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ドラマ「ワンダヴィジョン」感想 ~枯れたシットコムの水平思考~

※ネタバレがあります。ご注意下さい。「ワンダヴィジョン」を6話まで見て、書いております。

①楽しく不穏なシットコム

昨年末に「マンダロリアン」を見るために契約したディズニープラスで、ふとしたことから「ワンダヴィジョン」を見始めた。

予告を見て、どうやらシットコム+SFという、稀に見る融合をやろうとしていることを知った。
これまでマーベル作品には正直に言ってまったく付いていけず、「アベンジャーズ 」1本を見ただけの私だったが、この「ワンダヴィジョン」は本当に大当たりだった。

1話は「奥様は魔女」パロディのシットコムから始まる。
まず特筆すべきは、この作品は「普通にシットコムとしても楽しい」ということである。
普通に楽しい。しかし、徐々に不穏な何かが漂ってくるのである。
単なる懐古趣味的シットコムでないことは、ラストのエンドクレジットを見ても明らかにわかるようになっている。

②三谷幸喜

なかでも、色の使い方は見事だ。
モノクロの世界の中に、CM中の機械のランプだけがなぜか意味ありげに赤く光る。ラジコンヘリや意味ありげなパーツだけに色がつく。
黒澤明の「天国と地獄」あるいは「シンドラーのリスト」風のパートカラー手法とでもいうべきか。

話数が進み、徐々に状況がわかってくると、現代的なSF要素、連続ドラマ的な謎解きや伏線回収もありつつ、しかも普通にシットコム部分も面白い(が不穏な違和感はある)という、とんでもないこと(!)になってくる。

三谷幸喜が見たら(見てるだろうが)、泣いて悔しがるだろう。
私は「振り返れば奴がいる」を小学生で見て以来の三谷幸喜ファンだが、残念ながら、この「ワンダヴィジョン」は近年の三谷作品が到底かなわない域に達している。(勝手に比較してごめんなさい!)

③「枯れた技術の水平思考」

ゲーム開発者の横井軍平さんの有名な言葉に「枯れた技術の水平思考」というものがある。
使い古され定番化した技術を、今までになかった使い方をすることで、新しいものを作る、という意味と私は解釈している。この「ワンダヴィジョン」というドラマは、シットコムという枯れたドラマ様式を、SFや謎解き、伏線回収といった現代ドラマ的手法を用いて、見事に蘇らせている。

「フルハウス」「アルフ」「フォルティタワーズ」「H.R.」「ママさんバレーでつかまえて」といった、いわゆるシットコムを熱心に見てきた私としては、シットコムというジャンルを、マーベルという現代のメインストリームの中に蘇らせようとした心意気が嬉しい。
逆に言えば、シットコムはもうストレートには成立しづらいジャンルという死刑宣告とも捉えられる、、、かもしれない。

ワンダが死んだヴィジョンを不思議なパワーで蘇らせたように、この作品はシットコムというジャンルをも蘇らせたのである。

④余談「ウォーリー」の場合

さらに余談だが、他にも「私の好きな枯れたジャンルを復権させてくれた!」と以前に感じたのは、ピクサーの「ウォーリー」である。
「ウォーリー」のオープニング。私はこれを劇場で一人見て、感涙した。MGMミュージカル風(だが20世紀FOX)映画の最後の作品とでも言うべき「ハロー・ドリー」の1曲「Put On Your Sunday Clothes」が流れる中、まるで「2001年宇宙の旅」あるいは「スターウォーズ」のごとく宇宙空間をパン、太陽光線がカメラの中に反射しキラめく中、ゴミだらけとなったディストピア的地球に急速に近づいていく。ミュージカルとSFのコラボ! 両方が大好きな私はこのオープニングの一瞬で、感涙だった。
また、作中でウォーリーや宇宙船の船長は「ハロー・ドリー」のミュージカルシーンを、「在りし日の人類の素晴らしく美しい日々」として見て、憧れている。この作品の中で「ハロー・ドリー」はただのミュージカル作品でなく、人類の輝かしい時代、幸せな時代の象徴となっているのだ。20世紀にもっとも繁栄した国であるアメリカ、そのアメリカのもっとも華やかなりし時代を象徴するMGMミュージカルーーそれは人生を謳歌し、ただただ美しく楽しい、スターたちの競演だった。

MGMミュージカルの映画群は、正直言っていま見れば退屈な部分も多々あるのだが、「消費社会の末にゴミだらけになった未来の人類から、過去の理想として顧みる」という視座を作ることで、MGMミュージカルは見るべきものとして蘇ったのである。

私自身も同じようにして、MGMミュージカル作品を見ていた。
新入社員の頃、毎日の通勤を楽しいものとするため、iPodで「雨に唄えば」「バンドワゴン」「ハロー・ドリー」「パリのアメリカ人」などを耳に流して、憧れていた。まるで悩みなど何もないかのような、美しく明るいだけの作り物の世界。それがMGMミュージカルの世界だ。それを心の支えに東京の地下鉄で、もみくしゃにされながら仕事に行くかつての自身の姿を、「ハロー・ドリー」を流しながらディストピア的地球で永遠のゴミ掃除に従事する「ウォーリー」に、重ねて見てしまったのである。

「ウォーリー」は、枯れたミュージカルというジャンルを、SF的な視点と、「郷愁」とでも言うべき、失われてしまった美しいものに対する憧れにより、蘇らせてくれたのだ。

⑤「ワンダヴィジョン」に通底する悲しみ

「ワンダヴィジョン」の原動力にも、「郷愁」あるいは「失われてしまったものへの強い想い」がある。
ワンダはどうやら、死んだヴィジョンや死んだピエトロを蘇らせたようだが、それはトラウマーー親しい者たちが永遠に失われてしまった悲しみに耐えられないーーという思いによるものらしい(現在6話まで見た感じだと)。
その末に「シットコム」という笑いに満ちた幸福なドラマ様式のなかに、親しい者たちの死をも覆いつくすように、自らと周囲を埋没させている。

「ワンダヴィジョン」は、設定自体は「トゥルーマン・ショー」にも似ているが、その精神は「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲」に近い。
オトナ帝国では大人たちは「昭和」の郷愁の香りのなかにどっぷり浸っていた。その中でヒロシは1970年の大阪万博の思い出に埋没していたが、しんのすけに嗅がされた自らの「靴下の臭さ」をきっかけに、彼は目を覚ました。ワンダにとっての「ヒロシの靴下」は何になるのか。オトナ帝国と同じく子供たちが契機になりそうに思う。

子供たちの成長を前に、大人はいつまでも郷愁の中に埋没していることは出来ない。

とにかくこれからがすごく楽しみだ。

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