私の人生を生きる女優

自分が生まれたこと、自分についた自分の名前。
自分の意思とは無関係に人生が進むことって、これ以外にもたくさんあるだろう。
生まれ育った環境によって、得ることのできる知識や経験も当然違う。やりたいと願っても、幼少期は家庭の事情でどうにもならないこともある。
それらすべてが、自分の意思ではどうにもならないことで、ある程度大人になるまでその少し窮屈に思えるような環境で過ごさなければならない。

そんな風に考えると、自分自身で選択し決定することができるようになって初めて「後悔」という言葉を覚えた気がする。

だけど、その「後悔」は不要だったのか?

もし、「後悔」を知らない人生を歩めたら、幸せだったのか?

乗り越えられない試練は与えられない。

その言葉を信じていたことがある。
今はどんなに辛いと思うことにも、必ず意味があると。
あなたなら、乗り越えられるから与えられた試練なのだと。

もちろん、絶望のどん底にいるときに、その言葉を投げかけられたところで、そんな簡単に前向きにとらえられない。
未来に一筋の光を感じられないから、どん底なのだ。
しかもそれが本当に1番の底なのか、それすらもわからない。一歩前に進もうともがけば、さらに奈落の底に落ちるかもしれない。

だけど、サラさんのこちらのnoteを読んで、心がすっと、軽くなった。

自分の人生、誰のせいでもない。

私は、私自身が乗り越えられると、自分を信じているから、歩いている。
私は、私自身が選んだ人生を進んでいる。

生まれた瞬間に、自分の描いた人生のシナリオを忘れてしまった。だって、答えのわかる人生なんて、面白くない。だけど、私は私自身が選んだ人生を、間違いなく歩いている。

ほんのいっときの後悔は、長い人生の中で見たら、小さなものだ。でもきっとその後悔は、いつか眠る夜空の星となって輝く気がする。

猫野サラさんのこちらのnoteを、私なりにリライトしてみました。

人生の最期は、まだ何も見えません。今望んでいることが叶うかどうかもわかりません。だけどそれも自分の選んだシナリオなら、きっと美しい景色を見られるはず。サラさん、素敵なnoteを読ませていただき、ありがとうございます。


参加しています。

2020.11.26

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いつか自分の書いたものを、本にするのが夢です。その夢を叶えるために、サポートを循環したり、大切な人に会いに行く交通費にさせていただきます。