ありたい

 人を傷つけたくない。それが傲慢な事だと分かるのにも時間がかかったし、分かっていても納得は出来ていない。
 正確には無意識のうちに人を傷つけるのが嫌だ。無理解からの、無配慮からの否定によって俺自身が傷ついてきたから、同じことを他人にしたくない。やるならきちんと互いに理性で対立した上で、駆け引きの中で戦いたい。
 人から奪いたくない。社会の贅を当たり前のものとして享受して、生きてる内は楽しまなきゃなんて言う人間になりたくない。
 人の痛みを知り、配慮し、でも強かで、総合的には社会に貢献できる人間でありたい。ありたかった。
 俺にとっての聖書はやっぱりひぐらしのなく頃にで、いつまでも憧れのキャラは前原圭一で。それはきっと一番多感な時期に見たというタイミング的な要因もあるだろうけど、実際に今でも圭一に憧れている。
 世の中の悲しみを、不条理を知らないわけでなく、知った上で運命は変えられるって希望を与えられる人間になりたい。
 沢山の作品と、その中で必死に生き抜いてきた登場人物達のように、誰かの生き方に影響を与えるような人間でありたい。憧れや尊敬だと嬉しい。でも反発や対抗でも望むところ。誰の人生の物語にも名前の出てこない、万人にとってのモブのままで終わりたくない。人生を振り返った時に名前の挙がる人間になりたい。
 要するに俺は、中二病から抜け出せていない。幼いころの万能感は、やがて経験を積み賢明さという諦念を得て失われていく。それが大人になるということであり、身の程を知るという事だ。世の中的にはその方が正しいという事も、人としてもその方が成熟しているといえる事も分かっている。だが未だにそれを捨て去れないし、やっぱり捨てたくないと駄々をこねてしまう。

 俺は人並み以上には、ゲスい人間だ。並外れてはないと思うけど、人並み以上ではあると思う。正直言って、好きなように生きればいいなんて言えるのは善人だけだ。根が獣である俺が好きなように行動すれば、真っ先に思い浮かぶのは法に触れるような事ばかりだ。物語の中の悪役たちの行動が他人事とは出来ない程度に。獣欲を理性で律さねば人ではいられない。その程度のクズだよ俺は。
 だからコントロールを手放すのが怖いのだ。少しでも手綱を緩めるとすぐ獣欲が漏れ出てきそうで。自分を知り相手を知れば百戦危うからずと言いたいのだ。そのために自省を繰り返してきたし、沢山の物語の中で様々な生き方、価値観を見てきた。物語だけじゃなく現実でも、色んな人の苦労話を聞くのが好きだ。その知見は生半可な人のそれにはそうそう負けないつもりでいる。

 あぁ、でも、どれだけ言葉を並べたところで、大した人生経験もないくせにと俺が言う。生活保護で生きておいて社会からの施しを当たり前だと思いたくないなんて言えた口かと俺が言う。そりゃ勿論言い分はある。物語の方が例えリアルでなくても、より大きく強い感情を知れて大は小を兼ねるのだと。当たり前だと思わないから人並みになることすら許されないのだと。
 分からない人には分かるまいよ。己の浅ましさが常に目に余る生き方を。欲して、責めて、反駁して、嘲笑する。
 もういいさ。ケチをつけるだけの人はミュートするから、この反論にも意味は無い。俺は弱いんだ。

 なんだっけか、そう、俺は人と真正面からのコミュニケーションをした経験が少ない。コントロール下で当り障りのないやり取りで終始するか、服従するか、逃げるかだ。対等なコミュニケーションというのがよく分からない。根底には支配か服従があって、それを避けるためには距離を取るしかなかった。でなければ後は交渉だ。互いに手札を出し合って、損得勘定で合意するやり方だ。互いにぶつかりあって、傷つけ、傷つくこともあるような関わり方が分からない。大人な対応は出来るけど、大人な対応以外となると逃げるしかできない。
 傷つきたくない。傷つけたくない。無意識で、或いは当たり前から外れてるからと罪悪感も無く否定し通り過ぎていった彼らのようになりたくない。
 貰えるのが当たり前で、自分に都合が悪い事が「おかしい」だなんて真顔で論じられる奴らと同類になんて死んでもなりたくない。
 自分の当たり前は他の人にとっての当たり前であり、それを理解出来ないのは経験や考えが足りないからだと断じる奴らと同じになりたくない。
 そうならないようにするためにはどうするか。人との関わりを0にするしかない。
「善を誇ってやったってそれ誰かにとっての迷惑行為 でも指くわえたまま見てたら、お前は何やりたいんだと説教喰らう どう過ごしても結局、人は誰かにとっての悪者」
 誰にも迷惑をかけず生きていくことなんて出来ないなんて、子供のころから分かっていた。誰にも迷惑をかけず死ぬことすら出来ない、人知れず消えてなかったことになれればなんて思っても、叶う事は無かった。
 それでも0に出来なくても、せめて1や2に出来ないか。その上で5も6も生み出せる人間になれないか。そんなことを願っていたら何も生み出さず3も4も浪費する人間になっていた。もはや今更人並み程度になって差し引き0になったところで、これまで積み重ねた負債は返しきれない。完済して世に何かしら残せる人間になるためには、もはや一角の者になる他ないのだ。それが出来ないと諦めるなら、いっそのこと負債をそのままに世逃げすることを選びたくもなる。

 自分の人生を生きるって辛いよ。
 俺はどうすればいい。30余年悩んだ末、結局俺はこんな人間だ。悪党並みの獣欲を持ち、捨て去れず、頭でっかちな理想を掲げ、捨て去れず。最終的に捨てられないのだと認めるしかなかった。それを捨ててしまえば俺は俺でなくなってしまう。それを捨ててまで生きたいと思えない。俺にとって己の生とは、そうまでして守るべきものではない。
 だから思うのだ。俺を殺せと。一般的で真っ当な生き方を強要するくらいなら、言葉ではなくその銃で、包丁で俺を殺せと。自分の人格とこれまでの人生をへし曲げてまで生きる事を強いるというのは、それは俺の命を奪う以上の悪行だと自覚した上で言えと。そう言って誰かに殺されるのであればきっと、それはそれで楽な終わり方だろう。最後の最後にやっと誰かを恨むことが出来る。お前のせいで俺の理想は叶わなかったと、他人のせいに出来る。想像してみるとそれはそれで、甘美な誘惑という奴だ。

 分かっていても、矛盾している。
 俺は誰かの人生を変えられるような人間でありたい。そうなれぬまま死んでいくのが口惜しい。それが俺が醜くも生き足掻いている理由だ。そうやって誰かの人生に関わることを願っている一方で、誰かの人生を変える事を恐れている。人との出会いは制御できない。一期一会だ。何の気なしの出会いが、良くも悪くも人の人生を変えてしまう。それは当人がどれだけ言葉を選んだところで制御できない。タイミングというものがある。言葉交わさぬ傍聴者であっても出会いだ。そもそも当然だが、相手のことを全て理解できようはずもない。
 出来ないと分かっていて尚、出来る限りのことをやりたい。それが優しさなどではなく自己満足だと分かっている。それで良いと思っている。そして結局、その納得のための30余年だと認識している。
 でも未だに収まりがつかない。本当にこれでやれるだけのことはやったと言えるのか。避けようのない過ちを犯したとき、仕方なかった、手は尽くしたと思えるのだろうか。あの時の様に、謝ることすら出来ず呆気なく人の縁というのは切れてしまうもの。その時の後悔を、繰り返すのではないだろうか。
 特別な人間になりたい。そんな厨二心を捨てきれず。でも誰かの特別な人に、掛け替えのない人間になるのが怖い。俺は俺の醜さを誰よりもよく知っているから。裏切られたと思われたくないから。
 これまで通り過ぎていった人たちにとって、俺はどんな人間だったのだろうか。俺が覚えているだけで、向こうにとっては名前も思い出せない人になっているのだろうか。俺が覚えていなくても、誰かにとっては強い感情と共に思い出される存在なのだろうか。
 コントロールしたがる割に、当然の如く誰もコントロール出来ない。自分すらコントロール出来ないし、他人の中の自分も当たり前のようにコントロール出来ない。
 他人から自分がどう見えているかが分からなくて怖い。どう思われているか口に出されても裏を読んでしまって怖い。
 格好良く思われたくて、凄ぇって思われたくて、でも誰より自分のクズさを知っているからそれがバレるのが怖い。失望されるのが、裏切られたって思われるのが怖い。
 気にせず生きろなんてのも今更どだい無理だ。人の存在は肉体に宿るのではなく、他者の記憶の中に存在するのだから。格好いい人間になるためには、他人の目に格好良く映っておらねばならない。
 それにやっぱり、無自覚に傷つけたまま通り過ぎていくような人間でありたくない。それを完全に避ける事が出来ずとも、本当に出来る限りの手を尽くして尽くしきる人間でありたい。

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