6/9 定期稽古の記録

今回の稽古も凄まじかった。
最初「今日は地味にやります」とお話しされていたが、とんでもなかった。
まだ通い始めて間もないとはいえ、今までで一番凄いものを体験したと思う。
(記録しておきたいことが膨大なので簡潔に書いていく)

●オーム斉唱
今回はここ最近の人数より3名ほど少ない稽古だったが、にも関わらずたくさんの声が後ろの上の方から降ってくるような感覚があり、とても大きい音が鳴り響いている感覚だった。(他の方は下から声がするような感覚を感じていた方が多かった)心地よい倍音が生まれ、いくつもの二重の高い声も聞こえていて、自分の声もしっかり紛れているような感覚でとても幸せな状態になっていた。

●床稽古
今日はいつもと少しやり方を変えて行った。
予備動作後に仰向けで5分寝て、そこから10分ほどかけて寝返りをするが、その途中の側臥位(裏と表の境界線となる一点、一瞬)を丁寧に行い観察をする。(その後、うつ伏せ10分、立ち上がる動きで10分だったかな?)

その側臥位の体勢についての説明では「(鳩尾付近の)中を締める」という言葉があった。そして「締める」とは言っても身体を縮こませるわけではなく、かといってまっすぐな横寝の状態にするために身体を伸ばす必要もない。「表面の筋肉はなるべく使わず、インナーマッスルだけが使われている状態なんでしょう」というような説明もあった。

この説明が私にとってはピラティスのエクササイズで使う言葉そのものであったので、どこまでそれをやれば良いか少し困惑した。(ピラティスの側臥位のエクササイズでは実際にインナーマッスルのみで行う超地味なエクササイズが色々とある)
ただ当たり前だが稽古では身体のフォームについて正確性を求められているわけではないので、「どこまでやれば良いか」の答えとしては2割程度の感覚でやるくらいがちょうど良いだろうと受け取った。

予備動作の球体のイメージはここ数回は少しうまく入れない感覚もあったが、今回は最初から両手が勝手に動いていく状態がつくれて気持ちよかった。(ただいつも手がある程度上に上がっていくとその感覚がうまく保てないところはあるのだが)

仰向けに寝たときは「天を意識する」という説明が事前にあったが、身体は仰向けでも顔が横に向いていると意識しづらいことに気づき、すぐ顔をまっすぐにした。するとなぜか父が危篤状態のときの、父から見える景色が想起された。「ああ、最期の父はこうして母のことを見ていたのだな」と思った。(私は父から見て右側にいたが、左側にいた母の姿ばかりが見えた)先日、父の最期の話を人にしたばかりだったので出てきたのかなと思うが、これは疑似体験でも追体験でもないと思う。

このときすでに半分夢を見ているような状態だったと思うが、次に仰向けから寝返りをするとき、寝返りの前半では大きな鯨がゆっくりと優雅に飛んでいるイメージが浮かんだことを覚えている。それだけでなく動きをゆっくり丁寧にしていくのに合わせて一つ動けば夢が移り変わっていくような、環世界の映画を見ているような感じだった。予備動作中も含めてだが今回の床稽古は時折とても気持ちいい感覚になったり幸福感を感じていた。

身体が側臥位に近づくにつれ、イメージが海に変わり、身体の動きと共に左から中央に向かって大きすぎる月が出てきた。月よりも右側が真昼、左側が真夜中というような映像だった。

このときとても気持ちよかったせいか、裏と表の境界線の一点を意識することを少し忘れてしまい、滑らかに移り変わってしまったので裏と表の劇的な差としては感じることはできなかった。(他の方は劇的な、元に戻れないというような明らかな差がを感じた人も多いようだった)。

うつ伏せになると、何もない暗い海の中という感じだった。(上も下も右も左もない)。ただし、なぜか背面で天の存在をしっかりと感じていた。

起き上がる動きになると、まず前半ではいつの間にか海の中から波打ち際の砂浜へとシーンが移っていた。海の中では海そのものになっていた感じだったのが、砂浜のシーンでは何か身体がある状態になっていた。そして次の瞬間、私は大きな昆虫になっていた。(このとき身体の体勢としても虫と同じ体勢になっている)

これは恐らく、床稽古を行う前に最上さんが「外骨格と内骨格」や「動物と人間では裏と表が逆である」ということについてのお話しがあったのが影響したのだと思うが、稽古終了後に井上さんがお話しされていた、「海から始まる生物進化の過程を床稽古でやるということの壮大さ」を私も体験したのかもしれない。(お話のニュアンスはもしかしたら少し違っていたかもしれないが、他の人も海をイメージされていた方は多かった)。

私はとにかく虫そのものになれたことが何だかとても嬉しかった。(日常的な私は虫がとても苦手だけど克服したい思いがあるので)。そのときの私の身体は多分、裏と表が反転していたのだろうと思う。

そして起き上がる後半では、上半身が伸びて膝立ち状態になったとき、右後ろの背後と左上前方に何か気配を感じていて、その挟まれた空間に酔い始めたような状態になっていった。頭がグワングワンとしてきて、もしかしたら人間に戻れないような状態だったのかもしれない。(今書いていて気づいた)

一人では立てそうにないので左側にいる「ナニカ」に手を引っ張ってもらおうと思ったら身体のバランスが崩れてしゃがむような状態になったが、左手だけは「ナニカ」に支えられて残った。そこで鈴が鳴り、立ち上がることができずに終了となった。ほとんど目を閉じて行っていたが、目を開けると自分が思っていた位置とは違う場所にいたので「ここはどこ?」となった。

今書いていてなんだかはっきりしてきたことがある。
このあと私は稽古場を出るまで憑依体質が全開になってしまう。
なぜそうなったのかというと、床稽古で立ち上がって人間に戻り切ることができなかったからではないだろうか、、、!

●スローの稽古
この稽古は基本の稽古なのだが私にとっては難しく、いつもうまくいかない稽古だったが今回は何か掴むことができた。


今回意識することは2つ。
・「コップに見られている」という状態になる
・コップと相互包摂状態になるようにする(そうなるようにコップに仕向ける)

稽古が始まると私の身体(特に歯)は小さく震え始め、すぐにも漏れそうな状態だった。ここから10分は耐えられないという感じだ。なので「これ以上やるとヤバいからちょっと緩めなきゃ」という意識が走る。が、そうすると一気に途切れそうになる感覚になり、「やっぱり手を抜いてはダメだ😭」となってまた集中しなおす。そのとき胸骨を少し後ろ(身体の内側)に引くことで自我を引っ込めたりした。

そしてついにコップが生き物のように感じられ、まさに見られているという状態になった。そのときはもう涙と鼻水が出ていた。そしてそこから相互包摂状態にするためコップがそうしてくれるように仕向けてみた。もちろんすんなりとはできないが、ある瞬間、「できた」と思える状態になった。と同時に私の身体はMAXに反応していたので、頭痛と吐き気も混ざっていた。そのとき床から30cmくらいの空間が光り輝いていたのでコップはその光に埋もれてほとんど見えていなかった。

その後、コップを両手で包み込もうとするのだが、空間の密度が高すぎてなかなかコップに辿り着かなかった。でもなんとか包み込むことはできたのだが、今度は茶碗を持ち上げることができない。そのため私の顔がどんどん茶碗に近づく形になっていった。そこで鈴が鳴り稽古は終了した。

ただやはり「コップと一体化」はまだできなかったと思う。コップそのものにはなれないが、コップとのかけがえのないつながりというものは初めて感じられた。

5月はペアの稽古を二度行ったが、そのおかげで相互包摂の手応えを体験していたので、それが手掛かりとなりコップに対してもできるようになったのだと思う。(スローの稽古の前にあった最上さんのお話によってそれがうまくできた)。

さらに、たまたま稽古の前日に大澤真幸氏と熊谷晋一郎氏との対談記事を読んだのだが、その記事の中にあった『複眼的な内部モデルで介護がうまくいく』という部分のお話が、最上さんが説明の中でおっしゃった「相互包摂になるようコップに仕向ける」というお話とリンクしていた。記事の中の熊谷先生の体験は私がレッスンで生徒さんの身体を指導するときの「どこからが自分でどこからが相手なのかがわからなくなる現象」にとても似ていた。だからこれらのことが私の中でひと繋がりになり、スローの稽古で初めて何かが掴め、それが私にとってとても重要な要素なのだろうという風に至った。

記事はこちら:
『「敗北の官能」から自由が立ち上がる』
https://www.igaku-shoin.co.jp/paper/archive/y2010/PA02904_01#

ところがここで話は終わらない。稽古は終了したのに、コップとのつながりが全然消えず、(私の魂が?)元に戻ってくれないのだ。この感覚は3月に行った仮面の稽古よりも強烈だった。つまりそれは3月よりも成長したということなのだと思う。頭のグワングワンと吐き気が治らず、休憩時間のときも私はグッタリしていた。思わず長谷川さんが「大丈夫ですか?」と声をかけてくれた。「大丈夫じゃないみたいです」と返しつつ、3月の仮面の稽古で「戻ってくれない」と言っていた人の気持ちが大いにわかった。

●歩行の稽古「我ここにあり」
私はグッタリ状態のままこの最後の稽古に挑むことになる。「まだやるのか」という思いを持ちながらも「これ以上になるってどうなっちゃうんだろう?」という好奇心もあった。

身体の表に広がる地平線と背後に広がる大海原を意識し、垂直歩行で一歩踏み出すごとに「我ここにあり」と宣言する(口にはしない)。単純かもしれないが、動きと意識の説明の時点で私の脳内では『もののけ姫』のシシ神様が歩くときの映像が何度も流れていた。そして最上さんの見本のお姿は「青き衣をまとったナウシカ」にしか見えなかった。

私は前半組だった。始まる前からすでに吐き気と頭のグワングワンがあり、先月のコロナの高熱で立っていられない状態と似たような状態で立っていた。
いざ始めると、地平線を見る目線というのがさっきのスローの稽古のお茶碗に対する目線と同じだということに気づいた。そして今までは見てくれる人たちの方に自分の顔を向けるということが少しやりづらかったところがあったが、地平線を見る目線ではそれが全くなく、そして見てくれている人たちとのつながりをしっかりと感じながら稽古ができているような状態だった。これは今回の稽古のプロセスを経て至った状態だろうと思う。

そして私は歩き始めてすぐ恍惚状態MAXになった。「私はこんな世界を生きていたのか」「ヤバい!」と思いながら昇天の境地で歩いていた。今まで「恍惚」というのをはっきりと感じたことはなかったように思うけれど、この稽古で初めてしっかりと感じれたように思う。

見てくれている人たちに近づくにつれ、私と皆さんとの間の密度がとても高くなっていることを感じた。これはあとから振り返れば、稽古終了後のシェアで井上さんが「見る側も覚悟をしてみなければと思って見ていました」とおっしゃっていたが、その覚悟が私の方にもしっかりと届いていたということなのだろうと思う。そういうのが本当に手応えとしてわかるようになるのが面白い。

「これ以上近づいたら5月のペアの稽古の古谷さんの間合いに入ったのと同じ状態になる」というギリギリのところまで歩き、そこから向きを反対方向に変えた。が、後ろを振り向くと半田監督の掛け軸が強い呪力を放っているのだ。私は強烈な呪力に畏怖を覚え、吐き気が再来してきたところで鈴が鳴り、終了となった。

起きたことを書き出すだけでこんなに膨大になってしまった。というかまとめることができないので今回はこれでよしとしよう。最後まで読んでくださった方、ありがとうございました。








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