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いつもきれいなお姉さん

私は自分にラベルを付けるのが好きなのよ。と、彼女はその滑らかな手にハンドクリームを塗りながら、半ば独り言のように教えてくれた。
僕の意識は彼女の爪先にあしらわれたラインストーンに釘づけで、正直前後の文脈をあまり聞いていなかったから、そうなんだ?と間の抜けた返事をする。

あなたが私に付けたラベルもなかなか気に入ってるわよ。
わざとはっきりした口調で言って、僕の意識をきらきらの石から彼女自身に引き寄せてくる。
僕は彼女の瞼にあしらわれたラメ入りのグラデーションに意識を移行して、うん、と頷いた。

僕が付けたラベル?いつもきれいなお姉さん、ってことかな。
いつもきれいで、美味しいごはんを一緒に食べてくれるお姉さん。
たまに、駅までの道すがら、コンビニで買ったソフトクリームを舐めるお姉さん。
睫が長くて、奥二重で、目の下に小さなほくろがあって、あ、今日は目が充血気味のお姉さん。
小ぶりすぎて何の石かわからないペンダントの飾りが鎖骨の間に乗っかっているお姉さん。
うん、お姉さん、やっぱり今日もきれいだよ。

彼女はスマホの画面を滑らかにスライドさせて、僕に一枚の写真を見せた。
何度もその画面で見たことがある、毛の長い猫の写真。
未だその猫に何というラベルが付いているのかは教えてもらっていないけれど、僕は心の中で勝手に「どんぐり」というラベルを付けている。
だって、真っ白の身体にぽちっと茶色い鼻がついていて、それが小さなどんぐりみたいなんだ。
いつか生でご対面することがあったなら、きっと僕はその猫に向かって「どんぐり!」と呼んでしまう。かなりの高確率で。

彼女のひとつめのラベルは、アヤカ、という。
ふたつめのラベルは、IT系のOL。
みっつめのラベルは、さっき言ったとおりの、いつもきれいなお姉さん。
ご友人の前では「親友」とか「友だち」というラベルが付いていて、ご両親の前では「娘」、他の男の前では「彼女」なんてラベルが付いているのかもしれないし、付いていないのかもしれない。
そういえばこの人、僕のラベルはあまり口に出さないな。
あんまり好きじゃないんだろうか。

彼女は手の上の「どんぐり」が、いつどんな状態でこうして画面に収まったのかをていねいに説明してくれた。
この子は寒いとこうして足を全部お腹の下に片付けて寝るのよ。
扁平な塊になったその猫は、ますますどんぐり部分を強調する見た目になっていて、思わず笑った。
何だっけ、これに似たものを百貨店の地下で見たことがあるぞ。白いお餅にひとつだけアーモンドみたいな木の実が乗った…どこの何ていうお菓子だっけ。
僕はそのお餅のラベルも、そのお餅を生んだお店自身のラベルもすっかり思い出せないまま、目の前の「どんぐり」の写真を眺めている。

思えばラベルをきちんと覚えているものって、そんなにないのかもしれない。
30歳を過ぎたばかりの僕がこんなことを言うのはまだまだ早いのだろうけれど、年齢を重ねるごとにアレコレソレで会話をすることが増えてしまって、しっかりとラベルを意識するのは割と珍しいケースかも、と思う。
それとも、たまたま僕がラベルにあまり注意を払わないタイプの人間なんだろうか。
例えば「情報通」っていうラベルが付くような人生を送っていたら、僕の脳みそにはいろんなラベルがびっしりと規則正しく並んでいたかもしれないな。

彼女は「どんぐり」の写真についてひととおり説明してから、僕に感想を促した。
お餅に似てて可愛いね。そう言うと、満足げに微笑んで画面を消す。
あぁやっぱりきれいだなぁ。

僕が彼女に付けたラベルは「いつもきれいなお姉さん」。
彼女にそれを伝えたことは一度もないのに、僕が見惚れる様を見て、しっかり伝わっちゃっているのだろう。
ちょっと恥ずかしいけれど、それを好きだと言ってもらえたのだから今夜の僕はご機嫌だ。

コートを着込んだ彼女の背を見つめる形で、特に何かを話すでもなく駅まで歩く。
じゃあまたね、と逆側のホームへ向かう「いつもきれいなお姉さん」の残り香にどんなラベルを付ければいいのかを考えながら、僕は電車の席に身体を預けた。

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