7/14 定期稽古の記録

今回の稽古は"抜き打ち稽古"だった。

「今日はソロで踊ります」と最上先生がサラッとおっしゃった。
ほとんどの方が「え!?」と内心思ったと思う。

「といっても一人ずつやっていたら時間が足りないので4人ずつで踊ってもらいます」と続けておっしゃった。

これが「今日は最初からフリーダンスをします」という言い方だったら受け取り方が全く違ったと思う。

その後、最上先生が大切なお話をされたのだけど、「あ〜この話録音したい・・・」という邪念が頭をよぎってしまったのと、不意打ちで心が乱れていたせいか、大切な話だったのに何一つ覚えていない。とても悔しい。

踊ると言ってもどうすればいいのか。まるで英語を喋れないのに喋れと言われているような感じに近い感覚だった。何回かに一度は稽古の最後にフリーダンスをすることはある。でもその感覚とも違う受け取り方をしていた。最上先生は本当に場づくりの達人だ。ちゃんと今回の稽古の目的の本質が伝わってくるのだと思う。

稽古の後のシェアタイムでも話に上がったが、いつもの稽古は最上先生が高度な稽古内容を全て準備されていて、私たち稽古生はそのお膳立てされたものをありがたく頂く(受ける)といった形になっているところがある。またそもそも踊るためには踊り以前の動きや所作から練習を始めていかないと、いつまで経っても、どれだけ踊る練習をしたとしても、全く踊りにならないのだそうだ。これは私にとっては自分で分別がつく話ではないけれど、理屈としては大いに納得できる。きっとそうなのだろうと思う。だからこそ「踊る」ということには今はそこまで関心を向けず、ただただ稽古に徹するということをしてきた。でもとはいえたまには踊ることに挑戦していかないとそれもまた踊りに近づけられないのだ。ということで今回は私にとっては一気に飛躍した稽古となった。

●オーム斉唱
今回もまた人数がいつもより少ないのになぜかここ最近で一番にぎやかに感じた。まるで抜き打ちテストの直前の緊張感のような、必死さとか土壇場の気合いのようなものを若干感じた。私自身もいつもより声が安定しない感じがあり、そのせいで集中するのに時間がかかったが、「いつもより心が乱れるのは仕方ない」と思いつつ、斉唱を終えて目を開けたときは空間が変わっていたので良い準備にはなったと思う。

●ソロ1回目
いつもは稽古の最後に行うフリーダンスをオーム斉唱の直後に行うわけだ。でも本当の公演ではオーム斉唱すら行わない状態から良い踊りをしなければならない。床稽古をして、スローの稽古を経て、その上で本番というわけにはいかない。そういう意味でも1回目は貴重な体験だった。

私はここ数日、自分の会社の新しい名前を生み出すために猛烈にインプットとアウトプットを繰り返していて、それが考えても考えてもなかなかまとめられず、生みの苦しみの渦中にいた。(この記録を書く前も7時間考えたあげく出てこないので一旦、稽古の記録を書くモードに切り替えている。)

その中で一つ、これはどうかと思う言葉があり、稽古場に来るまでの道中はそのことで頭がいっぱいだったので、テーマは自動的に決まっていた。古事記に書かれている「修理固成」という言葉だ。諸説あるが「おさめ、つくり、かため、なせ」と読む。

しかしそれをどう踊りに変換すれば良いのかが全くわからない。とにかく「おさめ、つくり、かため、なせ」と心の中で唱えながら踊っていた。(できれば大国主神を降ろしたかった。絶対無理だけど)あとは「みすぼらしい私よ、みじめな私よ」という思いもあった。

他の方の踊りを見る側のときは、いつもと違う姿が見られたような気がした。全体的にやはりいつもより動きが大きくなりがちなのでそう感じたのかもしれない。

全員の踊りを終えた時点で最上先生より色んなフィードバックがあった。やはり全員ダメだと。踊るには思想が必要であると。でもその文脈での思想とはどういうものなのかがよく分からなかった。続いて存立宣言のお話をされた。どのようにお話されたかは忘れてしまったが、これは稽古をしているのでわかるところがあった。とにかく何をやればいいのかが少し明確になった。

思想と存立宣言の重要性は、稽古後にポストされた大西さんの言葉が大変参考になる。


●ソロ2回目
まず私は6/9の歩行の稽古を思い出し、自分の前方に広がる地平線と背後に広がる大海原を意識した上で目線をつくり、その上で「私は今ここにいる」という状態をつくってから始まる動きで踊ろうと思った。

でもその状態に至るまでにかなり時間がかかる。なので前半はほとんど動けない状態だった。「ゼロと1の間」を探り続け、内在が表に浮上し始めると共にだんだんと身体中が細かく震え出した。(とくに喉とか下顎、そして脚)。

そして「私はここにいる」という状態になった。
が、ここで葛藤が始まる。

「誠実に動くならば、一歩などとても踏み出せません」

「いいえ、逃げてはなりません。諦めてはいけません。あなたはここで絶対に一歩を踏まなければなりません」

ここ最近、映画『硫黄島からの手紙』を見返していて、そこに出演されている俳優の松崎悠希さんが行った危険な演技法のことを最近知ったのだが、葛藤の最中にそれを思い出してそのイメージを行った。(何かが首から流れ落ちるような感覚があった)

「踏み出すのは嫌だ。もう本当に嫌なのに。(自分を)やめたいのに。私は死ぬまで生きなければいけないのだ。どんなに辛くても、どんなに嫌になっても。たとえヨスガがなくとも。この一歩を踏み出すなら、そうしなければならないのだ」

そして私は一歩を踏み出した。
涙や鼻水が出ていたが、これは怒りと悲しみの涙だったと思う。

今振り返ると、自死を迫られた兵士に完全に同調して現実世界に戻りきれなくなった松崎悠希さんのどうしようもない思いに私自身も多少同調していたのかもしれない。

全員2回目が終わった後、先生から「2回目は全員、見違えるほどでした。疲れた方もいるでしょう。少し時間をとってしっかり休憩しましょう」とねぎらいの言葉があった。

休憩中、私は怒りと悲しみの状態がすぐに収まらず、仰向けに寝てクールダウンした。そんな中、「最後の3回目は、踊りのテーマを決めてください」との言葉があった。その説明の中で「許す」という言葉があったのだが、私は怒りと悲しみの自分であることを許すという方向に定めた。

●ソロ3回目
2回目の余韻のまま始まったので、やるせない思いのまま身体は自然と動いていた。どちらかというと、さらに鬱状態へと潜り込む感じだった。

ところが、最後は音楽がかけられたのだが、それが優雅なアダージョだった。ちょっと曲と状態が合わない。でもそれもまたヨシと思って、生きたくないモードでアダージョに合わせてみた。

「ほんともう、無理なんだよね」とか思いつつ、
終盤「でもそうか、自己犠牲という形でよければ死ぬまで生きれるか、それでいいか」なんて思っていた。(←私が思っていることなのかよくわかりません)

もちろんそんな状態はハッピーではないし、後味悪いし何も解決していないが、ただ一つ、簡単に解決しようとしなかったことが自分への信頼へとつながった。簡単にハッピーになることを許していたら、もっと後味が悪かっただろう。

無理に自分を救ってはならない。

・・

2回目、3回目の皆さんのソロは、1回目と比べると明らかに密度が高く、凄みが増していた。自然とシンクロが発現する瞬間も何度か見た。それぞれの個性的なエネルギーが十分に発揮されているようにも見えた。もし色のついた煙が充満していたら、ダイナミックなエネルギーの変動が見れたのではないだろうか。

●踊るとは何か
稽古では内的身体になること(なろうとすること)が前提だ。しかしそれでは踊りにならない。見ている人は何をやっているかさっぱり分からないからだ。踊るとは「見せる」ことが必要だ。でも表現しようとすると、内的身体はすぅっと引っ込んでしまい、自意識の踊りとなってしまう。(=体操化)本来の踊りとは、内在が表出したり、内部を表現することが必要となる。解像度が荒すぎるだろうけど、これが今の精一杯の言語化だ。

シェアタイムで古谷さんが、私の3回目の踊りのときの左手について「あれが踊りだよ」と教えてくださった。帰り道であのときの状態を振り返ってみると、意識と内在がちょうど良いバランスだったかも、と思った。内在と動きを統合させることができれば、表現に至るのかもしれないと思うと少しだけ光が見えて嬉しかった。

最上先生はご自身の踊りを「名もなき踊り」とおっしゃっることがある。これという名前がつけられないのは痛いほどわかる。それはさておき、最上先生のやっておられることは、人間にとって本当は必要不可欠なものであると感じている。それを失ってしまえば、もはや人間ではなくなるのだという危機感が私にはある。(それでも生きていかなければならないのかもしれないけれど)私は全く別の次元で身体を指導する者としても、簡単に諦めることはできないのだ。

●まだうまく書けないし見えていないけど
踊りについて最上先生が語られるとき「踊りの技術がある人はそれを使えるから誤魔化しが効く」というようなことをおっしゃる。でもそのとき、同じ「踊り」としての枠組みの中での違いとして話されるが、踊りか体操かの境界は、内在が伴うかどうかということで一つ区切れることができるのではないだろうか。(そんな線を引いたらほとんどが体操になってしまうのだろうけど、、)

●稽古の翌日
寝て起きたらなぜか心の重荷がだいぶほぐれていて、ニュートラルな、フラットな感じになっていた。現状は何も変わっていないはずだけど、これも踊りというものの力なのかもしれない。

最近昔飼っていた愛犬が夢に出てくるが、その日も夢に出てきた。なぜか愛犬を連れてホテルに泊まる設定だけど、早く着きすぎて近くのテラスがあるカフェに行こうとしている、という。愛犬はいつもどおり人間大好きなので落ち着かず尻尾をずっと振っていた。何か知らせてくれているように思うのだけど、夢ってほんと、よく分からない。

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