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証言③会社を守るために避難せず初期被ばく。「直ちに健康に影響はない」という言葉は今も許せない

南相馬市原町区在住 牛渡美知夫さん(67)取材日2018年 11月3日 

 牛渡さんは、自らが経営する食品会社と商品を守るため、原発事故のあとも避難はせず、南相馬で暮らし続けている。当時、身をもって体験した初期被ばくの恐ろしさを思い出すと、あのときの官房長官の発言に今も腹が立つという。周りに話してもなかなか理解されないが、当初の被ばくのことを記録として残してほしいと語る。職業柄、自分が食べる作物の放射能測定は今も行っているが、その年によって汚染の値が増減する理由も気になる。18年の取材当時は、会社の売り上げは戻りつつあったが、心配になるのは地域の将来のこと。箱ものばかり作っても人が戻らないと地域の文化は守れない。今のままでは子どもにも会社を継げとはいえないと、牛渡さんは危機感をあらわにしていた。

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 南相馬市の鹿島区で、ハムソーセージとか、スモークサーモンなどを製造して、東京などに販売する会社を経営しています。
運の悪いことに、震災の日の朝、トラック1台分の商品が倉庫に入ってきたばかりだったんです。2千万円相当の商品です。これを腐らせたら会社は終わりだということで、私は避難できなかった。というのも、地震での停電は免れたものの、津波のあと停電してしまった。とにかく食品を守らないといけないと、太い電線を従業員に買ってきてもらい、次の日に発電機を手に入れて何とか冷蔵庫を稼働させて乗り切ろうとしていました。それに、食品会社は水を大量に使うので、排水の施設も人がつきっきりでいないと仕事になりません。
 うちは、両親と妻と4人暮らしですが、あの当時、長女が身重で里帰り中でした。地震のときは臨月だったんですよ。長男は別世帯でいましたが、嫁さんが出産したばかりで実家の宮崎県に帰っていましたので、ひとりでメシを作るのも大変だからと、長男も家に来ていたんです。だから震災当時は、6人暮らしでした。
 3月12日のことです。地震で家の屋根も壊れていたので、修理をしないといけないと思い、上っているときにものすごい音がしたんです。午後4時ころだったかな。これは飛行機でも墜落したのかなって。その少し前に、私の親せきがうちに顔を出して、「原発が吹っ飛ぶから逃げろ、原発の従業員から電話が入ったんだ」と言ってたのですが、逃げろって言われても、そのときは理由がわからないからぴんと来なかった。「原発が吹っ飛ぶ」という意味は、あとから勉強してわかったんです。

■雨樋の掃除をしたら指が赤く腫れて痛むように

 12日の夜、行政関係の仕事をしている娘の夫が突然やってきて、「ただちに影響はないと言っているが、メルトダウンを起こしているから」と。
だから「娘さんをお預かりしていきます」と言って、出産間もない子どもと一緒に郡山に連れて帰ってしまった。そのあと、私と両親以外は一日だけ郡山市のビッグパレットに避難して、みんなそのまま埼玉県の川口市に避難。私は残って会社と家の修理をしていました。
 屋根の修理なんてなかなかできるもんではないですよ。雨漏りを止めて、上のがれきを取り除くのに1週間はかかった。そのついでに雨樋のごみ取りも軍手でやったんです。そうしたら指がものすごく腫れてんだ。水がしみたりもしてね。病院に行ったけど、医者も原因がわからない。今思うと放射能だね。見事に4本の指だけ腫れて赤くなって。1カ月くらい腫れていました。ズキズキして痛い。
 それだけの放射能ってヨウ素だよね。当時、測る機械がなくて、半減期が短かったので消えてなくなってしまったけど、屋根の上に上がった人はみんなビリビリしたと言っていた。
 会社のほうは相変わらず大変で、発電機を回して冷蔵庫二つにいっぱいに食品を詰めて。でも、発電機用燃料がないんだ。本当はダメなんだけど、ボイラー用にあった重油を入れてしのぎました。発電機には違う油を入れないでくださいと書いてあるんだけど、仕方ない。故障したら弁償しようと思ってね。24時間ずっと見張っていたけど、何とかもって助かったんだ。鹿島区にあったうちの会社は30キロ圏外にあったので、電気の復旧も早かった。
 このころは残っている人はほとんどいなかった。夜になると真っ暗で遠くに家の明かりが見えるとホッとするんだけど、かなり歩いても人がいるのは1軒か2軒。
 両親が家にいて、これがまた頑固でね。なかなか避難しようとしなかった。こっちは会社があるから面倒見切れないから心配なんですけどね。このバスがもう最後の便だと言って、南相馬市が用意したバスに乗せたんです。避難しないと警察が来るんだと嘘ついたら、「ウ~っ」とか言ってやっと避難した。
 避難先は栃木県の古い旅館で、10月までそこにいました。風呂はあるし生活に問題もなかったと思います。

■枝を切ったらボロボロと涙が止まらなくなった
 放射能の怖さは感じましたよ。外出したときは、服をパタパタはたいて、すぐに洗濯機に入れて洗った。会社のことを何とかしないといけないから、命懸けというのは言い過ぎかもしれないけど、体を張って仕事をしました。
食品会社ですからね、放射能を測る機会を手に入れないといけない。
 4月10日ころ、まずは空間線量を測る機械を手に入れた。しかし、平時に使うものだから毎時10㍃シーベルトまでしか測れない。当時はちょっと家から出ると毎時7〜8㍃シーベルトのところがいっぱいあった。津島のトンネルを通ると簡単に振り切れてしまう。毎時30㍃シーベルトくらいあったのかな。
 今みたいにベクレルで放射線量を測る機械は手に入らないから、部品を取り寄せて自分で測れるようにしたんです。浄化槽の大きなタンクに放流するための水があるんですけれども、それに透明のビニールを入れて外の放射線を遮蔽するわけですよ、水で。その中で測った。危ないかどうか判断できる目安にはなりました。保健所にもデータをあげて。従業員も生活があるから、そろそろ戻ってくると思ってね。
 しかし、きのこ類は高かった。いのはなは15万ベクレル/㎏。あと、みょうが、たけのこ、びわなども高かったね。その汚染された数値を見たときは政治家に腹が立って、官房長官が言った「直ちに健康に影響はない」って、この野郎、テレビに出てくるんじゃねえって。あれには今も腹が立っているんだけど、何を根拠に言ったんだろう。パニックにならないように嘘をついたんだろう、あれは。
 被ばくでいちばん気になるのは、ヨウ素です。ずっとセシウムで騒いでいるけれども、ヨウ素というのは当初測る手段がなくて、確認していない。あれが危険だったのは実感としてあるんです。
 5月頃でした、その当時は、従業員が数人と家内も戻ってきていたから、家の周りの草を刈ったんです。そしたら涙がすごいんです。マスクをしてもボロボロ落ちてくる。鼻水も出てくるしマスクがドロドロになるんだ。家内にも家の前の金木犀を刈ってと頼んだら、すぐにいなくなった。「2回パチンパチンとやったら目を開けていられないんだ」と。
 土から吸ったヨウ素が細くなった枝で濃縮されて、飛び散ったんだと思う。これはぜひお伝えしたいことです。

「直ちに健康に影響はない」は嘘だ。6月にはそんな症状もなくなったから消えた。皮膚は露出してはいけないレベルだった。子どもには浴びさせちゃいけない。

■補償が出る出ないで地域が分断される
 特定避難勧奨地点に指定された世帯は、おそらく避難していて、除染をしていなかったところが多かったんじゃないかな。私はここにいないといけないから、早くから一生懸命除染した。土をはいだり、入れ替えたり。行政が測りに来たのは2011年の10月頃。ずいぶん遅かった。測り方もいい加減で、玄関から2メートル離れたところを測る。そんなところは除染しているから低いのは当たり前だ。
 最初は指定されなくてよかったと思った。自分のところが低いわけですから。しかし、時間とともに心というものは動くわけですよ。しばらくすると補償問題になる。あんな不備のある測り方で補償がもらえないのはおかしいでしょう。それでも平田安子さんらの動きもあって勧奨地点とは同等とはいかないけど、ADR(原子力損害賠償紛争解決センター)に訴えて、それなりの補償が出ることになった。あのままだったら、分断されて地域がバラバラになっていた。場所によってはそうなっていますよ。

■汚染量が上がる理由が知りたい

 20㍉シーベルト撤回訴訟に関しては、私自身は会社のことで忙しいので、かかわっていないんです。でも、原告たちがやっている尿検査には参加しています。
 2011年10月頃に、ある議院が話をつけてホールボディカウンターを手配してくれたんだ。希望する人は連絡をくれと言うのでかけたら、健康診断するようなバスがやってきて。その中に入ると「ここに座ってください」と。こんなので体内の放射能なんて測れっのかな、と思ったね。そしたら、「1万5千ベクレルです」と。「誤解しないでください、あくまで数値です」と言うんだ。でも、この数値はおかしいということになって、「訂正するとこうなります」という数値があとから来たんだが、そのあとまた連絡が来て、「前の数値はあてになりません」と。結局、わからないんです。どれくらい被ばくしていたのか。
これからだって、極力自分で被ばくしないようにしていくしかない。会社に測定器があるので、自分で食べるものもたまに測っています。5〜10ベクレル./㎏は出ます。たけのこは昨年、150ベクレル/ッ㎏出ました。あれは不思議です。おととしは低かった。竹から葉っぱが落ちて腐葉土になるまでに時間がかかるけど、その時期も影響しているのか、いまだに高くなる理由は研究する意味はあると思います。
 毎時20㍉シーベルトでいいと言われても、いつもその中で生活するのは嫌だよな。実際に経験していない人に、問題ないと言われても納得がいかない。学者でもここで震災直後から生活して発言している人はいないじゃないの。問題ないと言っていて仮に将来なにかあったら責任はとれるんですか、と言いたい。
だから、事故直後の被ばくを記録として残してほしい。誰も信用しないんだ。当時の症状のことを言っても医者も信用しない。学者も経験していないから、わかったようなことを言うけど、わかっていないね。

■人がいないと文化が成り立たなくなる

 政治や国家というものは簡単に壊れるものです。 
 この地域は、将来が見えなくなってしまった。いま人がいないところは厳しい。人がいて文化が形成されてこそ地域が成り立つわけですから。人がいないところでは文化が成り立たない。土地と建物があっても元には戻らないよ。住まないと家もだんだん朽ちていくし、戻ってきている人も年配の人だけだから。10年15年したら次世代が戻ってくるかと言ったら、もう戻って来ないでしょう。
 会社は、震災から1年くらいは、売上げが2割くらいまでに落ちました。18年現在で7割戻ってきています。気がかりなのは、とにかくこの地域が生き残っていけるのか、ということ。このままでは、会社も子どもに無理に継げとは言えないし、瀬戸際だと思います。

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和田秀子/hideko wada
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