5/12 定期稽古の記録

昨日の稽古は(も)壮絶だった。
こういうのは普通人生に数回程度しか起きないのではというような体験が最上さんの稽古ではかなりの確率で起きてしまう。

最近少しわかってきたこととしては、
まず「言語と身体の間にある断絶」を繋げる?(一致させる?)ということがどれほど大変なことなのかということが感覚として少しわかってきた。(「へぇ〜そうなんだ」の境地から「ん?待てよ、これって無理じゃない?」へ)

最上さんの稽古の内容は全て、最上さんがあらゆる経験を経て作り上げているものだ。私はそもそもの前提知識が乏しく語彙力がないのでうまく書けないが、ある稽古の目的を"身体でやる”ために、どうしたらそれが身体でできるのだろうかということを延々と考えてこられて稽古として成立させているという感じだ。

それがどれだけ果てしないことなのかというところが全くよく分からないところから 、少しだけその途方もなさが私にも見えるようになってきた気がする。

●我と汝/たなごころ/カップル/他者と出会う稽古
初めてペアになって行う稽古を体験した。
手順としては、お互い距離をとって向き合って立ち、そこからゆっくり相手の目の前まで歩き、両手を出しお互いの手を上から/下から重ね合わせる。その後、相手とすれ違いそのまま相手が最初いた場所まで歩き、振り返って再度相手と向き合うという流れだ。

説明のとき最上さんは〈我と汝〉のお話をされた。普段は他者を対象化しているためぶつかってしまう。他者と思っているものは他者ではないと。そこで〈我と汝〉として他者と出会う稽古を行うというわけだ。どうやって???

それを身体で成立させてしまうのが最上さんの凄さの一つなのだと思う。

その稽古を行う前に〈たなごころ〉についての丁寧な説明と実践があった。そしてさらに向かい合って歩き始める前にも準備的要素の実践があった。目を瞑った状態で上と下、前と後ろに意識を向け、無限を感じて無重力状態のような感覚をつくる。その準備を経てメインの稽古が始まった。

私のペアの相手はあの古谷さんだった。ペアはたまたま座っていた位置で決まったわけだし、そこをあまり意識してはダメだろうと思い、あまり変に考えないようにした。(とはいえどう考えても人の褌で相撲が取れちゃう状態だったが)

過度に意識しないようにはしたけれど、古谷さんが目の前に来たときに私の身体は大きく反応した。身体が勝手に震え出し、古谷さんの光の粒子に触れているような感じだった。途中から堪えきれなくて大粒の涙と大量の鼻水が。古谷さんと手を合わせる前からそういう状態になったような気がするけど記憶はあやふやだ。最上さんの稽古場では度々この状態になるが、今回のは最大級のやつだった。

すれ違うときに最も古谷さんに接近したが、私の身体のガクガクはMAXだったと思う。その後はキャパオーバーになったのかそれ以上なにも新しく感じることも変化もなくただただ大波が少しずつ去っていくような感じだったのだと思う。ただそのときはもはや鼻水が両方の穴から20cmくらい垂れていたので「この顔見られたら恥ずかしいな」という意識もありつつ、でも鼻水を拭うという行為は丁寧ではないと思ったし、集中が切れてしまうと思ったのでそのまま歩き続けた。

窓際まで歩いて振り返ると古谷さんはまだ後ろを向いていたが、古谷さんがこちらに振り向くとまた私の身体はガクガクし始めて、そのままの状態でお辞儀をして稽古を終えた。

古谷さんは私と稽古を行ったとき、「希求」というものをすごく感じたとおっしゃっていた。それを聞いて今振り返ると、〈我と汝〉は私の根源的なテーマなのだなということを思う。あのガクガクは田中誠司さんの舞踏の合宿で感じたことと同じであり、〈われ - それ〉の世界から抜け出したくてここ数年足掻いてきたからだ。

あともう一つ、あの稽古の記憶を振り返ると、私の手を下にして古谷さんの手が上になったときに、古谷さんが途中ほとんど動きを止めて少し私の手を押してくれたような感覚があった。それは古谷さんの優しさとエールだったのだろうと感じる。母が子供にくれるような深い愛の記憶が思い出された。

・・

〈我と汝〉のことでもう一つ思うことは、最上さんの稽古場はすでにそれが成立できる場になっているということだ。これは絶対に簡単にできるものではない。私たち稽古場生は社会的な姿をさほど知らない。なのに言葉にし難いつながりのようなものを確かに感じる。最上さんの稽古場には〈他者〉がいる。そこに私も混ぜてもらえていることがとても嬉しい。

その他の稽古も色々と気づきや学びはあったが、ここまででエネルギーをかなり使ったので締めようと思う。読んでくださった方、ありがとうございました。

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