見出し画像

後期課程を振り返る

私は以前、進学選択で工学部システム創成学科知能社会システムコースに進学するまでの経緯を書いた。その後どのような後期課程を過ごしたかという記録、そして備忘録である。


新生活の2A (2021/10~2022/03)

授業についていけるか?

以前書いた記事の通り、「情報系、経営系、社会・経済系をバランス良く勉強するぞ!」と希望を胸にPSIに進学した。PSIの限定選択科目をたくさん取り、20コマくらいのスケジュールを必死にこなした。

毎日ヘトヘトであった。

基本的にはオンライン授業で始まったため、生活が変化することはなかったが、やはり数学や物理に苦しめられた。進振りまでの準備も虚しく、2Aは微分方程式、線形代数、流体力学、材料力学などほとんどの科目で同期に解法や解答を教えてもらう乞食となっていた。

幸いレポートや出席点の占める割合が大きかったり、試験が過去問通りだったりなどで、無事に2Aで履修した授業の単位をフルで取り終え、乞食の期間が落ち着いた。助けていただいたみなさんに感謝すると同時に、これから工学の道を進むのであるから、数学や物理への苦手意識は2Aで捨て去ることを決意した。

TEDxUTokyoに入る(2021/11)

授業を受けているときに、PSIの友人のSlackに「TEDx」という文字が見えた。どうやらTEDxUTokyoという団体に入っていることを聞き、興味を持って団体の代表や副代表と話をすることになった。

自分が学生団体を引退して新たに所属するコミュニティを探していたこともあり、タイミングがピッタリで、意気投合してほぼ即決でジョインすることになった。Off-StageというTEDxイベントのトーク以外のコンテンツを作り上げるチームのリーダーとなり、次々と入ってくるメンバーと共にチームビルディングをしたりイベントの企画を練ったりした。年明けぐらいに自分がコロナにかかり企画が止まりそうになったが、チームに支えてもらいながら進めることができた。正直授業の負担も相まって一瞬飛びかけたが続けられたのは気にかけてくれた同期のおかげである。

2022年2月にはSalonという小規模なイベントを開催し、反省点は多いながらもOff-StageがTEDxイベントにおいてどういう位置付けなのかを掴むことができた。このイベントがうまく行ったからこそ、自分の中のコミットとやりがいがだんだん増えていった。春休みはたくさん旅行をしつつも6月に行われるTEDxUTokyoのメインイベントに向けて企画構想を深めていった。この頃にはオフラインの対面ミーティングがだんだん増えて、直接他者と向き合いながらミーティングすることが新鮮で楽しかったのを覚えている。


小規模だったが、確かな成功体験であった。

TEDxと留学準備の3S (2022/04~2022/08)

TEDxUTokyoにコミット

3Sが始まり、6/12のメインイベントまで1ヶ月半を切ったところから、TEDxで忙殺されていった。

4月の新歓を経てチームのメンバーが大幅に増え、イベントの規模もSalonとは比べ物にならないほど大きいものであった。あちこちの調整、企画へのフィードバック、他チームへの情報共有など様々なタスクに追われていた。授業外の時間のみでは到底終わらず、授業中もタスクを進めることになった。小中高と真面目に授業を受けてきたタイプの自分にとっては珍しく、大学生活で初めて授業よりも課外活動を優先した。それだけのやりがいを感じていたのと、きっとイベント当日は自分たちの作り上げた最高の景色が見れるだろうと信じていた。6月頭の期末テストもほとんど一夜漬けとなり、初めて単位を落とす危機を感じた。1日に4つのテストがあった日は本当に顔面蒼白であった。

相変わらず授業が多い。

6/12のメインイベントはトラブルに対応しながらどうにか形になり、参加者400人を超える大盛況となった。自分たちが作り上げた会場の熱狂に興奮し、Off-Stageチームのテーマとして掲げていた「人生を変える圧倒的な参加者体験」を少しは実現できたのではないかと感じた。最高の景色をチーム全員、そして団体全員で見ることができたと思っている。リーダーシップ、チームビルディング、プロジェクトマネジメントなど多くのことを学ばせていただいて、本当に貴重な機会をいただいたと感謝している。

安田講堂にて行われるOn-Stage
工学部2号館で行われるOff-Stage

別のtake awayとして、何かに本気でコミットするなら、それ以外に対してある程度のトレードオフが発生することを学んだ。TEDxに時間とエネルギーを注いだことは全く後悔はしていないが、事実として後期課程で一番成績が悪い時期であった。

留学準備を進める

3Sの後半はTEDxUTokyoでの活動が終わり、授業数も減ったので、これまでと比べて穏やかな生活となった。TEDxUTokyoの準備の時期に授業数を減らしたかったな、と何度も思った。

授業を受けて課題をこなし、図書館で勉強する生活がしばらく続いた。不思議なもので、タスクがないと逆にあっという間に一日一日が過ぎていく感じがした。ある程度追われている方が気持ちが充実するタイプなのかもしれない。

留学が8月中旬に迫っていたので、授業の合間にスウェーデンの居住許可や留学先の履修登録などの留学の準備を進めた。居住許可や航空券の手続きは問題なく進んだ。久しぶりの海外だったので、航空券は本当にドキドキしながら買ったのを覚えている。

7月の期末が終わると、夏休みは友達と旅行をしたり遊んだりであった。自分の中では遊び納め、と思っていた。8月からはスウェーデン語集中講座が始まり、平日毎日3時間のコースを受講した。留学準備と遊びに追われていてうまく対応できず、結局単位は落とした。必修ではなかったので痛手はなかった。というか時期的にほぼ不可能であったので仕方ない。

山梨県の昇仙峡。圧巻の景色であった。

しばらく会えなくなる友人への挨拶や送別会などをして、いよいよ留学が開始することを実感していた。

留学が始まった3A (2022/08~2023/06)

留学開始

引っ越しやパッキングを終え、いよいよ出発の日となった。最終日は地元の友人がわざわざ東京まで遊びに来てくれて、東京駅で送り出してもらった。遠いにも関わらず成田空港まで学生団体やPSIの友人が来てくれて、最後の最後まで激励してくれた。たくさんの人に力強く送り出してもらえて、感謝の気持ちで一杯であった。「強くなって帰ってこよう」と心に決め、8/19に成田空港からスウェーデンに渡航した。

カタール航空。機内食が美味しかった。

カタールでのトランジットはスムーズに進み、合計20時間くらいのフライトを終え、無事にストックホルムに到着した。KTHは非常に手際の良い流れで空港からキャンパスに送迎してくれて、スムーズな手続きやガイダンスを終えて電車で20分ほどの場所にある学生寮に向かった。電車の切符の買い方がわからず、狼狽えながら大学前のコンビニで若めのお兄さんの店員さんに切符を買えるかどうか聞いたところ、非常に親切に対応してくれたのは忘れられない。どれだけ安心できたことか。あんなふうに困っている人を助けたいと思った。宿に向かう途中の、8月であったのにも関わらず、少しひんやりしていた空気を覚えている。

初めてのKTH。ロゴがかっこいい。

初日は寮に着いて気絶するように寝た。初めてだらけの留学生活は、発見にあふれていて素直に楽しかった。大学が用意してくれたさまざまな歓迎イベントに参加し、必死になって友人を作ろうとした。スウェーデン生活2日目に緊張しながらも話しかけたLamとは、留学を通して一番頼れる友人となった。あの時の自分の判断を賞賛したい。

Lamとサイクリングした。

ところが8/29に授業が始まるタイミングで、すっかり風邪をひいた。発熱していて、おそらくコロナだった。留学生や新入生が集まる新学期は風邪が流行りやすく、Freshman’s Fluと言われるらしい。寮でも大変流行っていた。海外でコロナ発症はかなり不安になったが、薬を飲んでしばらく療養したら徐々に治っていった。初週の授業に出れなかったのは少し痛かった。

こうして東大よりも1ヶ月ほど早く夏休みが終わり、それ以降は授業に専念しつつも機会を見ては友達作りに励んだ。

ML/DSをを頑張りたい

当初の留学の目的の一つとして、「データサイエンス(DS)や機械学習(ML)を深く学ぶ」ということを掲げていた。それを叶えるために、留学の前半はDSやMLの授業を取ることにした。最初にMachine Learning and Data Scienceといういかにもぴったりな名前の授業を履修した。

正直めちゃくちゃ難しくて、初めの方からだいぶ理解が怪しかった。何度も何度も教科書を読み、理論の理解や導出に時間をかけた。日本語版の教科書、Slideshareの輪読会資料などを読み漁った。東大では機械学習の基礎にしか触れてこなかったが、それを厳密な数学理論と実践的なプログラミング課題を通してさらに理解を深めることができた。大学院生向けに開講されている授業だったのでかなりハイレベルだったが、優秀な学生に囲まれて必死に食らいついた経験は自分の知識やスキルとして身につけることができた。

特にペアワークで一緒になった子には大変お世話になり、全くコードが書けない私を見捨てずにやりきってくれたのは非常に助かった。頭が上がりません!

インド人のSaikat先生も熱血予備校講師並みに熱意を持って授業をしてくれて、先生との距離の近さを感じた。多分私が全然わかっていなさそうにしているのを見て、「Yuki, ここわかるか?」と聞き、素直にわからないと伝えるともう一度熱心に解説してくれたのは非常に嬉しかったし、心強かった。

次のタームではReinforcement Learningという強化学習の授業をとった。Sutton本を網羅する授業で、初学者にもわかりやすい授業で非常に良かった。唯一苦労したのはペアワークで、ペアになった子が飛んでしまい、自分一人でプロジェクトをほぼ全て作りきるという形になった。自分に力がついたと前向きに捉えたが、ペアをどう選ぶかも大事だと体感した。

こうして留学の前半はML/DSをしっかりと学び、当初の目標を達成できた気がする。その後授業の先生に誘われて研究プロジェクトに入れてもらえることとなったが、難しすぎたり時間が取れなかったりで断念した。

スウェーデン語を頑張りたい

スウェーデン語を習得するというのも、留学の一つの目標であった。

夏休みのスウェーデン語講座は断念したが、1年間かけてSwedish A1/A2を履修し、だいぶ読める&話せるようになった。A2レベルのイメージは日常会話において自己表現ができるくらいである。

もともと言語を学ぶのは好きで、授業の予復習や簡単なニュースのディクテーション、Duolingo、そしてLanguage CafeやTandemを欠かさず行った。他の授業が難しいので気分転換にスウェーデン語を学習する、というスタンスであった。

Language Cafeの皆さんと科学博物館へ。

とはいえ学び始めて半年くらいまでは全然話せなくて、Language Cafeも行っても惨めなので行くのをやめるか迷っていたが、なんとか続けた。3月、4月ごろからはかなり話せるようになり、加速度的に上達して行った気がする。

研究室配属

PSIは3年次2月頃に、卒業研究を行う研究室や指導教員を決める研究室配属がある。PSIの性質上、研究室によって研究内容が全然違うので、例年人気・不人気がかなり分かれるようだ。

私は、元々ビッグブラザー(メンター)であった先生の人柄に惹かれ、この先生のもとで指導を受けたいと思い第一段階の志望を出した。「興味は後からついてくる」と信じており、身を置く環境を優先して志望した。志望者が定員を超えていたため、英語のESを作成して選考していただいた結果、落ちてしまった。気合いを入れたESであり、その先生から指導を受けることを期待していたし、留学や成績などの実績にも自信を持っていたため、正直非常に残念な結果であった。蓋を開けてみるとどうやら留学がボトルネックになっていたようで、せっかくの留学が活かされなかったのは悔しかった。

その後の第二段階では面接選考となり、2人で定員1名を争ったが再び落ちた。これはヴェネツィアに旅行している最中にメールで結果を見て、旅行どころの気分ではなかった。第三段階まで残っていたは2人であった。「次は誰と争うのかな…」と残ったもう一人の名前を見てみると学生団体の同期で信頼している友人であった。2人で話し合って私は流体力学の研究室となった。

パワー!

流体力学といえば、2Aの頃、散々苦しめられた&何が面白いのか全くわからなかったものである。その流体力学の研究をすることになったわけである。

不安も束の間、指導教員との初めての面談で、研究室配属で最後まで残って巡り巡ってたどり着いたこと、文系出身であること、流体力学や海洋にはあまり興味がないこと、技術と政策の連携に興味を持っていることを正直に伝えた。

すると、例年人気は偏るのでたらい回しは普通であること、結構面白いことをやっているのでぜひ興味を持ってほしいこと、専門領域では日本一の研究力を持っていると誇っていることを語っていただいた。

初めての面談で先生の人柄に感銘を受けたのと同時に、先生が内閣府の委員会の参与を務めているなど自分の政策への興味とマッチしていた。ここで一年頑張ってみようと思えた。大袈裟かもしれないが、今後の1年に希望が持てた。実際、卒業研究の期間は非常に良くしてもらった。

後に、「流体力学の研究室」という呼び方はあまりにも一面的で、もっと深いところまで知った今では当時の見方があまりにも表面的であったと感じている。流体力学を何に応用するかすらわかっていなかったのだ。

こうして非常に心に負荷がかかった研究室配属も終わり、研究生活がゆるりと始まった。研究室配属がこんなにも大変とは予想していなかった。

数値流体力学の道へ

留学も後半に差し掛かり、帰国後の予定を考え始めるようになると、PSIの必修である領域プロジェクトを単位互換しないと4年間での卒業が不可能になり留年せざるを得ないことを知った。指導教員と相談の上、Advanced Computation in Fluid Mechanicsという授業を取ってこの授業を領域P と単位互換することになった。

この科目の前半では数値流体力学の理論的背景(流体力学と有限要素法)を学習し、後半では学習した理論を前提にリサーチクエスチョンを立て、有限要素法による流体シミュレーションを行う演習形式の個人プロジェクトを実施した。

こちらの科目は履修者6人と非常に少人数で、後半の個人プロジェクトでは毎回の授業で自分のプロジェクトの進捗を発表し、生じた問題や質問を教授を含めたクラス全員で議論した。個人プロジェクトでは、当時最高裁で話題になっていた諫早湾干拓事件を題材に、諫早湾内の海流や潮流を再現するプロジェクトを実施した。厳しくも的確で建設的な教授の指摘や、多様な学生からの多角的な質問はいつも刺激的で、自分のプロジェクトを継続的に改善することができた(と思う)。

カッコつけているが、実際は有限要素法の理論を10%も理解しておらず、シミュレーションも全然上手くいかず、となんだかヤケクソになりながらも「この授業を落としたら留年確定」との思いから、死ぬほど時間とエネルギーを注いでなんとか最終レポートとプレゼンテーションを終えた。最終的に「ここがうまくいかなかったけど多分理由はこれです」という形で逃げて締め括った。私の時の質疑応答だけやけに優しかったので、なんとなく気を遣われているのを察した。

さーっぱりわからない。

こうして数値流体力学の道へ入門したわけであり、「悔しいから次は卒論頑張ろう、とはいえこれ本当にできるかな」と前向きな気持ちと不安な気持ちが混ざりながら無事に単位を取得した。留学先で履修する科目を全て取り終え、いよいよ帰国の日が近づいていた。この授業が終わってからは留学先でできた友人と帰国の前日まで毎日たくさん遊んだ。

留学中に出会ったパートナー。

院試と奨学金の4S (2023/06~2023/09)

帰国

夏の景色が美しいストックホルムを名残惜しくも6/15に去り、ちょうど300日ぶりに帰国した。勉強も娯楽も非常に充実した留学生活となり、当初の目標も少し形が変わりつつも達成したと思う。自分の中で一番の収穫は、「自分には身を置いた環境がどこであってもうまくやっていく能力がある」という自信がついたことである。

和食最高!

そんな偉そうなことを言っておきながら、帰国にあたって親に頼って賃貸を探してもらっていた。渡航前の引越しと併せて非常に迷惑をかけてしまったポンコツぶりである。引っ越しは計画的にすること。費用もバカにならない。入居時の費用ってマジで何とかなりませんかね?

引っ越しが落ち着いた束の間、卒業までに必要な単位がまだまだ残っていたので、帰国した翌週には授業に復帰した。4S2の3周目から授業を10単位ほど履修した。相変わらずシス創の授業はよくわからない、との感想を抱きながらも、卒論と並行して授業を履修し、課題をこなした。

留年せずに卒業するためには単位互換の手続きが必要であったため、必修の領域プロジェクトや他の科目との互換の手続きを進めた。これまた後述の院試や奨学金申請などで手続きを先送りにし、コース事務室とのやりとりがしばらく続いた。本来は単位互換は留学前に計画・相談すべきであったが、そんな余裕はなかったし、具体的な手続きのイメージも伝わっていなかったので不可能であった。結局10月くらいに単位互換の手続きが終わり、なんとか留年せずに卒業できることがわかった。事務室の皆様には多大なるご協力をいただきました。ありがとうございました。

院試、そして海外大学院受験

留学中は、4年生の夏に院試を受けず、自主的に留年(あるいは休学)しようかと思っていた。というのも、大学入学以来サークルや学生団体、そしてその後の留学でずっと忙しくしており、どこか休憩するポイントが欲しいと思っていたからである。多忙な生活に疲れた、というのが正直な思いであった。それに、今後2年間を過ごす研究科や研究室についてじっくり考えることができていなかったからでもある。「ずっと頑張ってきたし、ちょっと休ませてくれよ」という感じである。

もっと積極的な理由としては、海外の大学院に進学することを前向きに検討していたからである。留学を経て、海外で修士・博士課程を過ごしてみたいと思うようになり、今年は海外大学院の受験に挑戦し、不合格ならば翌年の夏に東大の院試を受けて10月入学すればいいと考えていた。

ところが、帰国前後に親と相談したところ、海外大学院を受験するのはいいが、たとえ半年でもプータロー(無職)するのはのちの就活に不安だという結論に至り、結局工学系の院試を受けることにした。急ピッチで院試の準備や研究室の見学を始めた。この時点で6月末であり、研振りの時と異なりほとんど研究室見学をする余裕はなかった。「興味は没頭の後についてくる」という自分の仮説があったので、指導を受けたい教授や身を置きたい環境で研究室を選ぶことにした。TOEFLも締切ギリギリの一発勝負であったが、留学の成果が現れていて嬉しかった。

なんだかんだ志望動機書などの書類をそろえて出願を終え、その後は授業やレポートと並行して院試の準備を進めた。ありがたいことに卒論の指導教員に院試の負担を相談したところ、卒論とのバランスを考えてくれた。

受験した東京大学工学系研究科システム創成学専攻の院試は、指定された論文を読んでその内容を踏まえて課題に取り組み、その後の面接で志望動機を聞かれたり、論文についての口頭諮問を行う。授業がひと段落した8月はこの院試の準備をし、8月末に院試がを受けた。面接を受けた感じではなんとなく手応えはあったが、全く勉強したことない領域だったので、質疑応答は苦労した。成績やTOEFLが良かったことや書類に力を入れたことが功を奏したのか、無事に合格をいただいた。ポテンシャル採用だと思う。

東大の院試準備と並行して、海外大学院にも出願することを本格的に決意したので、海外大学院に進学するための奨学金の申請を始めた。申請の時期が院試の時期と見事にかぶっていたので、資料作成と院試対策でかなり時間を使い、8月後半はほとんど卒論に取り組めなかった。

海外大学院用の奨学金について調べてみると、本来は春頃から準備を進めるらしく、奨学金の準備を始めたのが8月では遅く、国内にある条件の良い主要な奨学金は締切が過ぎていた。少ない選択肢の中で準備できそうなものから準備を開始した。金銭的な理由で、奨学金がないとよっぽど海外大学院は進学ができないと考えていたので、優先順位高めで取り組んだ。

卒論と海外院受験の4A (2023/10~2024/03)

研究生活

院試後の9月以降はひたすら研究生活であった。院試期間中に融通を効かせてもらっていたこともあり、しばらくは研究に没頭してバイトを探す余裕もなかった。口座から減っていくお金にヒヤヒヤしていた。

卒論は比較的順調で、9月末までに先行研究講読、リサーチクエスチョンの磨き上げなどを行い、10月くらいにシミュレーションを始めた。自分なりのリサーチクエスチョンが見えた瞬間は結構気持ちが良かった。しかしシミュレーションは全くと言っていいほどうまく行かず、修士の先輩やすでに卒業した博士の先輩を頼って進めていた。2000年頃に弊研究室で作られたモデルに増築を重ねた巨大なプログラムと日夜格闘していた。秘伝のタレのようなプログラムであった。

自分で分析用のPythonスクリプトを作成することも多く、留学中にたくさんコードを書いたのが役に立った。プログラミングの苦手意識は依然としてあったので、ChatGPTに大変助けられ、この時代に生まれてよかったと心の底から思った。

指導教員とは週に一度面談と進捗共有をして、フィードバックをもとに新たに発生したタスクをこなしていた。フィードバックは毎回的確で、面談が終わるたびに次に進むための痛気持ちいい刺激を得ていた。この頃には「海底下CCSの海中モニタリング」というテーマにもどんどん興味が湧き、この領域に関する知識を深めていく日々に充実感を覚えていた。

4Aでも取り残した単位を回収するために授業を5単位ほど取った。ある程度負担はあったが特段問題はなかった。友人と会う機会にもなり、楽しんで授業を履修していた。必修の応用Pは少し骨があったが、グループのみんなで追い込んで発表までこじつけた。

奨学金、そして海外大学院出願

卒論と並行して、奨学金や海外大学院の出願を進めていた。奨学金は3つほど出し、1つは最終面接に進み、もう2つは書類落ちであった。残った1つに希望を託し、たくさん面接練習を行い最終面接に臨んだ。東大含む大御所の教授らと対峙して、鋭い質問を受けたが精一杯回答した。自分はEBPMなどに興味があって将来は政策に携わりたいです、と熱意を込めて伝えるとある先生に「君みたいなやつに政策を任せたくない」と言われ、相当動揺したがなんとか乗り切った。落ちたと思っていたが、11月ごろに無事に採択していただき、あとは実際に大学院に合格するだけであった。海外に進学する目標が近づいている気がして、ワクワクした。

12月ごろから海外大学院の出願が開始し、志望動機書を作成したり、教授に推薦状をお願いしたりした。志望していたヨーロッパの大学院はスクーリング(講義)がベースの修士課程で、研究室への配属は最終学期のMaster thesisのみなので、ほとんど成績、英語のスコア、志望動機書、そして推薦状が合否を分けることになっていた。

私はスイスのETHとEPFL、イタリアのミラノ工科大学、そしてかつて留学していたスウェーデンのKTHの4校に出願した。出願の際は各プログラムごとに履修計画を立て、志望動機書を書き換えたのでそれなりに時間がかかったが、なんとか1月中に終わらせることができた。

J-StarX フィンランドコース

話は遡り夏頃、留学中の友人がサウジアラビアのKAUSTで研究インターンを始めたり、スイスのEPFLでIAESTEを通してインターンをしたりとどんどん海外に飛び出していく様子を見て、自分もサクッと短期で海外に行きたいという気持ちが湧いていた。8月頃にたまたま見つけて勢いで応募した経産省主催の起業家育成プログラム『J-StarX』のフィンランドコースに採択され、11月末から12月頭にかけてフィンランドに渡航した。

ヘルシンキのスタートアップエコシステムを体感する現地でのプログラムは面白く、特に初めて参加したSlushの熱気には大いに刺激を受けた。イベント運営の観点からすると、オペレーションに一切の乱れがないことには本当に感心した。

圧巻のステージ。

何よりも一緒に参加した仲間が一番の財産で、毎度話すたびに学びや刺激をもらえる。長く続くコミュニティにしたいと思っている。PhDを取るとの誓いを立てた3人とは継続的に高め合っていきたい。

また、このプログラムへの参加をきっかけにベンチャーキャピタルでのインターンの機会をいただき、起業への意識がどんどん高まっている。

卒論発表、そして海外武者修行プログラム

J-StarXから帰国後は年末の帰省などを挟みつつも、ひたすらに卒業研究を進め、年内に実験結果を取りきった。その後の1月は執筆に専念した。何度も推敲を重ね、最終的には英文で60ページほどの分量となった。

2/6の卒論発表に向けてプレゼンの資料や原稿を準備をし、たくさん練習した。友人にも練習に付き合ってもらった。12分という短い制限時間に苦しめられたが、かなりの完成度でプレゼンテーションを作り上げたと思う。

発表当日のプレゼンテーションは練習通り進み、質疑応答も学部生だからかあまりプレッシャーがなく、あっさりと20分の持ち時間が終わった。留学が終わってからずっと取り組んできた卒論がひと段落した。

その後、一息つきたかったが、そんな暇もなく工学部の海外武者修行プログラムに参加した。このプログラムは自分で訪問先をアレンジし、一流の研究機関や研究者を訪問して研究成果を発表し、フィードバックを受けるというものである。こちらも秋頃に隙を見つけて申し込んでいて、無事に採択していただいた。

2/10~2/18でノルウェーのベルゲン大学、そしてイギリスのインペリアルカレッジロンドンとプリマス海洋研究所を訪問し、自身の卒論の成果を発表した。自分が卒論で引用していたような分野におけるトップ研究者に対して卒論のプレゼンを行い、忌憚なきフィードバックをいただいた。卒論発表の時よりも質疑応答は白熱し、発表と質疑を合わせて60分を超える議論となった。

講義室を借りてもらってプレゼン。緊張した。

受けたフィードバックはどれも的確かつ示唆に富んでいて、上出来だと思っていた自身の卒論の改善点をいくつも発見することができた。伸びしろがあることがわかるのは、いつでも痛気持ちいい。

また、訪問した研究者は私の指導教員と長い付き合いのため、English Pubやディナーに連れて行ってもらうなど、非常によくしてもらった。研究室の学生とも交流でき、海外の研究生活のイメージが湧いた。10月のGHGT-17という国際学会で会おうという励ましをいただき、前向きな気持ちになれた。

初めてのFish&Chips.

海外大学院の合否

武者修行プログラムの後は、かつて留学していたストックホルムでパートナーと共に3週間ほど春休みを過ごした。懐かしい顔ぶれに会い、帰国後の院試に海外大受験に卒論と走り続けていた時期が落ち着いてゆっくりできた。なんだか久しぶりの休みにホッとした。

パートナーの実家のフィンランドにも足を伸ばした。3月でもまだ冬。

ただ、帰国した3月中旬以降は志望校であったETHやミラノ工科大学から続々と不合格の通知が来て微妙な気分であった。その後3/21にKTHの結果が出て、Applied and Computational Mathematicsというプログラムから合格をいただいた。

3月末の台湾旅行中にEPFLも不合格であることがわかり、唯一合格をいただいたKTHに進学することになった。もっと受かるかなと思っていたが、現実はあまりうまくいかないものである。理転したことで数学やCSの単位が足りなかったこと、先生の推薦状がうまく機能しなかったことなどが原因だろうと踏んでいる。

台湾は逆に3月でも夏。

KTHは自分がかつて留学していた大学であるため慣れている感じもするが、勉強や研究の環境は十二分に整っているし、PhDのチャンスもありそうなので、気持ちを新たに頑張りたい。長かった海外大学院受験も終わり、現在は2024年7月末か8月頭ごろにストックホルムに渡航することを予定している。

卒業、休学、そして留学準備

2024年3月22日に東京大学工学部システム創成学科知能社会システムコースを卒業した。卒業式はアカデミックガウンを羽織り、家族や友人と卒業を祝った。とても天気が良く、晴れやかな気持ちだった。

ガウンでテンション上がり中。

卒業式ではたくさんの友人と写真を撮って盛り上がる中で、コロナで始まった大学生活でもたくさんの大切な友人を作ることができたとしみじみした。自分が迷いながらも進んできた道は間違っていなかったと、少しばかり称賛したい。

4/1からは東京大学工学系研究科システム創成学専攻に入学した。入学と同時に休学をし、授業料の重複を避けながら学生の身分を保っている。入学した理由は、入学手続きの締切までに合否が出なかったからである。渡航までの期間はベンチャーキャピタルでのインターンと元の指導教員との短期の研究プロジェクトを進めつつ、面白そうな講義を聴講する生活をしている。東大はおそらくそのうち退学すると思う。

これからは奨学金の団体との最終交渉を経て、居住許可の申請や授業料の納付、そして航空券の確保を行う予定である。

終わりに

あっという間の4年間であったが、非常に充実した大学生活であった。尊敬できる大切な友人がたくさんでき、学生団体や留学など様々な経験をさせていただいた。

私の大学生活で関わっていただいた皆様、ありがとうございました。いつか恩返しができるように引き続き頑張っていく所存である。当面の間は自分の専門性を身につける&海外で生き延びる力をつけることに専念するつもりだ。30歳までに海外でPhDが取れたら良いなと思っている。

その第一歩として、東大を蹴ってKTHに進学する選択に迷いがないわけではないが、その先の景色を想像しながら精一杯努力する。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?