改めて自分が描いた文章読み返すと、やっぱ俺って頭おかしいわ…
改めて自分が描いた文章読み返すと、やっぱ俺って頭おかしいわ…。
完。
本文で言いたい事おわり。
―――ただ一方で、それら(これまで書いてきたnote記事とか、過去に運営していたブログ記事とか)が紛れもなく僕の嘘偽りのない本音ってのも事実なわけで。
創作(こういうブログ的な文章は「創作」として認識されづらい印象があるけども、紛れもなく「創作」の一種である)において絶対に重要なのは「パンツを脱ぐこと」であって、僕はこの辺については芸術歴が長いだけにとっくの昔に覚悟がキマってるので、こういう文章でも割と躊躇なく本来の自分を出せてしまうのである。
絵画なんかの場合は、パンツ脱いで本来の生身の自分を全力でぶつけても諸々が絵画に変換されるので比較的マイルドになる。
小説なんかはその辺のマイルド化指数がやや低めだろうけども、やっぱり多少はマイルドになる。
一方で、この手のブログ的文章はパンツ脱ぐとほんとに、ほんと素のままの自分がベタッと出ちゃう「つまらなさ」はあるよなって思う。
実は僕は漫画も描いたりするのだけども、パンツ脱いで本当の自分を全力で漫画にぶつけると、ほどほどに自分の毒が出て、でも私小説的じゃなくて、紛れもなくフィクションではあって、それが我ながら心地よかったりする。
でもこういうブログ的文章はまずフィクションじゃないし、ガチの自分がそのまま出過ぎるし、なんかベタッと毒が駄々洩れになってしまって、だからこそ面白いのだけど、でもだからこそ創作ならではの面白さには乏しいよな~って感じる。
無論その面白みのなさ故に今もこうして続けてるのだが。
僕は創作の面白みは自分が自分以外の何かに変換され形として固着する過程にあると思うので、ただ単に自分がベタッと出てしまうこういう文章は苦手だ。
端的に言えば、前者は上品で、後者は下品って感じがする。
でも一方でただ単に自分がベタッと出てしまう下品さ故に伝わる部分もあると思うし。
そら確かに本来自分が持ってる毒をフィクションに昇華して、美しい物語を紡ぐのは上品ではあるけども、でもそれだと本来の自分が変換されすぎちゃってて、果たしてそれは「自分が伝わったのか?」というと、微妙なところだ。
自分の葛藤を歌にするのはいいけれど、じゃあ、ブルーハーツなり長渕剛なりの歌がどこまで大衆に届くのかは、微妙なところでもある。
甲本ヒロトとか長渕剛とかサカナクション山口一郎とかが自分のブログで素の自分を出しまくって、自分の言葉で長文垂れ流してたら「興覚め」はするんだろうけれど、でも自分は実は、そういうのが一番見てみたかったり…。
とくにサカナクション山口一郎なんかは絶対に腹の中に色々抱えてるので、彼の迷いとか葛藤を、サカナクションの楽曲の「持って回った感じ」じゃなくて彼個人の市井的言葉から聞いてみたい。
(山口一郎は近年では珍しいほどにストロングスタイルな迷える天才だと思う。こういうクリエイターがもっと増えてくれると僕も癒されるのに…。)
それはともすれば「創作」そのものの否定にもなり得るけれども、上に述べたように僕はこういう文章も「創作」の一ジャンルだとは思うので、僕個人の願望を言うなら、こういう文章はこういう文章でもっとちゃんと「創作」の一ジャンルとして認知されて欲しいなぁって思う。
少なくとも現状の世間では、「こういう文章は創作じゃない」って風潮が根強いので(だからこそクリエイターとかが素の言葉でダラダラ持論を語っているとなんか「ダサい」みたいな扱いになる)。
特に(←なんかもう本文の主題が迷子だが…)僕は、上島竜兵さんみたいな有名人とかが自殺するたびに思うのだけれど、もし彼ら彼女らがちゃんと(?)ブログとかで自身の気持ちを長々と膨大な長文で書き残していれば、どんな感じになっていたのだろうって、妄想してやまないのだ。
それはきっと、「有名人とかが素の言葉で語り過ぎるのはダサい」なんて言ってられない程に、「芸術的凄み」を持っていると思う。
現に、かのゴッホは死後になって(ゴッホ本人がブチギレてもおかしくないほどに)プライベートの書簡が研究されまくっていて、それが最早研究の一分野として成立してしまっている。ネット検索すればわかるけれど、『ゴッホの手紙』という題で本がたくさん出版されていて、愛蔵版みたいなのもある。
だからやっぱり、『「こういう文章」は芸術じゃない』的なイメージは、誤りなのである。
「こういう文章」は「こういう文章」で、絵画とかとはまた別ジャンルの芸術なのである。
『「こういう文章」という芸術』の美点は、変換度数が低くて、作者の人となりがそのまま出る事。
他には漫画家の山田花子なんかも自殺するまでの道程を日記に書き残していたもんだから、今なお一部から絶大な支持を得ている。
その流れで言えばねこぢるなんかも日記を書き残していれば人間心理を省察する一級資料となっていたかもしれない。
話がフラフラし切ってしまったが要は、「こういう文章」は自分で読み返していても興ざめする事も多いが、こういう文章はこういう文章で色々と楽しめるので、可能な範囲で続けていこうって、ただそれだけの話である。
今の僕は「知ってる人は知ってる」程度のギリ喰えてない創作家だけども、もし仮に僕が今後どんどん作家として栄達していった場合、その段に至っても尚僕は「こういう文章」を書き続けられるだろうか。
サカナクション山口が己の内心を「こういう文章」で語り過ぎたらきっと大抵のファンからしたら興ざめ扱いされるのと同様に(僕は是非やってほしいけれど)、僕もまたファン心理を尊重して「こういう文章」で自分を語る事は控えるようになるだろうか。
それとも少なくとも今と同様にあくまで匿名に徹して、ゴチャゴチャとどうでもいい雑談を続けるのだろうか。
―――何てことをこれ以上考えるのはイタイ皮算用でしかないので、この件はここまで。
おわり。