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おじいちゃんの話

数年前おじいちゃんが亡くなった時、自分のFacebookに書いたことと、お葬式のお別れの言葉をあわせて、編集しました。
書き残したかったことを、書いておきます。

2014年11月3日、父方のおじいちゃんが亡くなりました。
親父がスプーン3杯お茶をあげたら、消えるように意識がなくなっていきました。

おじいちゃんおばあちゃんと同居していなかったぼくがよくおじいちゃんと接するようになったのは、亡くなる3年前ほどからでした。
おじいちゃんはうちの母親がずっと介護していて、入退院を繰り返しては、家に帰ってきてぼくらとの時間を過ごしていました。

それからおじいちゃん本人の話を聞いたり、おじいちゃんをよく知る人から話を聞くと、今まであまりよく知らなかったおじいちゃんがどんな人だったのかわかってきました。
おじいちゃんは世のため人のためなら、自分は損をしても構わないという人でした。

美味しいリンゴを世に出すため努力を惜しまず、様々な学校や地域の役を引き受け骨を折る。
例え報いがなかったとしても私利私欲を考えず、人のためになるならと全身全霊をかけ尽力する。
人の気持ちに気づくことができ、真面目で誠実で実直な人柄が、地域の人や周囲の様々な人を巻き込み、この地元を活性化させてきたのだと思います。

それは家族に対してもそうでした。

おじさんやおばさん、父から聞くおじいちゃんの姿はまさに昭和の頑固一徹無口な親父で、ぼくの知っているぼくたち孫ひ孫をかわいがってくれるおじいちゃんとはかけ離れていました。

しかし、そんな頑固で恐ろしい父親の本当の姿を垣間見たのは、倉庫にあった古いアルバムを見た時です。

そこには、若いおばあちゃんや幼いおじさんおばさん、父を優しく見つめる若いおじいちゃんの姿が写っており、そしてその写真は丁寧に丁寧に、一枚一枚きれいにアルバムに貼ってありました。
我が子たちの成長を願い、微笑みながらアルバムに写真を貼っている若いおじいちゃんの姿をぼくは思い浮かべました。

家族を守り、正しい道に導かなければならないという責任感と深い愛があるからこその頑固さだったということ。

年をとって、自分の子供たちが自立したとき、その頑固さはやがて剥がれ落ち、ぼくらの知っている優しく穏やかで無口なおじいちゃんが本当の姿だったんだということがわかりました。

介護を受けていたおじいちゃんは、介護する側や家族の心配をいつもしていました。
自分は体が辛くそれどころでないはずなのに、いつもそれを我慢して、優しく微笑んでいました。
最後までおじいちゃんはおばあちゃんや息子娘の気持ちを感じて気づかいを示し、孫ひ孫のことを黙って穏やかで暖かい眼差しで見つめてくれていました。

認知症が進んできたおじいちゃんは、時々夜になると夢か現かわからなくなって軍隊の時の訓練を思い出してはうなされたりしていました。ある時は「洗いざらしのジーパン一つ」なんて歌を涙を流して歌っていました。ぼくらは、それを何の曲だかわからなくて、「静かにしてね」なんて言っていました。

おじいちゃんが亡くなり、翌々日。
おじいちゃんが骨になっていくのを待つ間、焼き場の畳の部屋で親戚の方たちと話をしていると、おばあちゃんの妹さんがその「洗いざらしのジーパン一つ」と歌っているのを聞きました。

「それ、おじいちゃんが時々歌ってたんですけど、何の歌なんですか?」

と聞くと、そのおばあちゃんの妹さんに五木ひろしの「ふるさと」って曲だと教えてもらいました。
ぼくはその場でiPhoneで歌を調べました。
そしてそのおばあちゃんの妹さんはぽつりと、

「東京に出て行ったあなたのお父さんのことを思って、おじいちゃんは歌っていたのよ」

と言いました。

誰にでもふるさとがある、と歌われるその歌をきっと、おじいちゃんは親父が東京に行ってしまった寂しい思いで歌っていたのでしょう。
親父が家を出て長野から東京にいったのが1974年3月、その歌の発売日は1973年7月。
タイムリーな歌をおじいちゃんはいつまでも忘れていなかったみたいです。
ふるさとがあるから帰ってきて欲しいという願いを込めて。

時は経ち、親父が東京からおじいちゃんが暮らす地元に戻ってきました。ぼくら家族も共に。
おじいちゃんは本当に嬉しかったと思います。
そして自分が年老いて介護される身になり、親父と結婚した母親に介護される日々が続きます。

亡くなるその日、母親と妹は大阪にいました。家にはおじいちゃん、ぼくと親父と弟のお嫁さんとその子供(おじいちゃんにとってひ孫)しかいませんでした。
おじいちゃんは母親に最後の苦労をかけさせたくなかったのではないかと思います。
介護って並大抵のことじゃなかったから、せめて死に際の最後の苦労だけはかけさせまいと。

親父がお茶をスプーン3杯あげた時、おじいちゃんは安心したのかなと思います。東京に行ってしまった自分の息子が、帰ってきて自分にお茶をくれている。
そう思うだけで安心できたから、意識がなくなっていった…
なんて、つじつま合わせでしょうか?
でもぼくにはそう思えて仕方ないんです。

お通夜が終わった夜、親戚たちと飲んでいると、いつも酔っ払って爆睡している親父が、いなくなっていることに気づきました。
気になって探すと、親父はおじいちゃんの亡骸の横で、おじいちゃんの大好きだった日本酒を飲んで静かに泣いていました。

その姿を見て、ぼくもなんだか涙が出てきました。

亡くなってからお葬式が終わるまでの数日間、ぼくはなんだかおじいちゃんと親父たちの何十年にも及ぶ物語を見せられたような気がして、それでずっと泣いていました。
おじいちゃんが亡くなって悲しいというのもあったけど、尋常じゃない親子の絆に感動して、ずっと泣いていたんです。

で、自分の話です。もう自分と親父、母親との物語は始まっているし、自分の子供の物語も始まるのかもしれない。
そう思うと、おじいちゃんはもういなくて、死っていう冷たいものに触れたのに、なんだか巡り巡ってるなって温かい気持ちになれました。

これをFacebookに書いた後、ぼくも結婚して、子供が生まれました。そして、これから仕事の責任が増えたり、孫ができたり、ひ孫を見ることができるかもしれません。
ぼくはおじいちゃんを師の一人として尊敬し、仰ぎ、責任感を持ち、人のために努力を惜しまない人になり、家族を深く愛し、大きな優しさで包む人になることを、決意しました。

これを読んだ誰かの心に、すこしでもこの物語が残ってくれればいいなって思います。

そして、おじいちゃん。
おじいちゃんと飲んだお酒、本当においしかった。
今まで本当にありがとう。
あれから、数年、おじいちゃんみたいな人になれているかな。
これからも頑張るよ。

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