命感を持て余している人がいるのなら、自分の生きる意味を探している人がいるのなら、参考程度、寄り道程度に聞いて欲しいと思う。
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