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誘いの口づけ

「……ねぇ、キスして?」

潤んだ瞳で、キスをせがまれる。
首に回された細く白い腕。
形のいい唇に塗られた、紅いルージュ。
今、自分の置かれている状況を飲み込めなくて、思わず息を吐く。

「……早くキスして? じゃなきゃ、奪っちゃうよ?」

背伸びをしたクルミの唇が、ゆっくり近づいてくる。

「怖いの? 私とキスするの」

挑発するようなその言い方に、煩くなっていく心臓の鼓動。
どうして、突き放せない?
この腕を振り払わなければ。
その意志は次の瞬間に、脆くも崩れ去った。

クルミの唇から漏れる、甘い吐息。
一度重ねてしまったら、もっと重ねたくなる感触。
それでも必死で理性を取り戻して、クルミの顎を掴む。

「一体、どういうつもりだ? お前は仮にも……」

口づけに奪われた、その先に続く言葉。
クルミの妖艶な表情に、誘われるように、夢中で唇を重ねる。

「……くだらないことは聞かないで。あなたも、確かめにきたんでしょう? 私が、どんなオンナなのか」

まるで、最初から俺が来ることを予知していたかのような言い方。
そう、彼女の言うとおりだ。俺は確かめにきたはずなのに。
口づけに誘われた俺は、心の奥底にまで染み渡るような、甘く痺れる刺激に酔いしれる。
それでも足りなくて、もっと欲しくなって、夢中で貪るように、クルミの唇を味わう。


◇◇◇◇◇

「……わかった?」

少し乱れたシーツの上で、満足そうな笑みをたたえるクルミ。
その笑顔の裏で考えていることが読めなかった。

「どうして、お前は俺に……」
「抱かれたかって? やっぱりあなたってば、ずいぶんとくだらないことを聞く人なのね」

会ったばかりのその瞬間にキスをせがまれて、名前も知らない俺に抱かれるのを拒まないのだから。
これ以上関わるなという警告信号を打ち消して、もっと知りたくなるのが性。

「あなた、名前は? 私のことは、知っているんでしょう?」

クルミはベッドサイドに置いてある水を一口飲むと、当然とばかりに俺の上に乗って口づける。
まだ熱の冷め切らない身体に、再び押し寄せる甘い痺れ。クルミの唇は、さっきまでとは打って変わって冷たかった。

「俺は、菊地撤平(きくち・てっぺい)」
「……撤平、ね? 私は、」
「クルミだろ? 皆川(みながわ)クルミ」
「あら、フルネームまで知っててもらえてるなんて」

からかうように笑って、また重なる唇。

「君は……有名な女(ひと)だから」

俺の周囲で、クルミのことを知らないやつはいないかもしれない。

「……あら、どんな風に有名なのかしら? 誰とでもキスするオンナ? それとも、誰とでも寝るオンナ?」

吸い込まれそうなほど真っすぐな瞳で、見据えられる。どっちも嘘ではないけれど。
クルミに会いにきた理由は、知りたかったから。

「駿一(しゅんいち)を、殺した女」

女には決して本気にならなかった駿一が、唯一本気になった女の素顔を。
そして、なぜ駿一が死ななければいけなかったのかを。一瞬凍てついたクルミの表情は、すぐに妖艶な笑顔に変わる。

「……そう、私のフルネームまで知ってるなんて、駿一のお友達なら納得だわ」

クルミは俺の上から降りると、カーテンに手を伸ばした。
既に暗くなった空には、クルミのように妖しげな光りを放つ満月が、ぼんやりと輝いている。
空の彼方を見つめるクルミを黙って見据えた。

「撤平、だっけ?」
「あぁ……」
「誰とでもキスするオンナっていうのは嘘。誰とでも寝るオンナっていうのもね。こう見えても私、ちゃんと選んでるのよ? 誰とでもキスはしないし、セックスもしない」
「どんな風に選んでるわけ?」

俺にキスをせがむまで、出会ってから僅か数分だったというのに。
セックスまでの所要時間ですら、僅かその数分後。

「口で説明はできないわ。インスピレーションというか、そうね、その唇に、触れてみたくなるっていう感覚かしら?」

クルミの細い指が、ピアノの鍵盤を弾くように俺の唇の上で踊る。
背中から、ゾクゾク襲ってくる快感に堪えられなくなって、クルミを組み敷く。

「でね、キスをして何かを感じられる男としかセックスはしないの。だから、誰とでも寝るオンナっていうのは、真っ赤な嘘なのよ」

普通の女ならば、そんな風にキスをしたり、セックスをしたりしないだろう。
クルミなりの持論に苦笑いする。

「……じゃ、駿一を殺したのは?」

“殺した”といっても、本当にクルミが駿一に手をかけたのではない。
誰がどうみても、駿一の死は事故だったから。

「あなたも、駿一と同志なのね」
「俺と駿一が、同志? それは心外だな」
「撤平は自分で自分のことがわかってないのよ。あなたも駿一も、オンナに本気になれない“同志”。私はそんな駿一や撤平だから、本気にさせたいのかもしれない」

俺が女に、本気になれないだと?
俺は駿一と違って、ずっと真面目に奈保(なほ)と付き合ってるというのに。
俺の考えていることが、まるでお見通しとばかりに、クルミに唇を塞がれる。

「あなたが彼女に嘘偽りのない愛情を注いでるのだとしたら、あなたは私に会いになんてこないわ。どこかで違う何かを求めてたのよ。だから、駿一が堕ちたオンナに、会いたくなった。駿一が堕ちたオンナの顔を、拝んでみたくなった。違う……?」

狂おしいほどに、続く口づけ。
息継ぎさえまともにさせてもらうことを許されない。
痛むのは、奈保を裏切ってクルミと身体を重ねているという事実ではなく、そのクルミに一瞬にして溺れてしまった、自分自身の愚かな存在にだった。

「私を征服したくなるでしょう?」

挑戦的な表情の裏には、私を征服できるオトコなんていない。強い確信で満ち溢れていた。


◇◇◇◇◇

「ねぇ、撤平。これ、お兄ちゃんの部屋から出てきたんだけど……。例の彼女のものかな?」

奈保から差し出されたのは、黄緑色のピアスの片方。奈保を裏切って、クルミを抱いた夜のことを思い出してしまう。

「……さぁ、どうかな? 彼女のものだとは限らないだろう」
「そうよね、お兄ちゃん、いろんな女(ひと)とお付き合いしてたみたいだし。もう女の敵よね。きっと天罰が下ったんだわ」

口では悪く言っても、駿一と奈保は仲のいい兄妹だった。
たった一人の兄を亡くしたばかりの奈保の、心の痛みを考えるだけで、クルミとの情事を心底後悔する。

「このピアスは、俺が預かっておくよ。今度、駿一の墓参りに行くとき、持ってってやろう」
「……ん、お願いね」

またクルミに会える。
もう二度と会ったらいけないと感じてた罪悪感は、警告信号ともに消え去った。

自分の気持ちをごまかすために、奈保に口づける。奈保に気づかれたらいけないんだ、絶対に。

俺が奈保に本気じゃない?
そんなことはありえないから。
それを確かめるために、何度も奈保に口づけるのに、心の中が満たされない。

それどころか、思い出されるのは、クルミと交わした口づけばかり。
そんな邪心を振り払うように、奈保を求めた。


◇◇◇◇◇

隣で安心したように眠る奈保。
こいつを、確かに好きなはずだった。

ベッドから抜け出して、さっきポケットにしまったピアスを取り出して眺める。
クルミには、似合わない色だけれど、駿一の性格から考えても、本気じゃない女の忘れ物など、大事に取っておくわけがない。
片方だけのピアスを取っておくなら、それは駿一が唯一本気になった、クルミのものなんだろう。

「……撤平?」
「あ、ゴメン、起こしたか?」

なぜか目を潤ませながら、起きてきた奈保は、そのまま俺に抱き着いてきた。

「……奈保? どうした?」

普段はあまり涙を見せない奈保。
駿一がいなくなった夜に、初めて見せられた涙。

「……怖い夢、見ちゃった。ごめんね、心配かけて」

泣き笑いする奈保が痛々しくて、抱きしめる腕に力を込める。

「どんな夢を見たんだ?」
「ん……撤平が、いなくなっちゃう夢。お兄ちゃんみたいに……」

消え入るほど、弱々しい奈保の声に、心臓がわしづかみされたかのように苦しくなる。

駿一みたいに?
ありえないことだと、笑い飛ばしてやりたいのに、手には妙な汗が流れる。

「……お願い、約束よ、撤平?」
「いなくなるわけ、ないだろう?」

優しく奈保の髪の毛を撫でると、安心したのかやっと笑顔になってくれる。

「よかった。この間の土曜日から、ずっと同じ夢見てたから、正夢になりそうで怖かったの」

この間の、土曜日から?
手がワナワナと震える。
その土曜日に、興味本位でクルミに会いに行き、クルミの口づけに、誘われたのだから。

偶然の一致と呼ぶには、まるで今後の俺たちを予知するような夢。
もう、あの女に関わるのはやめよう。
そう固く心に決めて、奈保を抱きしめた。


◇◇◇◇◇

口づけに誘われるように、再びクルミの元を訪ねたのは、それから僅か三日後のこと。
降りしきる豪雨の中、奈保を送り届けたその足で、クルミの部屋のインターフォンを鳴らす。

すぐに玄関のドアを開けたクルミは、俺の顔を見るや否や唇を押し付けてくる。
甘い吐息が、一瞬にしてまた俺をクルミへと誘う。

「……そろそろ来ると思ってたわ」

よほど自信があるのか?
妖艶な表情をしたクルミに、奈保が駿一の部屋で見つけてきたピアスを手渡す。
まるでどこに落ちていたのかを、最初からわかってたかのように、クルミは表情一つ変えなかった。

「この石、私の誕生石なのよ」

ピアスを受け取ったクルミは、悲しそうに目を伏せた。

「誕生石って、何月生まれなんだ?」
「……8月よ。駿一が事故に遭った日が私の誕生日だったの」

思い出される、事故の瞬間の残像。
見えないクルミの心に、一瞬だけ触れたような気持ちになれる。

「……なんて石なの?」

誕生石なんて、興味ないけど……。
知りたいと思ったのは、俺は自身もクルミの口づけに誘われ、堕ちていくしかないからなのか?
僅かに残っていたはずの“理性”なんて愚かなもの。

「……ペリドットよ」

それは、クルミの答えとともに、あっさりと口づけの向こうに溶けていった。

関わらないと決めたはずなのに。
その唇に。その身体に。
その心に。
あっさりと誘われ、支配されていく。

溶けるような甘く熱い口づけも、時折零れる声も全部閉じ込めて征服したくなるのはなぜだろう。
口づけを重ねた数だけ、比例するように増していくばかりの独占欲。
言葉の代わりに、クルミの身体中に俺の征服の証をつけていく。

そんなことをしても、クルミの心までは支配できないのに。
俺以外の、同じような証も消し去りたくて、その上に唇を這わせる。

「オトコって、愚かな生き物ね。私をそんなに征服し……」

口づけとともに、クルミの言葉を奪った。


◇◇◇◇◇

どんよりと降り続く雨の中。
ひたすら車を走らせる。
駿一が事故を起こした夜も、こんな風な夜だった。
悪い予感を打ち消すように、アクセルを踏み込む。

「そんなに私を独占したいなら、命をかけてよ」

あの夜の、クルミの言葉。
妖艶に笑うその裏側に垣間見ることができた、何かを思い悩む表情。
奈保の笑顔を思いだして、奈保を泣かせたくなんてないのに。時間が経つにつれて、またクルミへと誘われていく。

クルミの、“命をかける”という言葉の意味がわからないまま、それでも囚われてしまった心は、早くクルミを独占したがっていた。

視界がどんどんと悪くなっていき、たまらずハザードランプを出し、車を停める。
打ち付けるような雨に、FMの音も掻き消されていく。

車のダッシュボードから、小さな箱を取り出して中を開ける。
いつか奈保にするとばかり思っていたプロポーズ。
指輪に刻印されているのは、奈保のイニシャルではなく、クルミのものだった。

意を決して、空を仰ぐ。
止む気配のない雨。
全てを終わりにするには、ちょうどいいのかもしれない。

一段と強くなっていく雨は、俺と奈保の終焉にも、俺とクルミの始まりの夜にも、相応しいはずだから。

急ごう。
急がなくては。
雨が止む前に、奈保のところへ。
真実を伝えに。

その箱をポケットにしまうと、俺は再びアクセルを踏み込んだ。


◇◇◇◇◇

突然の俺の訪問に、何かを察したのか、いつもとは明らかに様子の違う奈保。
落ち着きない様子で、コーヒーをいれてくれると、俺の目の前に座る。

「……奈保、あのな」

空が明るくなる前に。
この雨が止む前に。
早く真実を伝えなければ。

焦る心を、隠すようにコーヒーを口にした。
その瞬間、いつもとは明らかに違う味に、思わず持っていたカップを落としてしまう。

舌と指が、どんどんと痺れていく。視界がぐにゃりと曲がる。

「……な、ほ?」
「お兄ちゃんを殺したオンナを、好きになった罰よ」

コーヒーカップに残る僅かな毒を、無理矢理飲まされる。
身体全体が痺れていき、吐き出すこともできなかった。

「私が覚醒させてあげるから。あんなオンナに堕ちた撤平を、迷いから醒まさせてあげる」

遠くなっていく意識の中で、最後に見た奈保の表情は、今までの中で一番悲しげだった。

「さようなら、撤平。お兄ちゃんに会ったら……謝っておいてね? お兄ちゃんには、真実を伝えられなかったから。殺して、ごめんねって。お兄ちゃんのこと、大好きだったから、殺すしかなかったのって」


fin


ゆいさんの企画に参加しています。
読み返して、これでゆいさんの心に触れられるようなお話なのか、とても自信がないので、期間内に違う角度から挑戦できたら、しようと思います。




いつか自分の書いたものを、本にするのが夢です。その夢を叶えるために、サポートを循環したり、大切な人に会いに行く交通費にさせていただきます。