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キャラクターに魂を吹き込んでいるのは声優だけなのか

私の友人には声優志望の女の子がいる。その友人に声優になりたい理由、また声優が好きな理由を聞いてみたところ、「声優さんはキャラクターに魂を吹き込んでいるから。声優さんは神様だから。」とのことだった。

また以前YouTubeのとある動画で声優志望の人が「声優は魂を入れる仕事」と表現しているのを目にしたことがある。

このような意見は、声優志望や声優ファンを中心にネット上でたびたび目にすることがある。

ここで私の中に一つの疑問が浮かんだ。

はたしてキャラクターに魂を吹き込んでいるのは声優だけなのだろうか?


脚本家や監督を含むアニメーター、またその作品に原作があるならばその原作者は?

どうにも彼女彼らの言う「魂」は限定的に感じてならない。

ネット上には「アニメーターや原作者は肉体を作っていて、声優は魂を入れている」という意見も見られた。しかしそれではまるで、アニメーターや原作者が創り上げたキャラクターはガワだけで、魂がないと言っているようなものではないのか。

声優が読み上げているその台詞は、原作があるならば原作者が、原作がないものなら脚本家や監督が考えている。まるでその人たちが蚊帳の外になっているようで解せないのだ。

キャラクターが話す台詞・動作・言動・仕草、それらを「魂」とは表現せず、あくまで「肉体」とだけ表現しているところに思わず残念な気持ちになってしまう。

「声優さんはキャラクターに魂を吹き込んでいる」という言葉には、作品を作り上げている他の職業の人たちに対して失礼ではないのか。私はそう思わずにはいられない。

彼女彼らの言う言葉には、どうにも声優だけが特別になっていて、アニメーターや原作者が同等の扱いではないような印象を受けるのだ。


さて、ここで補足しておきたいのは、私は「声優がキャラクターに魂を吹き込んでいる」という点を否定する気はないということである。

しかし、声優「だけ」がキャラクターに魂を吹き込んでいるのかと言われれば、それは否定せざるを得ない。キャラクターに魂を吹き込んでいるのは声優だけではないだろうと、私はそう考える。


例えば、原作ファンがアニメ版を観た際に「声がイメージと違う」と発言することがある。『進撃の巨人』がアニメ化した際にはネット上で「リヴァイの声がイメージと違った」という意見が多く上がっていた。そのキャラクターのイメージとは、原作者の頭の中で生み出され演出されたものである。原作者がそのキャラクターを心優しい青年として描けば、優しく穏やかな声が無意識に読者の頭の中で流れる。

例えば、アニメにおいて良質な動画を神作画と呼ばれることがある。殺陣のシーンなど、アニメーターによっては実際に偽物の刀等を使って動きを確認したり、ポーズをとるなどしながら描くこともあるという。いわばアニメのキャラクターの動きとはアニメーター自身の演技であり、演出である。泣いているキャラクターを描くとき、その泣き方は描くアニメーターによって様々だ。どう泣くのか、どう泣かせるのか、それはそのアニメーターの演技と演出次第なのである。

これらの現象こそ、「声優だけが魂を吹き込んでいるわけではない」と言える大きな証拠なのではないだろうか。

キャラクターとは、声優を含めその作品に携わった全ての人間によって魂が吹き込まれているのだと。


それでも「声優だけが魂を吹き込んでいる」という声優志望の人間がいるのならば、その人にとっての「魂」とは「声の演技」のことなのだと思う。しかし何度も言うがそれは非常に限定的すぎるし、作品に携わった他の職業の人に失礼ではないかと思うので今一度考えてみてほしい。


今日において、声優は若者に非常に人気な職業となった。俳優然り声優然り、表に出る職業が人気となるのはどの業界においても共通していることだろう。

しかし声優を目指す人の中には、上記のような声優だけを特別視する人、キャラクター=声優だと考える人も少なくはない。

ファン側がキャラクターと声優を同一視することは、私はなんら自然なことだと考えている。ドラえもん役の声優に対してドラえもんだ!と言うのも、ピカチュウ役の声優に対してピカチュウだ!と言うのも、まぁよくあることである。

しかしながら声優側が、私は〇〇(キャラクター名)だ!と、例え口には出さなくともそういった意識は持つべきではないだろう。

あくまで声優とは役者であり、アニメーターや原作者は原案・監督・脚本家・演出家である。それぞれがそれだけの存在だ。

アニメにおいてキャラクターの魂とは、彼らそれぞれの、全員の力があってやっと吹き込まれるものなのではないだろうか。


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