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自己肯定? 自信過剰?

自己肯定するのって、そんなに難しいのか?

私は前の記事でも書いたように、自分のことが世界で一番好きだ。コンプレックスはあれど、世界で一番自分が好きで好きで仕方ない。

これが世に言う「自己肯定」?

それとも「自信過剰」になる?


私はどっちも悪いことではないと思う。自己肯定できる人間は良くて、なんで自信過剰な人間は悪とされる雰囲気、良く感じるけれど。私は自信過剰な人間も大好きだ。

「自信」という字は「自分を信じる」と書く

それってすごく大切なこと。私は自分のことが好きでたまらないし、自信も有り余るほどにある。何度も言うが、私はコンプレックスだらけで、シンプルに話せば自分に自信はない。けど、確実に愛してくれる人たちに囲まれている。そんな自分に対して「愛されている自信」もあれば「負けないくらい相手を愛している自信」もある。愛している人たちから愛されている自分は、世界一好きだ。


こんな風に自分を肯定し、自信たっぷりで生きていると、理不尽な攻撃を受けることも少なくない。

私が「楽しい!」を出すと、妬み、嫉み、そして嫌味を言う。はたまた、どうしてか私のことを好きな気持ちの方向性がおかしい子は「その楽しいポジションの相手になぜ自分が選ばれなかったのか?」と私の周りに対して遠回しな嫉妬をする面倒な子もいる。

プラスの発言に対してマイナスな発言をする人間、私は全員嫌いなので言われること自体は不快極まりない。けれど、私がそんなことをされても重く受け止め過ぎないのは " 私の世界 " からそんな人物たちを消すだけであって、変わらず楽しく日々を過ごしていくので、たいした打撃にはならない。

だって私は私が好きで、私を愛してくれている周りの人間が大好きで、平凡な人生で起きた小さなハッピーを大喜びするのが楽しくて仕方ないからだ。人生は短くて、自分にとって大切ではない存在の下らない負の感情に振り回される時間など、微塵もない。

そんな人間に負の言葉を吐いて、イライラして、落ち込んで、そしてその相手の記憶に残らない。そんな人生、楽しいのだろうか?


こういう人たちは、決まって自己肯定感が低い。

「自分なんて」から負の感情が芽生える。私はたいした人間じゃないけれど、「自分なんて」などと発言すれば産み育ててくれた親や家族、私を慕ってくれる友人たちに申し訳ない気持ちになるけど、こういう人たちはそうはならないのだろうか?私には未知の感情なので、まったく理解ができないがそんな人たちにも色々あるのだろう。私が知ったこっちゃないことだ。

ただ、自分を否定し、他人を否定し、卑屈に過ごす毎日はとても悲しいものだな、と時々思うのだ。


自分が愛されていることを実感すれば、自信も持てる。自信を持てば自分が好きになる。これを読んでくれた人の中で「自分が愛されていることなど感じない!」とイラッとした人は、自分が相手を愛し足りていないだけかもしれない。

人間関係は鏡

とはよくいったもんで「自分がしたことがそのまま返ってくる」の意だと思うのだけど、私はこの言葉が大好きだ。あの子に喜んで欲しいと思ってしたことが、今度はあの子が返してくれたりする。それってすごく幸せで、奇跡みたいな連鎖だけど本当にあることだ。

よく見る自己肯定もしてないのに自己顕示欲だけは立派に強い人間は、その鏡が曇っているようにも思える。ただ受け身で、自分からはたいしたことをしないのに他人に対して求めるものが大きすぎて、与えられないと喚き散らす。赤ちゃんだ。(いや、赤ちゃんは見ているだけで癒してくれるので、赤ちゃんに例えるのは赤ちゃんに対して失礼だったと謝罪する。)

そんな"オトナ赤ちゃん"にならないようにするには、鏡をちゃんと見つめること。自分が愛されている!と感じれば、嬉しかったことは倍にして相手に返そう。自分が愛されていない!と感じれば、今まで以上に相手を愛してみよう。言葉にすれば簡単そうだけど実は難しいことなのは実践済みなので痛いほどわかっている。たまに一方通行のまま傷付いて終わることもある。でも、得ることの方が大きかった。だから、少しずつでいい。少しずつ、鏡を磨いて、人を愛する幸せを知ろう。

自己肯定は、自分だけが肯定すればいいってもんではないと、私は思う。


他人に愛されている自分を知って初めて、そんな自分が愛おしくてたまらなくなるんだ。